『エリュトゥーラ海案内記』2 | Hiroshiのブログ

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<台風から温室効果ガスについて考える>
今回の台風は大きかった。川の氾濫もあちこちであり相当な被害を引き起こしたようだ。この時期大型台風が生まれたのは海水温度が例年になく高かったことによるだろう。それが地球温暖化と関係があるのか、さらには温室効果ガスの増加に繋がるのか、実はよく判っていないというのが私の理解。世の中には温室効果ガスの増加>地球温暖化のストーリーを当然のことのように語る人は多いけど、それに反対するアンチ環境派もいる。そんなことを考えているうちに、この辺の最新の議論を調べてみようという気になった。

結論から言えば、両派ともに論拠が弱い。しかし、これはある程度仕方ないとも言える。何故なら地球を相手に因果関係を調べる対照実験は出来ないのだから。

<CO2増加が温暖化の主な原因か?>
まず背景として、地球温暖化に関する論文の97%はCO2増加が温暖化の主な原因とし、反対する論文は3%。

YES派:
別の有力な仮説=太陽活動:300年前に太陽活動が非常に弱い「マウンダー極小期=~70年」では産業革命前の平均気温より0.5~1°C程度の低さで、人間活動を入れないシミュレーション(=太陽と火山活動だけの影響)と、人間活動によるCO2などの増加を入れたシミュレーションとで比較すると、人間活動を入れたシミュレーションでないと観測された気温上昇の説明ができないとする。
http://www.cger.nies.go.jp/cgernews/201806/330006.html

<個人的評価> この論者は回帰分析とシミュレーションによる結論。比較実験ではないので「因果関係は問えない」というのが個人的理解。


NO派1
http://ieei.or.jp/2019/10/expl191011/
<個人的評価> 冷静な議論がされているが、これもシミュレーションによる結論。因果関係は問えない。

NO派2
http://ieei.or.jp/2019/07/sugiyama190701/
<個人的評価> この論者は科学的議論をしていない経済ファースト派。ま、論外かな?(笑)

以上の研究・議論では「CO2原因論」を肯定することも否定することもできない。ただし、地球を使った比較実験はできないから仕方ないとも言える。


参考までに、これまでの「悲観的未来予測」と「現実」を対比して挙げると、

原油の枯渇と価格高騰>>ロシアの産油国化とシェールオイル開発>>問題なし
酸性雨>>東側産業の西側への統合吸収>>問題なし
 上記2つは努力と幸運の結果

オゾン層破壊>>フロン禁止>>問題なし
 効果不明

狂牛病>>問題なし
2000年バグ>>問題なし
 この2つは過剰反応?

この記事は男子汉さんの記事にインスパイヤーされたもの。
https://ameblo.jp/nanzuhan/entry-12533511870.html



『エリュトゥーラ海案内記』2
この本、冒頭に100ページ近い序説が続く。その後で40ページ程度の短い本文=案内記が続き。最後にこの本の半分ほどのページ、つまり150ページほどの注釈が続く、異例の体裁。

とはいえ、序説なしには背景が分かりにくいし、後の膨大な注釈も本文を読む上で必要だ。それにしても航海、インド洋、そしてアフリカ東海岸の案内記としてはとても簡潔というか短いことに驚く。1世紀ごろに書かれたと分析されているが、やはり当時はこうした本(写本)というのは貴重で、そう簡単に創られるような代物ではなかったということか?

ここで幾つか、驚くべきことが書かれていたので、それについて記録すると。アフリカ東海岸のこの案内記では最南端にRhaptaという港がある。これが実は南アラビアの「飛び地」でここに商売に訪れるアラビア人は現地の住民と親しく姻戚関係にもなっていたということ。p82 現在のソマリア・ケニアの南、タンザニア付近に想定されている。なおここまでに至るアフリカ東海岸は統一された王国はなく、それぞれの地域が異なる部族長で支配されていたとか。これは当時、南アラビアがかなり統一され、指定された入港できる港もMuzaだけだったのとは異なる。Muzaは現在のイエメン、紅海の海峡のすぐ北のアラビア半島の西岸端に当たる。p86 

序説の最後に村川氏はプトレマイオス時代の記録からこの案内記の著者が商人というよりも船主ではなかったかと推察しているが、これは水路図の記載が詳細を極めていることによる。p92 


本文に入り、18章(これは便宜的に訳者がつけたもの)に驚くべきことが書かれていた。それはRhaptaから南にさらに進むと、西の方に大洋はつながり大西洋と繋がっていることを記載している。p112 つまりこの時代に既にアフリカ大陸周遊コースがあることを知っていたということ。改めて地図を見ればRhaptaは南アフリカの喜望峰への中間地点。同じ距離をさらに南下すれば大西洋に出れる。