<数値目標>
土曜は朝から国勢調査票の袋詰め作業をスタート。これが結構緊張する作業。
まず「調査票」に世帯の種類(一般、寮、病院など)住居の形態(一戸建て、長屋、マンションなど)世帯に配る枚数(一枚四人まで記入可能なのでそれ以上だと複数枚必要)をマークシート形式で鉛筆で記入する。
この記入済み「調査票」と、住所番号とインターネット回答用のIDとパスワードが記載された「インターネット回答利用ガイド」、記入の仕方の「手引書」、「回答用封筒」の4つを決められた順番と様式で、かつそれぞれに印字されたIDが同じであることを確認しながら袋詰めしていく。一度、袋から調査票を出してマークシートに記入する操作が入るので、入れ間違いが起こらないように必ず1セットごと別々に行う。
昼までかけて、これをほぼ70世帯について行い完了させる。これで配布の準備はあらかた完了。あとは配布の時点で再度チェックをすれば大丈だろう。
来週金曜日にはここまでの準備状況、特に『調査区要図』『リスト表』の確認を役場の指導員の人と一緒に行い、万全を期す。
土曜は午後からモールのスタバか、別のショッピングセンターのコーヒー店に行くことが多いが、昨日も行ったし何より外は猛暑。出そびれてクーラーの効いた部屋から一歩も出ず。気がついたら万歩計は0キロ表示。慌てて夕食後、散歩に出る。
3.4km, 5342歩、5階*分の運動を行う。今日は坂道経路で丘を登ったがこれは階段分には計算されないことがわかる。坂道のモーションキャプチャーでは上昇運動が認識されないのだろう。因みに今日も40メートルの高度差をクリアーした。
『文字の発見が歴史をゆるがす』4
西晋崩壊後の時代とされる楼蘭で発見された「李拍文書」についての解析が面白い。この時代、五胡十六国時代とされ中原は混乱期だが、意外に河西は安全地帯だったとか! 知らなかった。
そのため、涼州(現在の甘粛省)は中原から避難した人々により「文化的飛地」として繁栄していたとか。p202 p211 やがて西晋の刺史(地方長官)の家系から独立国的な「前涼」が建国される。
王羲之が「蘭亭」を書いたのは東晋の時代(東晋英和9年=353年)とされているが、原本は存在せずいずれも模写であるためせいぜい遡って唐代、昔から偽作説が囁かれていたらしい。ところ楼蘭で同時代の筆跡が発掘され、しかもしれが王羲之の作風を模倣していることが明らかになり偽作説に対する強い反証となったとか。しかも、その作風は王羲之の壮年期と晩年期のそれぞれの作風を模倣するものがあり、俄然、信憑性が高まったとも。p212
それとは別に楼蘭出土の紙には滲み防止策として表面加工がされているとか、これは「戦国郭店楚簡」でも滲みがなく竹簡、木簡時代から既にこの処理が行われていた可能性があるとか。特に竹簡の場合は滲むのが普通だとか。p219
トルファンなどからの発掘で多くのリサイクルされた文書が見つかった。これらは裁断されて死者が身に付ける紙製の帽子、靴などに再利用されたが、ここに王羲之の書を模倣した手習用の文書が見つかった。p223 例として挙げられたものは靴の底敷型に切り取られた船型をして同じ字が何回も書かれている。p228
どうやら、王羲之の書の流行は唐代のそれと同様に、文化人、学生の手習・流行に留まり、カロリングルネッサンスやアッバース朝での書体改革が王朝主導の行政文書変革であり、その後の王朝の繁栄といったものに結びついたのに対して、趣味的、教養的なものに止まったということだろう。p248