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Benjamin

わたしのあたまのなか。


 なぜか急にさみしさが襲ってくるときがある。
 そんな時、一分一秒がものすごく長く感じられる。まったく時間が進まない。
 こんな時がある。それは事実である。

 ここからは私の妄言である。

 少し待てば、きっと寂しさは通り過ぎて行ってくれると頭ではわかっている。
 そう自分に言い聞かせたとしても思考を巡らせるだけの暇がある以上、通り過ぎてくれるのを待つのは途方もないことのようにその時点では見えてしまう。

 待てば終わるはずなのに。一瞬我慢すればいいはずなのに。

 女の人が今のパートナーを不満に思うこと以外で浮気をしてしまうときってこういうときなんじゃないかな。

 さみしさに抗えない。

 かまってくれる相手がそのさみしいが通過しているその時にたまたま居合わせてくれなかったとき。

 自分の中でのどうしようもないさみしさと、相手の負担になられてはいけない、めんどくさいと思われたくないという自制心が綱引きをしている状態。

 相手に今は寄りかからないでいなきゃという抑制が強ければ強いほど苦しい。

 そんな時、かまってくれる相手がたまたま現れたら、自分でかけた絞首をほどく反動かのようにとても快楽が強くなる。

 ふと寂しさという感情の逃げ道ができてそのさみしさが快楽という感情へ形を変える。

 少しほかの男の人が話してくれるだけで寂しさが一瞬の快楽へと姿を変える。


 んで、大体こういう時に限ってパートナーから連絡がきたりすると「なんでよりによって今なの!私が寂しい時には構ってくれなかったのに!(タイミングの悪いやつだな)」となりがちになるのが恋愛ドラマとかでよく見かけるパターンだと思う。

しかしこの現象はよくあることである。”なんで?”ではなく”妥当なタイミング”だと思うのである。
 
 宿題を今やろうと思ってたのになんでよりによって今「宿題やったの!?」って聞かれなきゃいけないんだよ。みたいな『なんでよりによって今なの!?』現象とでもいったん名付けておこう。

 この現象の裏にはきっと自分の時間への捉え方が大きく作用していると思う。

 つまり、今までの抑制や圧力、ストレスといったいつもは感じないはずの感情を持つことによって、いつもは感じないはずの時の流れが発生するというものである。

 女の一瞬の快楽の話でいえば、いつも感じている何らかしらの緊張状態や自己抑制によって、感情の逃げ道がある時間はその感情の反動で相対的に存在感のあるものとなるのだろう。
 (この快楽があるんだろうなということは否定しないが、それを行動に移すかどうかはその人の美徳がどこまでかっこいいかによると思う。)


 そんな寂しさに襲われないようにするにはやはり、普段から多少は忙しくしていることが一番なのかなと思う。また、襲われてしまった時には、自分の信頼すると決めたパートナーの言葉を思い起こしたり、いざというときの抑制された感情のはけ口(友人や従妹など)を事前に考えておくことも大切なことなのかなと思った。
 
 やっぱり峰不二子はつよい。


後書き

7月はなかなかに痺れた。大学という名の戦闘を終えて帰路についたのに、月4投稿を掲げてしまった以上未だこうして息をつくことが許されていない。やはり痺れるね。8月は夏だけど冬眠しよう。

 何となく漫画を読んでいたときだった。

 私は漫画を読むのが早い方じゃない。
 
 主人公の描写やしぐさなども含めて眺めるかのように読むのが好きだ。こういう言葉の使い方をする人物なんだな、こんな風に行動が出てくるのか、こんなものを食べているんだ、と一種の人間観察というか、その人をのぞき見しているような感覚である。だから、その漫画に出ている部屋の配置とか。使われている道具とかもよく見る。

 これは逆の見方をすると、一番印象に残るであろう派手なシーンやクライマックスが人よりも相対的に薄い印象として受け取っているのだろうと思う。

 もちろん戦闘もので戦うシーンがあったらかっこいいなとは思うし、敵を倒していく姿に、非日常性や快感を覚えるのも分からなくはない。

 しかしそれよりも、登場人物たちの交わしている会話や動作に目が行ってしまう自分がいることに気が付いた。

 昔からそうだったのだろうか?と考えてみた。

 例えばプリキュア。
 普段は学生をしているお姉さんたちがキラキラ変身して敵をやっつけて、この世界は私たちが守る!的なキメ台詞を言っている姿をよくまねしたものである。

 昔はあったインパクトの強いシーンの自分の中での印象付けが、いつからか薄れていったのである。いや、もしかしたら細かいところを察知できるようになる感受性が後から養われていったのではないかと思う。

 これを、人の成長という観点から読み取ってみた。

 子供はまず喜怒哀楽といった単純構造の感情を記憶の中に刷り込んでゆく。これかっこいい!すごい!楽しい! これは怖い。悲しい。などなど。

 こういう体積の大きな感情がまずボトルに詰め込まれていく。

 そのあとで、この悲しさにはこのような面とこのような面が混在していると、言葉にはできなくとも感じていくんだと思う。

 つまり単純構造の感情でも世界を知っていくにつれて、その感情の構成が単純ではないことに気づく思考回路が培われていくのだと思う。

 私はこの複雑化が大人になることのアドバンテージでもあると思うと同時に、昔はよかったとノスタルジーを感じざるを得ない悲しい現実でもあると思う。このような要素も、どうせ大人にならざるを得ないなら突き抜けた大人になってやるという自分がいる一方で、大人になんてなりたくないと思っている自分がいる原因のひとつなんだと思う。

 いつもながらにだんだん書いてきたら小難しいような話になってしまった。

 
 要するに、子供はジブリ飯なんかで騒がない。もっとインパクトの大きい(例えば子供にはトトロが見えるんだ!というキラキラした希望や空にはお城があるんだ!という期待感に駆られる。だからジブリ作品を見て胸がいっぱいになる)

 かなしいかな、ラピュタパンを再現しよう!とかハウルの目玉焼きおいしそう!とか思ってしまうのは大人すぎる。


 これが最近私が感じた、自分が子供のころとは変わったと思う瞬間であった。
 



 おぢきもい。←わかるわかる。

 女の子だと一度は感じたことある感覚なんじゃないかな。


 なんできもいのかを少し言語化してみた。(←暇かよってなw)

 先日エレガント人生さんの「自己肯定感が高すぎるおじさんを適当にあしらうパパ活女子」という動画で、たった8分見ただけなのにホラー映画2時間分くらいの精神的疲労を負う体験をした。これがおぢのキモさを言語化するに至ったきっかけである。


結論からいきましょう。
 おぢへのキモさの根源、それはおぢの感情の処理までしないといけないというところにある。

 「PJという名の介護」というコメントが書き込まれていたが、そこにすべてが詰まっている秀逸な表現だと思う。


 パパ活でのパパとは、今まで女性経験が全くありませんという人は少数のように思う。むしろ20代や若かりし頃は一般的な恋愛もそれなりに経験してきたんだろうなと思う人のほうが多いのではないかと想像する。
 その今までの経験や女性たちがキモいおぢというバケモノを生むには一助となっているような気がしてならない。


 ”自分の感情と理性の見境が付いていない愚かさが露呈していると女側が感じること”これがキモさの根っこにあると思う。

 理性で自分の見え方や立場をわきまえていればいいのに、自分のモテた経験や若い女の子とイチャイチャしたいという感情が理性の制御を上回ることによって女の子はオエーーーーっていう感情を抱くのだと思う。

 (確かに感情がないとお金が動かないわけで女側もお金が欲しくてやっているのであれば感情によってしか恩恵は受けられないと言ってしまえばそれまでだが。それでもより一層キモいがブーストされる原因が感情であることもまた事実なように思う。)


 逆の視点で考えてみると、ちゃんとおぢの理性が上回って、あくまでも商売女と客と割り切ることができていれば、女の子も良客として扱ってくるだろう。
 現実世界においてもイケおじ枠に分類されている人はほぼ100%女の子に自分の感情の部分を見せていない。(ここで大事なのは、感情=下心がないわけではなくあくまでも”見せていないことが一貫されている”ことにある。)



 結局大人とは何かみたいな話題へ発展しそうになってきたが、自分の感情は自分でコントロールし、処理できるようになることが成熟した大人になるということであり、自立するということなのではないか。それができないで感情(≒下心)を露呈してくるから厄介で周囲を不快にする。
 これはメンヘラが男の人から嫌われるという構図にも転写することができるだろう。
 さらには職場のセクハラやキモいおじさんたちすべてにも通ずる話であるように思う。


 話を戻すと、お金の対価以上の感情の処理を突き付けられたとき、女の子はオエーーーーーーーーーーっとなるのではなかろうか。
 (そのオエーーを覆せるのは愛の力のみ。要するにおぢには無理。いい関係を保ちたいなら感情は出すことができません。悲しいですね。それがお金で見せかけの事実を買うということです。)




PS 有言実行のために1日2本書いた。
さすがに脳に糖分が必要かも。

 「好きなタイプはやさしい人です」、「あなたはやさしいね」、「君のやさしいところが好きだよ」 こういう言葉に嫌悪感を覚える。捻くれているかもしれないが、昔からずっとそう思う。なんでだろう。

 
 今日はこの“やさしい”という言葉への違和感について深掘ってみたいと思う。


 小学生の時、やさしい子が褒められていた。なんとなくそういう子は、いつも微笑んでいて、お花を摘んでいて、ハンカチを持っていて、協調性があって、自己主張が少ないようなイメージが記憶の中にある。
 そういう子は言葉を発している状況がこちらにはレアケースに映っていた。当然グループワークや給食の班の時間でも話さずに微笑んでいるだけで、話に積極的に参加することもないから一緒にいて楽しくはならないなとよく思ったことである。
 それでもそんな子が、クラスの優しい子というレッテルを貼られているように感じた。先生がいうやさしい子とは、大体おっとりしたような性格の子ばかりである。

 そこまでだったら私は別に違和感を覚えなかっただろう。
 こういう部類の子をやさしいと表現するんだと頭の中でカテゴライズできるだろう。


 その違和感が顕著になったのは、私がやさしいねと言われた時であった。
よく言ってくるのは親戚である。「○○ちゃんはやさしいね」とずいぶん言われるものである。あとは昔から顔なじみのあるご近所さんや、私のことを少し知っている人。

 やさしいねと言われてその場はうまく取り繕えても、言われた後になってみると「?」が浮かび上がってくる。”自分のことをやさしい子としてカテゴライズしていない私”と”やさしいと言ってくる他者”のギャップが私を悩ませる。

 このギャップを生んでいるものは何か。
今まではこれをギャップとして頭の中に宙ぶらりんにしていたがその感覚を久々に引っ張り出して言葉にしてみよう。
それはやさしさの尺度・解像度・定義が違うからだと思う。


 世間で言われているやさしいとは、色でいうとパステルカラーな感じである。
 ほわほわしていてそれに触れても心のずきずきしないもの。そのような感性や行動に対してほほえましく思い、やさしいという言葉を使うのだろう。学校の先生が、「あの子はやさしいですね、皆さんも見習いましょう」と言っていたあの子も、「○○ちゃんはやさしいね」と周囲の目に映っている私もきっとそういうパステルカラーの雰囲気を持っているような気がする。


 でも、私はそんなものをやさしいとは思わない。
 
 だってグループワークみたいな議論をする場で話題をに乗ってこなかったり、展開してこない奴なんて、その状況を切り取ったら私には厄介者に映る。
 私は思考を放棄します。発表も面倒くさいので意見出した人たちだけで頑張ってください。にこにこ。みたいに思えてくる。(もちろん、そういう子は実際そんなことは言ってないが。)

 また、一見ヤンキーっぽく見える人が猫を助けているみたいなああいうシーンで主人公の女子がトゥンク的な感じになっているのも全然納得いかない。
 もしものび太君みたいな子がやってもほんわかした雰囲気になるだけである。それなのにヤンキーっぽい人がそれをするからと言って印象がブーストされているなんていうのは、相対的にのび太君みたいなやつは損をして、ヤンキーみたいなやつは得をしているように感じて納得がいかない。

つまり、助けられた猫と助けた人間という構造は変わらないなずなのに、そこにやさしいという概念を当てはめてしまうことで一気に崩れてしまう何かが存在するのである。

きっと上記の例みたいなのを”やさしい”と言っている人たちは、お年寄りに席を譲るという光景を目の当たりにするだけで反射的に譲った人に対して優しいという言葉が出るんだろうな。

そんなパステルカラーの雰囲気を帯びた人や状態を、一般的な世界ではどうやら”やさしい”と定義しているみたい。

 だから、やさしいっていう言葉は最近まで全く好きじゃなかった。




 ただ、私の中で今のところすべての事象がうまく結びつく優しさという言葉への定義が完成してからその状況は変わった。

 
 私の中でのやさしさの定義というのはずばり、想像力である。
 優しい人とはそれすなわち想像力があるということなのである。

 例えば、さっきの例でお年寄りが席を譲ってほしくなかったらどうだろう。
おなかが痛いときに心配しないでほっといてくれることが一番ありがたい人だったらどうだろう。
 そういう人にとっては自分の中にあるプライドやポリシーによって断る負担というものが生まれうるかもしれない。
 もし仮にそのような負担を譲るという行為において生んでしまったとすれば、それはただの厄介である。


 そんなめんどくせーやつ少数派だからほっとけ!といわれるかもしれない。
 
 でも、そのような人だって少数ながら存在する。
(少数だからこそ私の優しさへの解釈もひねくれているように思えてしまうのかもしれないが。)
 
 つまり、他者にとってしてほしいこと、してほしくないこと、ありがたいこと、嬉しくないこと、得なこと、損なことという尺度は異なるのである。
 
 それを鑑みたうえで自分自身の行動を選択できる人、発言に移すことのできる人、自分の言動に責任を取ることができる人のことを、私は本当の意味での優しさと思うのである。



 行動に移すことだけが優しいじゃない。言葉にしたことだけが優しさじゃない。
行動しないことも、言葉にしないことも、ちゃんと考えてその結果に至る過程を含めてその人が実行したことならば、どんな形であれ優しさなのである。
 いちいち言葉にするのは難しいかもしれないけれど、もしも言葉にされたら、この人はそんなにも考えていてくれたんだと心が温かくなるものを心の中に持っている人。そんな人のことを私は優しい人と思うのである。

 難しいことに、私の定義の優しい人ほど”そのような考えの過程や葛藤をあなたのためにしました”と言葉にしてくることはない。だからこそ優しくて賢い人は良くない共同体にいたら静かに離れていく。大切だと思っていても気づいた時には時すでに遅しとなっている状況も成るべくしてなっているのである。



 私の目に映る優しさとはパステルカラーではなく、流動性を持つのに芯のある、透明のようなものなのである。
 すごく厨二病チックなことを言ってみる。

 「超越ってかっこいい。」

 これが今日のテーマです。眠いからさっさと頑張って書きます。

 
 さて。超越した人間になりたい、そんなことを思ったことがある。我の強い人間ならあるのかもしれないこの感覚。でも本当になれるのか。

 何に対して超越するのかとか、どんなことをすれば他者を克服したのかとか、いろいろ議論する余地がありすぎる。ということはこのお話はちょっと漠然としすぎているんだな。

 今回は文化と部族という観点からの超越について考えてみたい。

 人間は生まれつき社会システムの一員として何かしらのしがらみの中に組み込まれている。母体があって、住む地域がある。その中にはその中での従来のルールがあるだろうし、生きているうちに新たに紡ぎあげられている側面もある。けれど人間のちっぽけさから見て明らかなように、実体験を得る地域や文化には限界がある。

 例えば一口に日本を切り取ってみても、沖縄の人にとっては本土の人を「やまとんちゅ」と呼び、自分たち沖縄県民のことを「うちなんちゅ」と呼ぶそうだ。
 私のような本土の人間からしたらそういう区分があることが新たな発見である。
 
 このように日本という社会を切り取っても概念の違う組織が点在している。
 これは地域性などの地理的要因だけでなく、思考回路や使う言葉や性格などあらゆるもので”枠組み”を作ることができる。


 では、この社会の中に無数にある”枠組み”を知ってコントロールすることが超越になるのか。枠組みを知っていることが偉いのか。今回はその枠組みとして国を例に挙げてみます。

 やたらと留学をしたがる人、或いは留学をした経験をひけらかしてくる人。世界を見てみたい。その気持ちで純粋に楽しんで帰ってくる人は多いが、なかには[私は海外を知っていますので。」と鼻高々になる人もいる。
 それってすごいことなのか。確かにその人からしてみれば別の枠組みをもう一つ見てきたという大きな変化になったのかもしれないが、せいぜい他の国ひとつ見ただけだ。現実的に考えてすべての国に住んで文化を知り、熟知することはできない。


 以下、抽象的な説明にも応用できるように参照写真に合わせたアルファベットを振っておく。

 C(日本)にいてA.B.D(ほかの国)を見て回ることが聡明なことなのか。はたまた、すべてを見れるわけではないのだから、C(日本)を知り極めていくことが聡明なのか。A.B.D(他の国)を見ている人のほうが枠組みがあるということを知ったうえでC(自分の国)を判断できる。しかし、その紡がれてきた歴史の中で育まれてきた国を作ったのは大部分が外部からの接触を受けていない者ではないか。だからこそそこには(C)独自性がある。

 相対的に保守的な立場が好みか革新的な立場が好みかという話になってきそうだな。

また、C(日本人)ならばC(日本人)として誇りを持つべきなのか。それは他国から見たら嫌なものに映るのか、すごいものに映るのか。この辺もスタンスが難しい。
 


 広い見聞が聡明か、深い思慮が聡明か。

 どちらにせよ構成員の一部であり、超越は難しそうだ。けれどこの二択は別の意味で奥が深い。両方の視野を入れること必要になるのは牽引する者、つまりリーダーに必要な素質ではないかと思うのだ。逆にパンピーの人たちまでこの考えを持ってしまうとシステムのバランスが崩れてしまう。広い見聞が得意な人、深い思慮が得意な人それぞれがいてはじめてC(日本)という共同体を形成することができるのである。


 結局それぞれには役割があるということだし、一概にどちらのスタンスが正しいということは非常に難しいし、自分が構成員であると意識した時にその枠組みに対して自己批判的な立場をとるのか肯定的な立場をとるのかなどといった多くの観点が存在してくるという話だったように思う。

 この写真の構図は国だけでなくて、さっきも言ったように性格診断の属性や都道府県、部族・集落、アイドルなどすごく広くあてはまる普遍的な概念だから面白いと思う。

 なんか、話がまとまり切らずすっきりしないもので終わった感じがする。
 難しくて改善の余地のある話になってしまった。
 眠いから寝よう。


↓参照画像 集合体恐怖症の人すみません まる=枠組み てん=構成員


 先日、何を本業としているのかわからない人たちと交流する機会があった。
 
 何を本業としているかわからない人たちというのはいわゆる社会人からすれば独特の感性を持っているように感じる。

 何も知らない私は、この人たちはどうやって稼ぎを得ているんだろう、どうやってここのつながりが形成されたのだろうと思ったが、私もその場にいる時点でそっち側の人たちになりかけているかもしれないと思った。
 たかが数時間その場にいただけだが、歓談の時間が設けられて話しかけられたり紹介してくれた人が知り合いを呼び…といった形で多くの人と話をした。
 
 決して怪しい集団ではない。(いかにもなセリフだがw)地域ボランティアとかそのような類のコミュニティーである。
 どの集団でもそうだけれど小規模になればなるほど、個人事業主というのはその人自身の人脈やコネを駆使しないと生き残ることができない(その事業に対する研究者並みの熱意がある人は意外にも個人事業でも社会にうまく溶け込んでいるのでここでは除外する)。
 だからこそ周りの人に自分から歩み寄っていくし、お節介とまではいかないけれど他人に対していい顔もするのかなと思う。まだ多数社会のレールの上しか歩いたことのない私の目にはそのような世界に映った。

 

 正直、普通(何をもって普通かは一概ではないけれど大人が描きがちな社会のレールというスタンダード)の人たちにとって彼らの善意や意向は、奇妙に映るかもしれない。

 なんでそんなに人と繋がりたがるんだろうとか、さらにいえば干渉してくるんだろうとか思ってしまうかもしれない。実際私に話しかけてきた人の中で、学生としての意見は大変貴重なのでもし何かあればここに連絡してくださいと言ってくる人も何人かいた。

 しかしながら、私は別に彼らと繋がりたいわけではない。ただ友人の誘いの観客要因で足を運んだまでである。だからこそ余計その場が独特に思えたのだろうが。

 要するにあっち側の世界の人たちの暑苦しさは小規模であるからこそ生まれた自分たちの生き残るための生存戦略なのである。
 


 ここで少しボランティアと仕事について考えてみたい。
 
 正直な話、ボランティアというのを私は一口に素晴らしいものと称賛できない。というのもボランティアというのは大体の場合が人のためになりたいという自分の欲が先行して始まるからである。
 100%相手のことを考えたものではなくて、少なくとも1%くらいは自分がやりたいという”下心”があって初めて動き始めるものでもあると思うからだ。それが結果としてもおすごく社会に貢献したものであるとしても、今ある地域ボランティアは大体がそのような「人のためになりたいですワタシ」という感情で存在しているように感じる。

 そういう団体でお爺さんお婆さんや学生を多く見かけるのもこれが一因としてあると思う。それに助けられるのはほとんどの場合社会的立場の弱い人たちだけである。
 普通に生活していて大した苦労をしない限りその支援のありがたみというのを享受することはたぶん一生ないだろう。だから産業にもならないし、経済も回らない。けれどそのお節介や人のためになりたいという感情を持っている人たちのおかげで社会の一般から疎外されている人たちは救われているのも事実である。こう考えるとボランティアもうまく社会の構造としてはめ込まれているのかもしれない。

 

 ただ何度も言うように所謂”ふつう”の人たちからすれば、そのような人たちは暑苦しいおじさんやおばさんでしかないし、すごくつながりを求めたがってくる人に見える。



 共生という名の強制をしている人に思えてしまうのである。
 

「嫉妬という感情(Envy・羨望)は社会を発展させる原動力になるか」

 これが今日の内容だった。
 この内容や定義と私の考察については後々また触れようと思っている。

 今日伝えたいのは私の見ている世界がものすごく独特かもしれないということだ。

 私はこのような問いを受けたときに、嫉妬という対象を真っ先に”人間の直感としてつかむもの”という印象を受ける。
 しかし、多くの人は直感や感覚的なものでは現象を語らない。
まず論を構築する。よく見たり、触ったりというようなフィールドワークというよりも対象とするものがどのように作用していて、どんなメリット・デメリットがあるかという方ばかりに目を向けたがる。

 個人の感想としては、もっとじっくりその対象を見てみたいし、みんながそれをどのようにみているのか、触った時にどのような感覚なのかを知りたい。正解もなくて、最適解も数値で出すことはできないけれど、確かに存在する”みんなの腑に落ちるエリア”というのは大抵の場合あるはずである。

 そこを情報共有したうえで、こんな側面があるから有用・有用でない、むしろ足を引っ張っている、などといった議論をしてみることで今まで見えてこなかった視点や気づきが生まれると思う。ディベートとはそのための手段のようなものでしかないと思う。

 単に、こっちの立場のほうが立論がうまくて一貫性と発展性があって、みたいなところで評価をするのは、確かにこの高度情報化社会の中では即戦力として一つの力にはなると思う。

ディベートの中では議題の本質や核を考えることよりも、相手より自分の立場を良く”魅せる”核を作ったり、決められた時間の中で質疑応答をするといったようなプロセスを経て採点・勝敗というゴールがある。だからみんなそこを達成することに必死になって、その議題についてはパッと見るだけですぐに通り過ぎてしまっているような感覚に陥る。

就活とか、プレゼンとか、社会に役立つスキルとしてディベートのような論理的な思考で素早く論を組み立てるというのはもう一度言うが、すぐに使える有益な力にはなる。

しかしながら、こんなファスト的な社会だからこそ、もう少し立ち止まってとの本質や核となる部分をせっかくみんながいるんだったらその場で見つめてみたいな、と思った今日でした。


メモ

すぐに使える力=ディベート力
本質を見たいときに使える力=観察力

思うままに5分で書いたのでまとまってないかも。再考の余地あり。
 この白い箱に何でも自由に書いていいですよ的なアート。

 最近よく見かける白を基調とした空間。

 カフェなんかに行っても、使用前の画用紙ですか?みたいなちょっと落ち着かない空間。

 なんか最近の”モダン風”として、あるいは”近未来風”としてまとめられそうなあの感じ。おわかりいただけるだろうか、この感覚は…

 

 ところで、だいぶ前から私には一番好きな時間がある。

 それはダイニングテーブルの前に座って窓から外の景色を眺めること。

 私の家のダイニングからは町が一望できる。

 一人でその町の音や、ときには雨のにおい、春のにおいなんかに包まれながら、ぽけーっと溶けている時間がものすごく好きだ。

 リビングじゃダメ。景色が一望できないから。ベランダじゃダメ。他人の視線がなくても気になるから。自室じゃダメ。日常すぎてしまうから。誰かがいたらだめ。気が散るから。そのあとに予定があったらダメ。顔に塗装を施さないといけないから。

 一人で開けた空間にいるという事実がまず私の心を解放させてくれる。

 引きこもっていた時はその景色が日常だった。
 今は多忙を極めているが、そうなるとこの時間の価値の重みが変わった。

 絶対に週に一回は設けるようにしているその時間は私の日常でのささやかな贅沢と化した。

 わざわざ設けなくても自然と生まれていたその時間が、私から見た社会が少し複雑になった途端に、そしてなればなるほど、見えにくくて、遠くて、有るのが難いものへと変わっていく。

 ああ、こうして空白は必要とされていくのかな。と思う。

 つまり、空白はそれだけだと空白には、なれない。
 自由帳もたくさん使われているからこそ、使っていないページがあることが嬉しくなる。真っ白だと逆に何故かだか、もったいないとか、緊張が走ったりする。

 
 結局何が言いたいのか。
 あらゆる時代でも憩いの時間は必要とされてきたし、徒然草では今流行りのジャーナリングの先駆けみたいなことやってるし、、、複雑なのは世の常なのかもしれない。

 だがしかし、<<<こんなにも白紙をアートとしたり色がないことを持て囃す今の社会…。これってなんかだいぶ疲れてません!?!?>>>
ということです。

 社会が目まぐるしすぎる。情報化社会。コスパ。タイパ。有能無能。即戦力。
 
 あのね、人間もお魚と変わらないんだよ。二酸化炭素出してるだけでいいの本来は。
 ちょっと大きめの脳をたまたま持ち合わせちゃったもんだから、社会性は必要になったけど。言葉は操れちゃったけど。
 本来、光の速さなんて人間の知る由もないはず。自分たちが光でもない限り。(まあ、とんでもない脳のフル稼働や、AIさんによって光になれちゃう日が来るのかもしれないけど。)
本来は呼吸してるだけなの!母なる大地に根差してるだけなの!

 なんか思想強めな感じに映っちゃってるからここら辺にしておこう。

 というわけで、何かがあるなかで生きている我々だからこそ、ないということそれ自体に価値を見出すのではないか。たまに「何者でもない自分」とか、「何にもないから何でもできる」とかいう人いるけどさ。もう少し言葉を丁寧に使ってほしいよね。
 
 何にもないは嘘。社会という物差しで測るから何者でもない、になるわけだし、満たされていないとかいう自分とその他を比較してるフィルターを通してるから何にもないになるわけだし。

 今日は「ないはない」とかいう存在のテーゼを推してるのかなみたいな文章になっちゃった。なんかまた哲学チックな変な方向でべらべら語り出しそうだから、、ここらへんで のうみそは しゃっとだうん しておこう。


PS 今日は、内容にちなんで、余白と句点を、増やしてみたョ。





 

 「おめえが間違ってるんだよ」「おめえのその気取った人間性からは何も見えてこねえ」

 は?

 今日家に帰ったら一番に言われたことだ。


 私が食べようとした鳥そぼろ。「そんなしょっぺーもんくえねーよ。」「その卵どうした、俺の分はねーのかよ」(自分はさっき食べたのに)

 こうして酔っ払いに絡まれる。喋ってもないのに一方的にストレスを吹っかけてくる。
この間私は一言も発していない。

お酒を飲んだからって何しても許されるわけではもちろんないが、本人にそれを伝えたところで伝わることはない。(何かに本当に依存している人とかかわったことがある人は頷けるだろう。)

小学生、中学生の時は帰ってきて急に「おめえがやばいんだよ、間違ってんだよ、だから社会に適合できないんだよ、お前の人間性がどうかしてる、誰に似たんだろうか(カーーーーッツ、ペッツ)」と言われたら、どうしてそう思うの、自分のどこが間違っているのと素直に言われるがままに聞いていたけれど、結局帰ってくる答えは「俺は一生懸命やっている」だった。本人も社会的につらいからお酒に飲まれてしまう心の寂しい人なのは分かっている。でも今日はさすがに疲れてむかついたので寄り添う気にはならないのでそちらの言い分は無視する。

よく真面目に聞いてたね、幼いころの私ちゃん。
素直さに脱帽しちゃうよ。よくそんな酔っ払いの話を相手にしてたね。だからこうして心にはたくさんの絆創膏が貼られているんだね。

本当に身の毛がよだつくらい嫌いなあの酔っ払いの声。ちびまる子ちゃんのお父さん、ヒロシの酔っぱらった時とシラフの時をあんなにイメージしやすく表現している屋良さんはすごいと思う。酔っぱらっているときの声を聴くと本当に耳をふさぎたくなる。

最近、実父の酔っぱらっているときの声を聴くと片耳が聞こえなくなる。くぐもったように感じる。鳥肌が立つ。みぞおちから湧き出る憎悪と憎しみ、嫌悪感が私に覆いかぶさってくる。

そんな夜を過ごすのが耐えられなくて、私はいつも2時間の散歩に出かける。
あの想像するだけで耳が腐るような声を聴くぐらいなら、夜の9時から11時まで外で放浪していた方がよい。

実家の安心感などという言葉は、そこにはない。


 

 普段、同じ年齢層の友達と話していて”この人の話はおもしろいなー”と思うことは、ほぼない。

 

 しかし、この人の話は本当に面白い!!と思える人は文字の中やネットの中にはたくさんいる。 

(この人面白いよね!なんて現実で語ろうものなら、友達にはオタクのようにべらべら喋ってるやつにしか映らないだろう。友達と話すときは恋愛の話や、推しの話、授業の話等々、聞き役でちょっとツッコむ程度である。)

 

 自分が面白いと思うことについて、考えてみた。面白いと思う配信者、ブロガー、通話する友達、面白いと思うお笑い芸人、教授など。彼らに共通するものはあるのか、あるとしたら一体何なのか、を考えてみた。

 

 自分のお気に入りの人が話すとき、聞こうとする私の中に普段とは違うところがあるような気がする。

 特に知的な人の話を聞いたり読んだりするときは、それ用のスイッチを自分の中で作動する気がする。”この人が話すから”、今から面白い話題がくるかもしれない、 新しい視点が得られるかもしれないといったような”期待”が自然と生まれてくるように感じる。つまり、自分の中で、その人からの恩恵を最大限受けようとするような姿勢へとスイッチを切り替えているのである。そして、より集中して自分の感覚にすり合わせるように聞いてしまう。つまり、”何を話すか”ということだけでなく、”誰が話すか”という人間性も含むようである。もっともこれは聞き手側からの視点であるのだが。

 

 

 ここからは面白いを発信する側への考察になる。

 

 前置きがすごく長くなってしまったが、面白さには条件があるのではないかと思った。条件は大きく分けて2つ。

 

  ①面白さとは、毒を含んでいる

  ②その毒を魅せる表現の工夫や独創性がある

 

それぞれを具体的に説明していく。

 

 ①に関して言い換えれば、毒を含ませることのできる感性と、それをさらけ出すことのできる勇気を持っているかどうかである。毒とは分かりやすく表すと”歪み=平均からのかけ離れ具合”である。

 毒は鋭ければ鋭いほど他人に刺さる。毒の鋭さとは、他者から見て「この人の言ってることが分かるゾーン」と「この人の言っていることは分からないゾーン」との”きわ”の部分を攻めることである。この時、決して「分からないゾーン」に触れてはいけない。あくまでも、分かるけれど、あえて言葉にしない歪みだからこそ、人とは違うその人らしさが表れて面白くなるのである。そしてそれが巧みであればあるほど、ニッチなウケを示してもらいやすい。つまり、おもしれぇ奴になりやすいのである。

 

 ①の最たる例は、美男美女、満ち足りてる人、幸せそうに見える人がいけ好かなく思えてしまう現象である。しかしこの感情を抱いてしまう”自分”が嫌な奴だということではない。本来、このような”言葉にはされてないけれど存在するえぐい感情”、すなわち”他人の不幸は蜜の味”的な感情は、人間という社会性を持つ動物的な視点からすれば、ごく普通の感情である。余談だが、最近このyoutuberは彼氏・彼女ができてつまらなくなったよね、とか前のほうがよかった、と思う感情というのは、その人の持つ毒性が本人の幸せによって浄化されてしまったからがゆえに起こる取り残された側の抱くぽつんと置いて行かれた感情なのである。(だからといってそれをコメントにズバズバと書き込んでいいとは思わないけれども)

 

 

 ②に関して。言い換えればこれすなわち、人と違って表現できる器量があるかである。含ませた毒を”いかに魅せるか”、魅せる工夫ができるか、ということである。②に関しては話術や表情、文才など天性のようなものも含め、磨かれた感性を持っている必要があると思う。もちろん自分の毒(すなわち個性)を全員が全員笑ってくれたり、納得してくれるわけではないが、より多くの支持がある人は、やはり人を惹きつけるだけの器量があるなと思わざるを得ない。

 

 すごく個人的な見解にはなるけれど、ロバート秋山さんやジェラードンさんは②が本当に上手だなと思ってしまう。特に彼らの表情やしぐさなど、他の人が持ちえない独特な”あの感じ”はすごいなと見るたびに思う。

 

 

 今日は(も?)、ずいぶんと堅苦しめの現代文みたいな文章になってしまった気がする。

 

 ここらへんでまとめておくと、面白さとは毒のベクトルや露出具合によって決まり、それを表現する人の魅せ方によって見え方が変わってくるものなのではないか、ということである。

 

 

 

 

PS 考察時の①のイメージ図