将棋をしているとあまり役に立つと思えんが念のために打っておこうかと思って指した駒が後で王手の決め手になったりする。
勉強も仕事も同じで、こんなことやっても仕方ないかもと思っていたことが後で役に立ったりする。
将棋をしているとあまり役に立つと思えんが念のために打っておこうかと思って指した駒が後で王手の決め手になったりする。
勉強も仕事も同じで、こんなことやっても仕方ないかもと思っていたことが後で役に立ったりする。
新年早々ややシリアスなテーマかもしれませんが、人間に限らず生き物はなぜ痛みを感じるようにできているのでしょうか。
生物学的、医学的に深掘りするときりがありませんが、一言で言うならば「痛み」は単なる不快な感覚ではなく、「自分と世界の境界線」を知り、他者とつながるための重要な教材です。
もし、心身の痛みをほとんど経験せずに大人になった場合、その人物の社会性や精神構造には、いくつかの大きな課題が生じることが予想されます。
身体的な痛みを知らないと、自分の体の限界が理解できません。
無謀な行動: どの程度の衝撃で骨が折れるか、どの程度の熱で火傷するかを実感として持てないため、リスクを正しく評価できず、大怪我を負う可能性が高まります。
健康管理の遅れ: 内部疾患の兆候(腹痛や頭痛など)を軽視、あるいは「異常」として認識できず、病気の発見が遅れるリスクがあります。
心理的な痛み(挫折、拒絶、悲しみ)を経験していないと、他者の苦しみを想像することが困難になります。
無意識の加害: 相手がなぜ傷ついているのか、自分の言葉がどう相手を刺すのかが分からないため、冷酷な言動を悪気なくとってしまう可能性があります。
深い人間関係の構築が困難: 人間関係の絆は、お互いの弱さや痛みを共有することで深まる側面があります。痛みを知らないと、表面的な交流に留まりがちです。
人生で初めての「大きな痛み」に直面したとき、それを乗り越える免疫がありません。
脆弱なメンタル: 子供の頃の小さな挫折(心理的痛み)は、大人になってからの大きな困難に対する「予防接種」のようなものです。これがないと、大人になってからの失敗でポッキリと心が折れてしまう危険があります。
対処法の無知: 痛みをどう和らげるか、どう付き合うかというスキルが育っていないため、パニックに陥りやすくなります。
常に「無敵」な状態で育つと、自分を特別な存在だと勘違いする(全能感)一方で、他人と痛みを分かち合えないことによる根源的な孤独を感じるようになるかもしれません。
痛みを知らずに育つことは、一見幸せなことのように思えますが、実際には「人間としての解像度が低い状態」で社会に放り出されるようなものです。
「痛みは、優しさの根源である」 という言葉があるように、自らの痛みを乗り越えた経験が、自分を大切にし、他人に優しくする知恵へと変わります。
ですので適度な痛さは人間にとっていろいろな意味で学習と成長の機会を与えてくれる大事な教材と言えるのです。
久々の町内会ネタです。
個人的にまことに遺憾なのですが、私が町内会長として2年間阻止し続けた野上公園への集会所移転が今期の町内会で決定されてしまいました。
資金が足りない、役所から公園の使用許可が下りるまで何年かかるかわからない、しかも全300世帯中わずか60世帯しか賛同していないにもかかわらずです。
とうとう我が玄甫町は令和の時代にもなって第二のインパール作戦のような愚行を犯す羽目になってしまいました。