普通が一番幸せだと気づいた人生の折り返し地点 | 【神の叡智】ロゴス ブログ ~ Logos blog ~

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このブログでは、学問的な宇宙からの叡智を発信しています。

私はダンサー25年選手です。

なので通常よりも「栄光」を手にする為の努力や、

その過程での経験や挫折を人一倍してきたと思っています。

 

私の人生ではいつからか「特別」でないといけないというマインドがありました。

最初は憧れだったはずなのですが、

 

いつしか将来食べていかないといけないという概念に押され

特別でなければ価値がなく認めて貰えない。

認めて貰うには特別にならなければならないという

 

 

WANTからMUSTへと変わっていった。

そんなある意味ダンスや他の活動も手放しつつある今の私が感じるのは、

 

普通が一番だという事だ。

 

 

活動していなければ、

全ての時間は自分の為に費やす事が出来る。

 

他人との衝突もなければ、

変に自分の生き方を見られて干渉や介入される事もない。

 

ストレスフリーの為、

全力でしたい事が出来る。

 

生活が充実し、仕事にも精が出る。

 

それで活動をしないのかというとそうではなく、

バリュー(付加価値)を気にせず、

 

自分のペースで自分の好きなように好きな範囲でやっていく。

しっかり自己肯定が出来、承認欲から卒業できれば、

人に今の自分をアピールしたり、見て貰おうという衝動がなくなる。

 

すると自然とネットでの投稿も減る。

 

今人生の折り返し地点、

人から見たら不安を感じさせるような生活をいまだにしているだろう。

 

しかし私自身は将来に不安はない。

もしかしたらこのまま結婚しないかもしれないし、

子供も作らないかもしれない。

 

でも日々笑顔で生きているし、

充実した毎日を過ごしている。

 

未来への備えも少なからず少しずつ進めているし、

色々あるけどなんだかんだ人に恵まれ、

周りの人と上手くいっていると思っている。

 

逆に自分の事を心配してくれる方々を安心させるにはどうしたらいいか?

を心配する事の方が人生において要らない不安だと思いながら、

 

それが今の自分の生活の中で

一番の悩みの種だったりする。

 

結局話は冒頭に戻るが、

「普通」が一番。

 

大きな存在でなくていい。

特別でなくてもいい。

 

自分のままであればいい。

 

普通とは言ったが、

サラリーマンとか社会の何かのポジションとか、

誰かが考える普通や安定に自分をはめていく事ではない。

 

それは十分頑張ってきた。

それは自分に合わなかった。

 

それが分かった、良かったではないか!

 

なのに、それを他人を安心させるために

何度も失敗してきた事を他人の為に頑張るのはゴメンだし、

 

それで失敗した時に「お前の頑張りが足りないから」とか

「やっぱりお前はダメなやつだな」と身勝手にハンコを押されるのもごめんだ。

 

私が思っている普通とは「自分にとっての普通」

つまり、普段通りの自分の延長であればよい。

 

時代のトレンドがコレだからだとか

今はこれだと儲かるとか

 

これがないとこれから生きていけないとか

これがないと老後は生きていけないとか

 

それもこれも考えないといけないのは

結局自分の能力をフルに生かす環境を作らなかった、

もしくは作れなかった人が言っている事が多いように感じる。

 

これを読んだ人はきっと

「なんだお前、まだその段階か」と思う人もいるだろう。

 

でも、きっとこの段階の階段を通るのを避けて、

自分を全うしていない生き方をしている人よりかは数倍も先に進んでいると思っている。

 

と、どっちの方が進んでいるのかとか

本当はどうでもいい事なのだ。

 

こうやって自分の優位性を示さなければ

自分の心を守れないと、40にもなるおっさんが

自己防衛本能が働いて、こういう言葉が湧き出ているような状態が、

 

今の自分なのだ。

 

はっきりいってこれはあまりよくない状態だと自分も思う。

だからこそここを避けて通ってはいけないのだ。

 

多くの人はお金を稼いだり安定を手にした事で

そこをクリアしたと思っている。

 

違うのだ。

私から見るとみんな自分の地雷スィッチに「安心」という蓋をしただけで、

自分を向き合っている人なんてほとんどいなく、

 

みな自分を理解する学びの機会を逃したまま、

社会における安心の「イメージ」を手にしているだけに過ぎない。

 

こういった本音を抑えるのが大人だとか、

そういうのを言わないのが素直で謙虚だとか、

 

そう思う人がきっと過半数だし、普通なのだろう。

だからこそ私はこういう環境では生きにくい。

 

この社会では目に見えない精神や心は割とスルーされる。

気合や根性、努力や気持ち次第でどうにかなると思っている人が多いし、

 

それを美徳や美学とする人も多いように感じる。

 

勿論、それで気合や根性でやり過ごすしかない事も人生には多いだろうし、

弱音や甘えてられない事も多いのも事実だろう。

 

でも子供を育てた事があるからこそ思う。

自分の心の問題ですら真正面から向き合わないような人が、

人の親や人の指導をしていいだろうか、と。

 

多くの人はこういった心の問題を後回しにし、

仕事だのお金だの将来だのを先にどうにかしないと思い、

そしてそれが当たり前だと思っている。

 

もしそれが常識なら私は従いたくないし、

それが普通というのなら普通でなくてもいい。

 

この話を読んで「いつまで人生から逃げている」と思っている人もいるのだろう。

それは私にとってもこの上なくお節介な話だし、迷惑極まりない話なのだ。

 

私は自分ほど人生を攻めている人はいないと思っているし、

自分ほど自分自身と向き合っている人はいないと思っている。

 

私は私がこうあってほしい生活や人生を歩いている。

私はなんの問題もなく歩いているのに、

 

勝手に問題があると勘違いし

勝手に失敗だと認識し、

勝手に人にラベリングし、

勝手に人に手を貸す。

 

...と、これをもし読んでいる知人がいたら

「今お前の周りでそれを言っている人いないだろ?」

というだろう。

 

本当に大人とは無責任である。

 

大事なのは今現時点言っているかどうかではなく

一度言った事はいつまでも相手の脳内にまとわりついて

呪いの言葉として住み続けるという事だ。

 

私は他人を安心させるために生きているのではないぞ?

 

...と思いながらも、何をいっても世界は変わらないので、

世界が口を出してこない生き方に準じようと思っている今日この頃。

 

つまり「普通」だ。

 

戦うという意味では負けであるし、

人生の楽しみを謳歌するという意味では勝ちといえる。

 

まぁ、勝ち負けなんかどうでもよく、

ストレスフリーに生きていけるなら、

なんでもよいよ。

 

しかし、それにしても

 

根っからのナルシストであり、

人の目に触れる事に喜びを感じていた私が、

 

今や人に見られない事がこれほどまでに幸せだと感じるとは、

思ってもみなかった話である。

 

結論、今は凄く過ごしやすく楽しく充実している。

必要のない戦いから離れ、

メンタルが常に楽な状態で居られる。

 

 

これ以上に何を求めるべきであろうか。

なので、今この投稿を読んでくださっている方々も含めて、

 

 

本当に、いつも有難う。

こうしてイイネをくれたり、コメントをくれたり、フォローしてくれたりしてくださっている皆さんは、

 

今はささやかな私の幸せの一部となっています。

本当に有難う御座います。

 

 

と、なぜだろう。

なんか書こうとおもったら、

これを書いてしまった。

 

 

あ、そういえば、

今年の夏くらいに波動を計った時に「幸福度」が以上に低かったが、

それはこういう事だったのか。

 

呪い.....か、やっかいだな。(笑)

 

 

最後まで読んで下さり有難うございました!

では、また。

 

 

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