<数値目標>
运动; 散步4961步, 3.9km, 9楼。
一足先に運動始め。今回団地のある台地の東側、丘陵沿いに歩く。大きなトラック基地がある。1つ峠を越えれば30分もかからず福岡市内に入れる、立地がいいのだろう。
団地南側の谷側に新たな調整池とかなり大きな運動場も発見(後で宇美町総合スポーツ公園であることを知る)。30年も住んでいるのに知らないことばかり。
遊歩路が綺麗に整備されているので散歩する人がそれなりにいる。初めての路なので何時もこのくらい人がいるのか、それとも緊急事態宣言で私のように俄かに運動し始めた人が出たのか不明。すれ違う時はお互い反対側を向き無意識に息を止める(笑)
<連休最終日>
さて、今日が連休最終日。明日からまた勉強を再開すべきだが、どうなることやら。
それはそれとして、今日も今日とて読書三昧。天気が良くて爽快だったが読書の方はなかなか進まない。『線文字Bの解読』の言語学の難解さに挫け、目先を変えて『危機と決断』を拾い読みし始めるが、金融政策素人の身にはなかなか頭に入らない。例えばこのような一節がある。
『欧州中央銀行の本部は… フランクフルトに置かれた。それが象徴するものは明らかだった。欧州中央銀行は、南欧の中央銀行の特徴であるハト派のアプローチではなく、ドイツ連銀がインフレに対抗するために取っている「ハード・マネー」の立場を採用することを期待されていた…』「危機と決断」下巻p266
上記の文章がスッ~と頭に入るほどの知識はない。ただそれでも後に問題となる南欧のPIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペイン)とドイツを中心とする中央ヨーロッパの国々が同じユーロで統合されること難しさは以前から感じていたこと。これがのちに「ギリシャ危機」を引き起こす。
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/2157/trackback
財政政策も社会保障も医療も教育もそれぞれの国が別々に行っているのに、通貨だけは同じ?それは難しいでしょうと以前から感じていた。それを「防火扉は必要」と例えたことがある。ただしそのような矛盾を抱えながらもEUの理念については同情的だったのだが… かつて以下のように述べた。
『<ヨーロッパから永遠に戦争を失くす為の壮大な実験> だと思うから。 だから矛盾を抱えることを、やがてそれが破綻への道を進むかもしれないことを承知しながらも、拡大EUの道を押し進んだ。むかしそれが判らず歴史的、文化的背景も違う国までも(東欧や南欧)どんどん参加することで違和感を持った しかし今はEUの真の目的が判る気がする。』
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/2986/trackback
<切り札=ロボット型完全自動PCR機器>
プロトタイプは既に2017年に開発されていた。このFeatures type、RNA virusにも使えるものが、つい先ほど発表された(3/11)もののようだ。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200311-00173171-bcn-sci
現在開発されたものは、以下の動画の2.43min以降のタイプのよう。
https://www.youtube.com/watch?time_continue=13&v=c9kJXbhl8UI&feature=emb_logo
韓国では既に導入されているらしい。基本はこれまで日本が得意としたロボット工学だから技術的に難しいことはない。これで手動操作はなく、人が関わらないので無菌室やP3レベルの施設も不要。せいぜいP2 roomに機械を放り込んで、24時間フル稼働させれば良い。多分PCRはLamp法を使えるだろうから。余分を見て1サイクル2時間かかるとして、みたところ同時に12検体(あるいは24検体?)を扱えるようなので、12 x 12(24) = 144(288)検体。 Negative controlと検量線決定用のサンプルを加えても1日1台で最低100(200)サンプルは出来るのでは? 検査技師3(6)人分程度といえば少ないようにも感じるが感染リスクなしで、24時間フル稼働出来るというのは凄い。これで発展途上国並みのPCR検査もようやく日本も先進国並みになる?
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/6149/trackback
韓国の1/10、アイスランドの1/100以下の検査体制が少しは改善させられる?
https://ourworldindata.org/what-can-data-on-testing-tell-us-about-the-pandemic
いずれにせよ、年寄りのRNA抽出ボランティア申請は無用のよう(笑)
https://blue.ap.teacup.com/applet/salsa2001/6132/trackback
『危機と決断』の上巻を紹介終わったところで一先ず中断して、その間に読んだ別の本、『12世紀の修道院と社会』を先に紹介する。
『12世紀の修道院と社会』
杉崎泰一郎著、原書房、1999年初版。
冒頭著者はこの本がこれまであまり研究がなされていない奇跡集、聖人伝、教訓逸話集など修道院の広報的文書の解析を主とし、読み手である俗人(貴族や庶民)との関係を中心にしたという。p6 その理由の1つに当時、修道院は様々な組織改革がさけばれ(特に托鉢修道会からの批判)『生き残りをかけて広報活動をおこなう必要に迫られた』ことがあるという。p8
昔、この本を読んだきっかけはキリスト教に異端的とも思われる、幽霊伝が何故纏められたのかとの問いだったが、今回はまさしくこの著者の視点が自分の意識と重なる。
修道院長の任期は長く、オド(927~942年)15年、マイオルス(965~994年)29年、オディロ(994~1048年)54年、フーゴ(1049~1109年)60年、ポンス(1109~1122年)13年とあり、p21 最後のポンスを除き、おそらく終身制だったのだろう。ペトルス自身も30年つとめたが、其の就任直後前任者であるポンス派との間で分裂状態が起き、最終的には法王の裁定でポンス派が敗北したことで彼は実質的な院長に就任できたという。
ここにもクリニィー修道院の内部的問題が垣間みられる。それ以外にも先に述べたように旧来の組織はその富の蓄積、豪奢な生活、典礼偏重など新興のシトー会などの托鉢修道会から厳しく批判されていた。なお前任者ポンスが院長を追われたのは新興修道会勢力に共感し改革をクリニューに導入しようとしたからだとされる。つまりペトルスは保守派に担がれたということになる。p35
ただし、本文中に書かれていたことによると、ペトルス自身も改革に共感していたとのこと。当時のクリュニー修道士の出生は領主身分であり彼らが生まれの生活風習を修道院に持ち込んだのはある意味当然のことだろう。p36 また死者祈祷などからの返礼による寄進が重要な財源だったこともある。p88
こうした修道会をめぐる厳しい状況からペトルスは広報活動を活発にする必要性に迫られたのだろう。それを示すものに彼は30年間の在職中に8年に渡るヨーロッパ各地を巡歴したという。その中にはイタリア(10回)イングランド(2回)イスパニア(1回)ドイツ(1回)が含まれる。p29 当時の交通事情を考えるとこの巡礼は大変なものだったに違いない。またそれを支えた修道院のネットワークにも驚かされる。当時、これらの地方はそれぞれ異なる言葉が話され、ラテン語を話す修道士は唯一の共通語を持ち得たわけで、それがこのネットワークを可能にした。