すごく厨二病チックなことを言ってみる。
「超越ってかっこいい。」
これが今日のテーマです。眠いからさっさと頑張って書きます。
さて。超越した人間になりたい、そんなことを思ったことがある。我の強い人間ならあるのかもしれないこの感覚。でも本当になれるのか。
何に対して超越するのかとか、どんなことをすれば他者を克服したのかとか、いろいろ議論する余地がありすぎる。ということはこのお話はちょっと漠然としすぎているんだな。
今回は文化と部族という観点からの超越について考えてみたい。
人間は生まれつき社会システムの一員として何かしらのしがらみの中に組み込まれている。母体があって、住む地域がある。その中にはその中での従来のルールがあるだろうし、生きているうちに新たに紡ぎあげられている側面もある。けれど人間のちっぽけさから見て明らかなように、実体験を得る地域や文化には限界がある。
例えば一口に日本を切り取ってみても、沖縄の人にとっては本土の人を「やまとんちゅ」と呼び、自分たち沖縄県民のことを「うちなんちゅ」と呼ぶそうだ。
私のような本土の人間からしたらそういう区分があることが新たな発見である。
このように日本という社会を切り取っても概念の違う組織が点在している。
これは地域性などの地理的要因だけでなく、思考回路や使う言葉や性格などあらゆるもので”枠組み”を作ることができる。
では、この社会の中に無数にある”枠組み”を知ってコントロールすることが超越になるのか。枠組みを知っていることが偉いのか。今回はその枠組みとして国を例に挙げてみます。
やたらと留学をしたがる人、或いは留学をした経験をひけらかしてくる人。世界を見てみたい。その気持ちで純粋に楽しんで帰ってくる人は多いが、なかには[私は海外を知っていますので。」と鼻高々になる人もいる。
それってすごいことなのか。確かにその人からしてみれば別の枠組みをもう一つ見てきたという大きな変化になったのかもしれないが、せいぜい他の国ひとつ見ただけだ。現実的に考えてすべての国に住んで文化を知り、熟知することはできない。
以下、抽象的な説明にも応用できるように参照写真に合わせたアルファベットを振っておく。
C(日本)にいてA.B.D(ほかの国)を見て回ることが聡明なことなのか。はたまた、すべてを見れるわけではないのだから、C(日本)を知り極めていくことが聡明なのか。A.B.D(他の国)を見ている人のほうが枠組みがあるということを知ったうえでC(自分の国)を判断できる。しかし、その紡がれてきた歴史の中で育まれてきた国を作ったのは大部分が外部からの接触を受けていない者ではないか。だからこそそこには(C)独自性がある。
相対的に保守的な立場が好みか革新的な立場が好みかという話になってきそうだな。
また、C(日本人)ならばC(日本人)として誇りを持つべきなのか。それは他国から見たら嫌なものに映るのか、すごいものに映るのか。この辺もスタンスが難しい。
広い見聞が聡明か、深い思慮が聡明か。
どちらにせよ構成員の一部であり、超越は難しそうだ。けれどこの二択は別の意味で奥が深い。両方の視野を入れること必要になるのは牽引する者、つまりリーダーに必要な素質ではないかと思うのだ。逆にパンピーの人たちまでこの考えを持ってしまうとシステムのバランスが崩れてしまう。広い見聞が得意な人、深い思慮が得意な人それぞれがいてはじめてC(日本)という共同体を形成することができるのである。
結局それぞれには役割があるということだし、一概にどちらのスタンスが正しいということは非常に難しいし、自分が構成員であると意識した時にその枠組みに対して自己批判的な立場をとるのか肯定的な立場をとるのかなどといった多くの観点が存在してくるという話だったように思う。
この写真の構図は国だけでなくて、さっきも言ったように性格診断の属性や都道府県、部族・集落、アイドルなどすごく広くあてはまる普遍的な概念だから面白いと思う。
なんか、話がまとまり切らずすっきりしないもので終わった感じがする。
難しくて改善の余地のある話になってしまった。
眠いから寝よう。
↓参照画像 集合体恐怖症の人すみません まる=枠組み てん=構成員
