勝率1割?! & 『太宰府史跡ガイドブック2』 | Hiroshiのブログ

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今後不定期投稿となります

<数値目標>

https://www.youtube.com/watch?v=rqCA-PAqcdE&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=12

HSK4#10~#12 背了四十二分钟单词。

 

https://www.youtube.com/watch?v=5YFgtuiQE_8

王陽のほぼ毎日中国語#95,十六分钟。

 

https://www.youtube.com/watch?v=WoL2TCPjV6g

https://www.youtube.com/watch?v=PnrjzgX8zqE

『まる見え中国部』385,441 看了十六分钟TORO频道。都羊了!!

 

https://www.youtube.com/watch?v=93VZUEQE5xk

【完全版1~1200】HSK5,0~31min,背了一个小时单词,

 

https://www.youtube.com/watch?v=pDcpDkcPCBY&list=PLX5jhIuWaM7gkN2-iTCRDLqf-XqXbhCcf&index=80

【青島日美】中級77~80 学了十八分钟讲座。

 

https://www.youtube.com/watch?v=x8Pp0JdHPec

とある中国人のむいむい,看了十一分钟的频道。一共两个小时四十三分钟。

 

运动;爬山散步 2.6km,4395步,1楼。 

 

今日は昼からミゾレ混じり。夜の散歩の代わりに図書館とモールと買い物に行き、散歩の代わりにすることにした。階段はなかったが距離はそれなり? それと、電力シフトの為、少し時間を前にずらす。

 

モールでトイレに入ったところウォシュレットが故障だとのサイン。半導体の入手が困難で時間がかかるとのこと。恐らくこれは中国のコロナ拡大と無縁ではないと思った次第。 それにしても自分自身、十数年前はウォシュレットなど使っていなくてもなんともなかったが、今や無しでは済まされない状況になっていることに気がつく。別のトイレに移動(笑)

 

 

 

 

図書館に行った時、普段近づかない書籍棚(ビジネス関連)の前を通りかかった時、ある背表紙が目に刺さった。それは「一勝九敗」という題名。早速手にとってパラパラと目を通してみた。どうやら著者はあのユニクロの創設者らしい。

 

副題に「ユニクロも失敗ばかりだった」とある。あの有名な企業にしては意外な感じがするとともに。そしてこれって研究と同じだなと感じた。

 

勝率1割は研究ではいい方。でも流石にビジネスでは難しいだろうと考えていた。こんな勝率では倒産してしまうだろう? おそらくリスクヘッジを何らかの形でしているだろうと考え、取り敢えず借り出すことにした。また読んではいないが、さて如何だろう?

 

 

 

 

『太宰府史跡ガイドブック2』

特別史跡大野城跡、九州歴史資料館、2015年初版。

 

短いパンフレット程度の本だが、知らないことが色々書かれていた。何より地元の史跡。いずれ現場に行かなければ。

 

大野城の城壁は北の宇美側と、南の太宰府側は城壁が二重になっている。「目」字構造。p10―11 別の本によれば、物流的には北側からが便利で南側は太宰府政庁からのアプローチということなのだろう。勿論、太宰府側の備えは見た目にも堅固に見えるが、ハリボテの部分=貼石垣もあるとか。p30 兎に角、白村江の戦いで敗れて、急いで築城したという事情がある。

 

石垣の部分もあるが基本、土塁。これは百済の技術によるもので、元はと言えば中国の版築法。粘土質と風化花崗岩からなるまさどの重層構造。p28―29

 

石垣については、『中近世の城郭石垣とは全く異なる特徴があるらしい。1メートルの高さごとに横方向に目地が通る「単位布積み」や重箱積みにした石材を地山にもたせかけるようにして石垣の安定をはかる「もたせかけ積み」らしい。これは朝鮮半島に同じ構造があり、渡来人によるものだろうということ。p31

 

文章だけで具体的な構造が判らないのでこれは今後の課題だが、そもそも大野城も基肄城も百済系の渡来人によるとされているので当然だろう。

 

興味深いのは大野城と基肄城にそれぞれ35棟の倉庫があり、炭化米が発見されていることから稲穀が保管されていたと仮定すると1棟に4000斛収納されるらしい。1斛は1人が一年で食べる量だとすると膨大な量の稲穀が保管されていたことになり、対外防衛の為のものと考えにくいので、これは九州各国へ飢饉などに備えてのものだと考えられているらしい。事実それを示唆する木簡が発見されているらしい。それによれば北部九州へ分け与えるように書かれていたとか。p38

 

また、これだけの穀物を山のうえの不便なところに蓄えるのは大変だが、これについては長期保存を考えると、温湿度管理や政変による略奪などから守るという意味もあると考えられているとか。p39

 

別の本にも書かれていたが、大野城からは須恵器に「館」と書かれたものが見つかっていて、ここにも役所があったと考えられているらしい。p34

 

大野城の城としての記載は貞観18年(AD876)が最後で、あとは信仰の場として、すなわち四王寺の山として残るのみ。その名前を我が住む団地も受け継ぎ、「炭焼き」からオシャレな「四王寺坂」として現在に至っている(笑)

 

太宰府政庁を囲み大野城と基肄城それに水城の位置についてはこの図が分かり易い。p9   下の図の大野城の太宰府側城壁が二重に線が入っていることがわかるだろうか?