古代史探訪 & 『古代の福岡』 | Hiroshiのブログ

Hiroshiのブログ

今後不定期投稿となります

今週はかろうじて補習なしで学習がクリアーしたので早々にアップ♪

 

 

 

<古代史探訪>

『古代の福岡』を読み終えたので、金曜午後に現地調査で太宰府政庁に行く。政庁跡には何度も行ったが、その西隣に蔵司跡地があるらしいが、一度も行ったことがない。

 

まずGoogle mapで何時ものように調べて、本の地図と比べると下の地図の中央にある池の直ぐ下へんらしい。2つの四王寺山からの小さい尾根の間に池があるが、その下辺らしい。 蔵司が池の下に位置するのはおかしいと思ったが、多分当時に池はなかったのだろう。その後、地図とGoogle mapの違いによるものであることがわかる。もしかしたら池が小さくなった可能性もあるし、あるいは先の考えのように池は当時なかったのかも?

https://www.google.com/maps/@33.5141567,130.5121958,284m/data=!3m1!1e3

 

追伸:

考えるに池の右半分が干上がって、Google mapの写真が撮られた時点では左側(西側)の一部のみが池になっていたのかも?

 

下調べに従い、小中学校の東隣の駐車スペース、政庁通りに沿って長細い駐車場に車を停めさせてもらい、池に向かい北上。実はこのアプローチは駄目だと後から判る。実際には地図上で右側(東)の森の中にある。従って政庁跡地からのアプローチがいいが、これはこれで後で問題がある。楽に到達できるが途中で進入禁止の立て札があり。そちらからいけないことになっている。遠回りをした分、禁止の立て札(遺跡保存の為?)に悩むことなく蔵司に行けたのは半分幸運と、良いように解釈しよう(汗)

 

駐車場から移動(実は先に見える森の中にあった)

 

池を目指して北上中。ここから道がなくなるので強引に森に入る

 

蔵司跡の柱の土台がほぼ東西に並ぶ。

 

石の土台の1つ

 

反対側(東側)に出ると政庁跡地の隣に看板が出ているが、その場所には現在何も痕跡はない。

 

 

 

 

<α波測定器>

大昔に入手したα波測定器。α波が出ると音がするので呼吸を整え、α波の出るような姿勢と呼吸法を見つけることで容易にα波状態=瞑想状態に入っていくのを助ける装置。

 

これは「ねえね」さんの記事に触発されたもの。

 

 

 

 

『古代の福岡』

アクロス福岡文化誌編纂委員会編、海鳥社、2009年初版。

 

1万3千年前の最終氷河期には海面が120mも低く、p8 しかも気温が7度近く低かったので対馬海峡も陸橋、あるいは氷床で繋がっていた可能性が高い。p28 それゆえ日本列島にもナウマン象が生息していたとか。p9

 

2400〜2500年前、縄文末期にまず北部九州(玄界灘沿岸部)に農耕文化が導入され、それは徐々に内陸に広がったと考えられている。p11 

 

更にその遺跡の規模から非常に完成された形で、しかし小規模に水田経営をしたと、考古学的解析からは考えられている。同様なことは土木工学関係の研究者も述べていたこと。また当時は縄文時代以来の畑作や海産物、森の恵みなども得る共存の時代だとも。p38

 

この点について、著者はこれらが同一の主体によって行われたという文脈で語られるが、p39 

 

場合によっては別の集団が棲み分けしていたという考え方もあるはずだが、さてどうだろう? 即ち縄文人と弥生人の共存の可能性だ。この違いは大きいはず。

 

伊都国は現在の糸島の前原地区ということが確定されているが、この持つ意味は大きかったようで、それは魏志倭人伝が邪馬台国以上に記述していることからも分かる(111字)ここでは石斧が大量に発掘されているが、これは発掘されている今山遺跡自体が石材である玄武岩でできた独立丘陵だとか。この石斧は木材の伐採に使われ耕作地の拡大や住居の建築に必要だったみたいだ。なお、この石斧の分布は佐賀、福岡、熊本の北部(阿蘇は除く)に広がっていることから北部九州に相当流通していたみたいだ。p41 

 

何度かその側は通ったことがあるが、全然知らなかった。いつか現地調査して玄武岩による独立丘陵とやらを見てみたい。