日本のプレゼンスとは
最近日本のプレゼンスを高めようとか日本の国際競争力を高める、
的な話をよく聞く。し、私自身も将来は日本のプレゼンスを高めるために人生をささげたい
なんて考えている時期もあったりした。
しかしよくよく考えてみると、「日本のプレゼンス」って何だ?
「日本の国際競争力」ってなんなんだ?
このわけわからんワードのために働くことって可能なのかな?
日本を強くするってなんか聞こえはいいけど、完全にぼやけていて、なにも意味していない気がする。
日本のプレゼンスを語る人は海外経験の長い人が良く使う気がするが、彼らの言い分は「日本を気にする人が海外で少なかった」というもの。
もしそれが本当に問題意識なら、
もしただ単に日本のことを理解する外国人を増やしたいなら、旅行会社か文化交流を推進しているような日米交流センター的な機関で働いたりすることがベストな気がする。
しかし残念ながら、そういう機関を志望する学生はさほど多くない。
前述のようなワードを発する学生は、よく商社を志望する。
商社はずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと昔から存在するが、「日本のプレゼンス」は低下している。というものすごく基本的な事実には気づいていないのだろうか。
口先で語るだけなら構わないのだが、本当にこう思って商社にでも行ってしまったら、えらい不幸せなんじゃないかな
本題にもどると、日本のプレゼンスって何だって話し。
Economistという雑誌が毎年年末に次の年をうらなう特別版を出すのだが、今日World in 2011を買ってさらっと読んでみた。衝撃だったのがアジアセクションにおいて日本の記事が一つもなかったこと。これが日本のプレゼンスの低下というやつなのか?もしこのことが日本のプレゼンスの定義ならかなりわかりやすい。
つまり
「日本のプレゼンスを高める」=「Economistなどの外国の雑誌に日本関連の記事を多く載せる」
という等式が成り立つようになる。
ではどうすれば日本関連の記事を増やせるのか。
まず大きく二つに分けると、すごいいいニュースとすごい悪いニュースの二つになる。
北朝鮮みたいに完全にバグってしまえば、逆に国際的なプレゼンスは高まる。これが悪いニュースを発信するという方。
もしくわ、中国の経済成長のようにはんぱなくいいニュースを発信するという方法。
前者はなんか悲しいので、今回は後者のみにフォーカスをあてたい。
じゃ日本が発信できるpositiveなニュースってなんだろう。
…
日本が発信できることってほぼないのですね。
しかし日本人が発信できることってけっこうあるでないか。
ノーベル章受賞者が二人いたことも、かなりのいいニュース。
日本の漫画面白いのもいいニュース。
柳井さんのユニクロもいいニュース。
小泉純一郎というリーダーシップのある首相がいるというのもいいニュース。
渡辺健がラストサムライでいい演技をした!というのもいいニュース。
まおちゃんがスケートでメダルを取るのもいいニュース。
こういう風に見ていくと、国としては無理でも日本人個人ではまだまだ捨てたもんじゃないと思う。
つまり日本人個々人が頑張れば日本のプレゼンスはいくらでもあげられる、ということになる。
「日本のプレゼンス」なんて言うはっきりした存在はない。
存在するのは日本人個人のみ。個人や個人の総和としての企業が集まって「日本のプレゼンス」やら「日本の国際競争力」を形作っている。
だから結局は個人がスキルフルにならないといかんという話に落ち着く。
そしその個人の力を存分に発揮できる職場にいないといかんという話になる。
だから本気で日本のプレゼンスをあげたい!!と思うならば、
ビルゲイツとかスティーブジョブズみたいになるしかない。ということだ。
自分の名前で世界で戦える人材が増えれば自然と日本のプレゼンスが高まることになる。
いつまでも会社の陰に隠れているようでは日本のプレゼンスなんて一生上がるわけない。
大企業で働いているだけでは、おそらくEconomistのWorld in 20XXにはのることはできない。
とにかくひたすらに個人が個人として頑張るしかない。そんな状況なのだと思う。
こんなことを今日は一日考えていた。
「一身独立して一国独立す」という言葉が身にしみた一日であった。
的な話をよく聞く。し、私自身も将来は日本のプレゼンスを高めるために人生をささげたい
なんて考えている時期もあったりした。
しかしよくよく考えてみると、「日本のプレゼンス」って何だ?
「日本の国際競争力」ってなんなんだ?
このわけわからんワードのために働くことって可能なのかな?
日本を強くするってなんか聞こえはいいけど、完全にぼやけていて、なにも意味していない気がする。
日本のプレゼンスを語る人は海外経験の長い人が良く使う気がするが、彼らの言い分は「日本を気にする人が海外で少なかった」というもの。
もしそれが本当に問題意識なら、
もしただ単に日本のことを理解する外国人を増やしたいなら、旅行会社か文化交流を推進しているような日米交流センター的な機関で働いたりすることがベストな気がする。
しかし残念ながら、そういう機関を志望する学生はさほど多くない。
前述のようなワードを発する学生は、よく商社を志望する。
商社はずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと昔から存在するが、「日本のプレゼンス」は低下している。というものすごく基本的な事実には気づいていないのだろうか。
口先で語るだけなら構わないのだが、本当にこう思って商社にでも行ってしまったら、えらい不幸せなんじゃないかな
本題にもどると、日本のプレゼンスって何だって話し。
Economistという雑誌が毎年年末に次の年をうらなう特別版を出すのだが、今日World in 2011を買ってさらっと読んでみた。衝撃だったのがアジアセクションにおいて日本の記事が一つもなかったこと。これが日本のプレゼンスの低下というやつなのか?もしこのことが日本のプレゼンスの定義ならかなりわかりやすい。
つまり
「日本のプレゼンスを高める」=「Economistなどの外国の雑誌に日本関連の記事を多く載せる」
という等式が成り立つようになる。
ではどうすれば日本関連の記事を増やせるのか。
まず大きく二つに分けると、すごいいいニュースとすごい悪いニュースの二つになる。
北朝鮮みたいに完全にバグってしまえば、逆に国際的なプレゼンスは高まる。これが悪いニュースを発信するという方。
もしくわ、中国の経済成長のようにはんぱなくいいニュースを発信するという方法。
前者はなんか悲しいので、今回は後者のみにフォーカスをあてたい。
じゃ日本が発信できるpositiveなニュースってなんだろう。
…
日本が発信できることってほぼないのですね。
しかし日本人が発信できることってけっこうあるでないか。
ノーベル章受賞者が二人いたことも、かなりのいいニュース。
日本の漫画面白いのもいいニュース。
柳井さんのユニクロもいいニュース。
小泉純一郎というリーダーシップのある首相がいるというのもいいニュース。
渡辺健がラストサムライでいい演技をした!というのもいいニュース。
まおちゃんがスケートでメダルを取るのもいいニュース。
こういう風に見ていくと、国としては無理でも日本人個人ではまだまだ捨てたもんじゃないと思う。
つまり日本人個々人が頑張れば日本のプレゼンスはいくらでもあげられる、ということになる。
「日本のプレゼンス」なんて言うはっきりした存在はない。
存在するのは日本人個人のみ。個人や個人の総和としての企業が集まって「日本のプレゼンス」やら「日本の国際競争力」を形作っている。
だから結局は個人がスキルフルにならないといかんという話に落ち着く。
そしその個人の力を存分に発揮できる職場にいないといかんという話になる。
だから本気で日本のプレゼンスをあげたい!!と思うならば、
ビルゲイツとかスティーブジョブズみたいになるしかない。ということだ。
自分の名前で世界で戦える人材が増えれば自然と日本のプレゼンスが高まることになる。
いつまでも会社の陰に隠れているようでは日本のプレゼンスなんて一生上がるわけない。
大企業で働いているだけでは、おそらくEconomistのWorld in 20XXにはのることはできない。
とにかくひたすらに個人が個人として頑張るしかない。そんな状況なのだと思う。
こんなことを今日は一日考えていた。
「一身独立して一国独立す」という言葉が身にしみた一日であった。
法人税の減税に関して
本の記録が10冊近くたまっているのだが、その前にまずこのトピックを。
やっと管さんが決心してくれたようですね。法人税5%下げ。
たった5%の減税で日本経済が圧倒的に回復するなんてありえないだろうが、
この管政権の決定は称賛に値するものであると思う。
なにが評価できるかといえば発信しているメッセージであると考える。
そのメッセージとは
「国民の皆さんこれからは消費者としてではなく生産者になってください」
と
「企業さんは日本で稼がず、じゃんじゃん海外で稼いでね」
という二つ。
たいていの人には二つの側面があると良く言われる。
それはモノを買ってそれを使ったりする消費者という側面。もうひとつはモノを作ったり売ったりする生産者の側面。
誰でもこの2重の役割を担っている。
そして近年消費者のパワーが生産者のパワーを圧倒していた。特に日本では。
デフレの一因でもあるのではないだろうか。
消費者の価格交渉力が強すぎて、価格が下がっていく。
これだけならいいことのようだが、ひとは消費者でありながら生産者であるため、このゲームはゼロサムとなる。
つまり、消費者のパワーが強くなれば生産者としての自分のパワーが落ちる。
これがいわゆるデフレスパイラルというやつだと思う。
さてさてここで今回の法人税の減税に関してなのだが、これは明らかに生産者側を優遇する政策である。
今までの日本の政策は割と消費者よりの政策が多かった。
子供手当とか高速無料化とかはいい例だ。
しかし、今回管政権は消費者よりの政策ではなく生産者を優遇する政策をとった。
日本の財政に余裕があれば、誰も損を被ることなくできる政策なのかもしれないが、もちろんそうはいかない。
そこでこの政策の埋め合わせをするのはほかでもない消費者なのである。
具体的には税控除をやめるなどが出されているが、つまりは消費者への優遇措置を減らすという話だと思う。
この解釈を拡張すると、
法人税減税は、日本をもはや市場として見ない!と言っているようにも解釈できる。
つまり日本の消費者を優遇するのはやめて、生産者を優遇する。
すると、もちろん日本の消費者の購買力は下がる。
その代りに日本の企業の力は強くなるのでその分、海外マーケットで稼いでくださいね。ということ。
もしある企業が「政府の政策のせいで日本の消費者の購買力が落ちた」なんと文句を言ってきようものなら、
「法人税を下げて、企業を強くする政策を取っているのだから、海外でその分をカバーできていない貴社が悪いのでは」ということになる。
この状況になると企業はとにかく海外進出を積極的に進めざるおえなくなる。
こういう風に見ると今、法人税減税分の埋め合わせの財源の議論は少しおかしなことに気づくと思う。
法人税を下げて企業を優遇するのに、企業に新たな税負担をする
とか言っちゃっているが、何を考えているのだろうか。
これじゃ「消費税をやめて買物税を導入します」といっているようなものじゃないか。
上記のようなメッセージを真に考えているのなら、もはや消費税と所得税を上げてしまうのが筋であろう。
消費税と所得税を上げたら、購買力を奪い日本の市場がひどく落ち込む。
だろうが、大いに結構なのではないか。少子高齢化でいづれにせよバイイングパワーは落ちるのだから
エコポイントとかで延命措置なんかせず、
力を消費者から生産者へと移し、日本の技術力などをフル動員し海外に打って出るいい機会なのではないだろうか。
やっと管さんが決心してくれたようですね。法人税5%下げ。
たった5%の減税で日本経済が圧倒的に回復するなんてありえないだろうが、
この管政権の決定は称賛に値するものであると思う。
なにが評価できるかといえば発信しているメッセージであると考える。
そのメッセージとは
「国民の皆さんこれからは消費者としてではなく生産者になってください」
と
「企業さんは日本で稼がず、じゃんじゃん海外で稼いでね」
という二つ。
たいていの人には二つの側面があると良く言われる。
それはモノを買ってそれを使ったりする消費者という側面。もうひとつはモノを作ったり売ったりする生産者の側面。
誰でもこの2重の役割を担っている。
そして近年消費者のパワーが生産者のパワーを圧倒していた。特に日本では。
デフレの一因でもあるのではないだろうか。
消費者の価格交渉力が強すぎて、価格が下がっていく。
これだけならいいことのようだが、ひとは消費者でありながら生産者であるため、このゲームはゼロサムとなる。
つまり、消費者のパワーが強くなれば生産者としての自分のパワーが落ちる。
これがいわゆるデフレスパイラルというやつだと思う。
さてさてここで今回の法人税の減税に関してなのだが、これは明らかに生産者側を優遇する政策である。
今までの日本の政策は割と消費者よりの政策が多かった。
子供手当とか高速無料化とかはいい例だ。
しかし、今回管政権は消費者よりの政策ではなく生産者を優遇する政策をとった。
日本の財政に余裕があれば、誰も損を被ることなくできる政策なのかもしれないが、もちろんそうはいかない。
そこでこの政策の埋め合わせをするのはほかでもない消費者なのである。
具体的には税控除をやめるなどが出されているが、つまりは消費者への優遇措置を減らすという話だと思う。
この解釈を拡張すると、
法人税減税は、日本をもはや市場として見ない!と言っているようにも解釈できる。
つまり日本の消費者を優遇するのはやめて、生産者を優遇する。
すると、もちろん日本の消費者の購買力は下がる。
その代りに日本の企業の力は強くなるのでその分、海外マーケットで稼いでくださいね。ということ。
もしある企業が「政府の政策のせいで日本の消費者の購買力が落ちた」なんと文句を言ってきようものなら、
「法人税を下げて、企業を強くする政策を取っているのだから、海外でその分をカバーできていない貴社が悪いのでは」ということになる。
この状況になると企業はとにかく海外進出を積極的に進めざるおえなくなる。
こういう風に見ると今、法人税減税分の埋め合わせの財源の議論は少しおかしなことに気づくと思う。
法人税を下げて企業を優遇するのに、企業に新たな税負担をする
とか言っちゃっているが、何を考えているのだろうか。
これじゃ「消費税をやめて買物税を導入します」といっているようなものじゃないか。
上記のようなメッセージを真に考えているのなら、もはや消費税と所得税を上げてしまうのが筋であろう。
消費税と所得税を上げたら、購買力を奪い日本の市場がひどく落ち込む。
だろうが、大いに結構なのではないか。少子高齢化でいづれにせよバイイングパワーは落ちるのだから
エコポイントとかで延命措置なんかせず、
力を消費者から生産者へと移し、日本の技術力などをフル動員し海外に打って出るいい機会なのではないだろうか。
個人の自由と年金
国民年金の通知がうちに届いたので、自分の年金に対する思いを。
まず、最初に卒業後も国民年金に加入するつもりはない。だからお金を入れるつもりはさらさらない。
理由はいたってシンプル。
1点目は預けたお金以上のお金が返ってこない投資はあまりに合理的でない、という理由。どんな馬鹿でもわかる話で、あまりにも経済的合理性を欠いていると思う。そんなシステムに入るつもりはない。
2点目は代りに両親に同額以上を払うつもりであるから。僕はこの国民年金のシステムは非常に不公平なシステムであると思うからそうするのである。
なぜ不公平かといえば、たとえばうちの姉は医学部をでて医者をやっており、また自分も私立の大学に行かせてもらえているのだが、どちらの授業料もうちの両親が出してくれている。大学の授業料だけでおそらくうん千万の出資である。その額だけ払っているうちの両親と、子供を産む選択肢を選ばずに、夫婦共働きをしてきた家があったとして、同じシステムの中にいるのはおかしくないだろうか。つまりうちの親は、子供がいなくて将来困るであろう人のためにお金を使ってるとも言える。
そもそも子供をつくるのは自分を養ってもらうだの、家業を手伝わせるなどの理由が大きかったはずである。アフリカなどでは、子供たちは貴重な働き手として育てられる。子供に水汲みをさせ親は畑を耕す、などと分業がなされ、自然と出生率は高くなっている。子供を産まないことは、つまり働き手が少なくなることを意味し、同時に自分の老後を見てくれる人がいなくなることを意味している。
もちろん、こういった状況に戻るべきだ、なんて言っているわけではない。しかし、今の国民年金のシステムはどこか少子化を奨励してしまっているような気がしてならない。子供がいなくても将来は年金でどうにかなる、というマインドが蔓延してしまっているのではないだろうか。もし、育てている子供が自分の将来の面倒を見てくれるとわかっているなら、子供に対する虐待なんて完全に合理的な行動ではなくなる。例えば「子供の給料の5%は親に年金として給付」みたいな制度ができれば、子供にいい教育を提供し給料を高くするインセンティブにもなるだろう。
ではなぜ、こういった話ではでてこないのか。それは世の中にはびこる「自由」というワードと密接に関わっていると思う。近年やたらと“選ぶ自由”とか”なんちゃらの自由”といった言葉が聞かれる。だから今回の話でもそういう制度にすると子供をつくらない自由が尊重されてない、とかなんとかの話しになる。その類の人は、アフリカの女の人は結婚して子供を産まないといけない、他の選択肢がないから不幸せだとかそういうことを言うのだろう。
しかし本当に選択の自由は人を幸せにするのだろうか。選ぶものが多くなって私たちは一昔前の人より幸せになったのだろうか。電気屋にいってテレビを買うときに選択肢が3倍とか5倍とかになって幸せになったのだろうか。
選択の自由と聞いて一番、連想する問題が医局制度の廃止である。これにより医学生は選択の自由が認められ、活躍の場は広がり、力のない病院でも医者を集める機会が広がり、みんなハッピーだ。という話だったはず。だが実情は、全国の医学生が都市部を目指し、都市部では医師過剰となり、無意味な競争を強いられている。また都市部以外では深刻な医師不足に陥る、という状況になっている。
さて、本当に選択の自由は人を幸せにするのだろうか。
少し話しは変わるが、自由度を高めるためにできることとして、選択肢を増やす方法以外に、既存の選択肢の中で自由度を高めるという方法もあると私は思っている。だからこのケースでいえば、子供を産む、産まないという選択肢を増やすのではなく、基本的に子供は産んでもらうシステムにするが、子供の育て方などの自由度を増す、といった具合だ。
自分は倫理とかに詳しくないが、フロムという哲学者はヒトラーの全体主義をみて「自由からの逃走」という本を書いた。人間は完全な自由を嫌う。むしろ、考えずに流されていた方が幸せだったりするのではないかと思ったりもする。旧共産党圏の国の人と話しても、あれはあれで幸せだったと言っている。ソ連政府は提供する選択肢はあまり増やさなくても、既存の選択肢の中で自由度を高めていたらしい。
どっちがあってるとか間違ってるとかはわかないけど、少なくとも選択肢がすくない=不幸せという謎のステレオタイプは捨てなくてはならないのではないか。
こういった疑念が払われない限りは年金に加入はしないと思う。
まず、最初に卒業後も国民年金に加入するつもりはない。だからお金を入れるつもりはさらさらない。
理由はいたってシンプル。
1点目は預けたお金以上のお金が返ってこない投資はあまりに合理的でない、という理由。どんな馬鹿でもわかる話で、あまりにも経済的合理性を欠いていると思う。そんなシステムに入るつもりはない。
2点目は代りに両親に同額以上を払うつもりであるから。僕はこの国民年金のシステムは非常に不公平なシステムであると思うからそうするのである。
なぜ不公平かといえば、たとえばうちの姉は医学部をでて医者をやっており、また自分も私立の大学に行かせてもらえているのだが、どちらの授業料もうちの両親が出してくれている。大学の授業料だけでおそらくうん千万の出資である。その額だけ払っているうちの両親と、子供を産む選択肢を選ばずに、夫婦共働きをしてきた家があったとして、同じシステムの中にいるのはおかしくないだろうか。つまりうちの親は、子供がいなくて将来困るであろう人のためにお金を使ってるとも言える。
そもそも子供をつくるのは自分を養ってもらうだの、家業を手伝わせるなどの理由が大きかったはずである。アフリカなどでは、子供たちは貴重な働き手として育てられる。子供に水汲みをさせ親は畑を耕す、などと分業がなされ、自然と出生率は高くなっている。子供を産まないことは、つまり働き手が少なくなることを意味し、同時に自分の老後を見てくれる人がいなくなることを意味している。
もちろん、こういった状況に戻るべきだ、なんて言っているわけではない。しかし、今の国民年金のシステムはどこか少子化を奨励してしまっているような気がしてならない。子供がいなくても将来は年金でどうにかなる、というマインドが蔓延してしまっているのではないだろうか。もし、育てている子供が自分の将来の面倒を見てくれるとわかっているなら、子供に対する虐待なんて完全に合理的な行動ではなくなる。例えば「子供の給料の5%は親に年金として給付」みたいな制度ができれば、子供にいい教育を提供し給料を高くするインセンティブにもなるだろう。
ではなぜ、こういった話ではでてこないのか。それは世の中にはびこる「自由」というワードと密接に関わっていると思う。近年やたらと“選ぶ自由”とか”なんちゃらの自由”といった言葉が聞かれる。だから今回の話でもそういう制度にすると子供をつくらない自由が尊重されてない、とかなんとかの話しになる。その類の人は、アフリカの女の人は結婚して子供を産まないといけない、他の選択肢がないから不幸せだとかそういうことを言うのだろう。
しかし本当に選択の自由は人を幸せにするのだろうか。選ぶものが多くなって私たちは一昔前の人より幸せになったのだろうか。電気屋にいってテレビを買うときに選択肢が3倍とか5倍とかになって幸せになったのだろうか。
選択の自由と聞いて一番、連想する問題が医局制度の廃止である。これにより医学生は選択の自由が認められ、活躍の場は広がり、力のない病院でも医者を集める機会が広がり、みんなハッピーだ。という話だったはず。だが実情は、全国の医学生が都市部を目指し、都市部では医師過剰となり、無意味な競争を強いられている。また都市部以外では深刻な医師不足に陥る、という状況になっている。
さて、本当に選択の自由は人を幸せにするのだろうか。
少し話しは変わるが、自由度を高めるためにできることとして、選択肢を増やす方法以外に、既存の選択肢の中で自由度を高めるという方法もあると私は思っている。だからこのケースでいえば、子供を産む、産まないという選択肢を増やすのではなく、基本的に子供は産んでもらうシステムにするが、子供の育て方などの自由度を増す、といった具合だ。
自分は倫理とかに詳しくないが、フロムという哲学者はヒトラーの全体主義をみて「自由からの逃走」という本を書いた。人間は完全な自由を嫌う。むしろ、考えずに流されていた方が幸せだったりするのではないかと思ったりもする。旧共産党圏の国の人と話しても、あれはあれで幸せだったと言っている。ソ連政府は提供する選択肢はあまり増やさなくても、既存の選択肢の中で自由度を高めていたらしい。
どっちがあってるとか間違ってるとかはわかないけど、少なくとも選択肢がすくない=不幸せという謎のステレオタイプは捨てなくてはならないのではないか。
こういった疑念が払われない限りは年金に加入はしないと思う。
象の鼻としっぽ book review ⑳
- 象の鼻としっぽ/細谷 功
- ¥1,680
- Amazon.co.jp
だが、コミュニケーションをうまくする、とかそういう本ではなく、なぜコミュニケーションがうまくいかないのか?という分析の本。
そこで筆者は、個々人によってとらえる方が違うこと挙げている。それが象の鼻としっぽというわけである。つまり、同じを象を見ていても、しっぽを見てる人もいれば鼻を見ている人もいる。そのためそういった人たちが、象について話をしても噛み合うはずがない。という主張。
さらに、違うポイントを見てることもあれば、見ている人の価値観や基準によって、完全に同じところを見ていても、受け取るメッセージは変わってくると言っている。
完全に納得できる主張であり、これはジョージソロスのマーケットビューとも一致する。つまりいくら情報が早く伝わる時代になったところで、それを解釈する人間が不完全である限り、市場が完全に合理的になることはない。という主張。
なんかこの主張をコミュニケーションという分野に落としこんだ。という印象をすごいうけた。
ただ最初に述べたとおりこの本は解決策を記述するための本ではなく、その分析をするための本である。
だから、どのようにこういった問題を解決するかわわからずじまい。
わりとわかりきっている問題を終始述べ続けて、解決策を示さずに終わってしまう本ってどうなのよ。と思ったが。
でもまぁ、こういう考えをコミュニケーションにあてはめた本ははじめてだったから面白かった。
知的アウトプット術 book review ⑲
- 小宮式 知的アウトプット術/小宮一慶
- ¥1,470
- Amazon.co.jp
ポールソン回顧録の息抜きに買った本。
こういうスキル系の本はだいたい当たり前のこと書いてあるなーといつも思う。
そしてこの本も例外ではなかった。非常に当たり前のことを、もっともらしく書いてある。
でもこういう本はこういう本で定期的に読むようにしている。
それは
①、当たり前のことの確認
②、筆者が使ってる当たり前のことをフレームワーク化できる技を知る
③、小ネタが多く、また面白い
④、やる気をすこしあげる
という理由。とくに②の要素は大きい。当たりまえのことだけど、それを確認する方法として筆者が紹介するフレームワークを知れることは大きいと思う。
これを痛感したのが野球部だったとき、当時素振りの仕方なんて知ってるわ、と思っていた自分だが
- バッティングの極意―うねり打法/手塚 一志
- ¥2,100
- Amazon.co.jp
バッティングの極意という本を読んで衝撃を受けた。今まであたりまえと思っていたことを文章化することの大切さを感じた。文章化することで、効果的に意識できるようになりチェック&バランスが頻繁に行われるようになった。
この本で学んだことは以下の二つ
①難解な本を読む大切さ
②Off the job trainingの大切さ
①、②ともに当たり前のことだが、それを小宮さんという優秀で実績のあるからがいうから、余計に納得してしまう。
とくに②のとこだが、小宮さんは1週間2時間の専門に関する勉強を進めている。なぜかというと1週間に2時間の勉強で一年間でちょうど100時間になるという。
これも言われみたら、当たり前のことだが、この見方は非常に面白いと思った。
この手の本は読む時間もかからないので、1~2時間で上の二つのことをしれただけでも価値がある本なのかなと思う。
