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Benjamin

わたしのあたまのなか。


 暑いことを言い訳にして最近は何もしなくなった。

 そうしたら自然と何のやる気も起きなくなった。

 やる気は動いていたら自然とついてくるもののはずなのに、初動ができなくなった。

 もうそろそろ人間としての機能を果たさなくなりそう。

 止まっているはずなのに停滞感に苛まれている感覚もある。

 もう二か月くらいずーっとこれ。

 女の話って面白くない。

 ”自分は10割聞き手である”と洗脳しないとやってられない。

 その間に他のことでもしようという精神がないと女友達の話は聞けない。

 議論というのは自分の軸を見せてもいい場所である。

 女の会話というのは相手に軸などいらない、むしろそんなものがあろうものならば、こいつおもんねーなムーブさえされるだろう。

 女が女にする話は大体現状の報告か、嫌いな人の話か、推しの話のどれかである。

 厄介なのは、時々議論をしたいそぶりを見せることである。そんな時でも私の意見を魅せようもんなら、はい違いますといった剣を振りかざしてくる。

 
後日編集

 なぜか急にさみしさが襲ってくるときがある。
 そんな時、一分一秒がものすごく長く感じられる。まったく時間が進まない。
 こんな時がある。それは事実である。

 ここからは私の妄言である。

 少し待てば、きっと寂しさは通り過ぎて行ってくれると頭ではわかっている。
 そう自分に言い聞かせたとしても思考を巡らせるだけの暇がある以上、通り過ぎてくれるのを待つのは途方もないことのようにその時点では見えてしまう。

 待てば終わるはずなのに。一瞬我慢すればいいはずなのに。

 女の人が今のパートナーを不満に思うこと以外で浮気をしてしまうときってこういうときなんじゃないかな。

 さみしさに抗えない。

 かまってくれる相手がそのさみしいが通過しているその時にたまたま居合わせてくれなかったとき。

 自分の中でのどうしようもないさみしさと、相手の負担になられてはいけない、めんどくさいと思われたくないという自制心が綱引きをしている状態。

 相手に今は寄りかからないでいなきゃという抑制が強ければ強いほど苦しい。

 そんな時、かまってくれる相手がたまたま現れたら、自分でかけた絞首をほどく反動かのようにとても快楽が強くなる。

 ふと寂しさという感情の逃げ道ができてそのさみしさが快楽という感情へ形を変える。

 少しほかの男の人が話してくれるだけで寂しさが一瞬の快楽へと姿を変える。


 んで、大体こういう時に限ってパートナーから連絡がきたりすると「なんでよりによって今なの!私が寂しい時には構ってくれなかったのに!(タイミングの悪いやつだな)」となりがちになるのが恋愛ドラマとかでよく見かけるパターンだと思う。

しかしこの現象はよくあることである。”なんで?”ではなく”妥当なタイミング”だと思うのである。
 
 宿題を今やろうと思ってたのになんでよりによって今「宿題やったの!?」って聞かれなきゃいけないんだよ。みたいな『なんでよりによって今なの!?』現象とでもいったん名付けておこう。

 この現象の裏にはきっと自分の時間への捉え方が大きく作用していると思う。

 つまり、今までの抑制や圧力、ストレスといったいつもは感じないはずの感情を持つことによって、いつもは感じないはずの時の流れが発生するというものである。

 女の一瞬の快楽の話でいえば、いつも感じている何らかしらの緊張状態や自己抑制によって、感情の逃げ道がある時間はその感情の反動で相対的に存在感のあるものとなるのだろう。
 (この快楽があるんだろうなということは否定しないが、それを行動に移すかどうかはその人の美徳がどこまでかっこいいかによると思う。)


 そんな寂しさに襲われないようにするにはやはり、普段から多少は忙しくしていることが一番なのかなと思う。また、襲われてしまった時には、自分の信頼すると決めたパートナーの言葉を思い起こしたり、いざというときの抑制された感情のはけ口(友人や従妹など)を事前に考えておくことも大切なことなのかなと思った。
 
 やっぱり峰不二子はつよい。


後書き

7月はなかなかに痺れた。大学という名の戦闘を終えて帰路についたのに、月4投稿を掲げてしまった以上未だこうして息をつくことが許されていない。やはり痺れるね。8月は夏だけど冬眠しよう。

 何となく漫画を読んでいたときだった。

 私は漫画を読むのが早い方じゃない。
 
 主人公の描写やしぐさなども含めて眺めるかのように読むのが好きだ。こういう言葉の使い方をする人物なんだな、こんな風に行動が出てくるのか、こんなものを食べているんだ、と一種の人間観察というか、その人をのぞき見しているような感覚である。だから、その漫画に出ている部屋の配置とか。使われている道具とかもよく見る。

 これは逆の見方をすると、一番印象に残るであろう派手なシーンやクライマックスが人よりも相対的に薄い印象として受け取っているのだろうと思う。

 もちろん戦闘もので戦うシーンがあったらかっこいいなとは思うし、敵を倒していく姿に、非日常性や快感を覚えるのも分からなくはない。

 しかしそれよりも、登場人物たちの交わしている会話や動作に目が行ってしまう自分がいることに気が付いた。

 昔からそうだったのだろうか?と考えてみた。

 例えばプリキュア。
 普段は学生をしているお姉さんたちがキラキラ変身して敵をやっつけて、この世界は私たちが守る!的なキメ台詞を言っている姿をよくまねしたものである。

 昔はあったインパクトの強いシーンの自分の中での印象付けが、いつからか薄れていったのである。いや、もしかしたら細かいところを察知できるようになる感受性が後から養われていったのではないかと思う。

 これを、人の成長という観点から読み取ってみた。

 子供はまず喜怒哀楽といった単純構造の感情を記憶の中に刷り込んでゆく。これかっこいい!すごい!楽しい! これは怖い。悲しい。などなど。

 こういう体積の大きな感情がまずボトルに詰め込まれていく。

 そのあとで、この悲しさにはこのような面とこのような面が混在していると、言葉にはできなくとも感じていくんだと思う。

 つまり単純構造の感情でも世界を知っていくにつれて、その感情の構成が単純ではないことに気づく思考回路が培われていくのだと思う。

 私はこの複雑化が大人になることのアドバンテージでもあると思うと同時に、昔はよかったとノスタルジーを感じざるを得ない悲しい現実でもあると思う。このような要素も、どうせ大人にならざるを得ないなら突き抜けた大人になってやるという自分がいる一方で、大人になんてなりたくないと思っている自分がいる原因のひとつなんだと思う。

 いつもながらにだんだん書いてきたら小難しいような話になってしまった。

 
 要するに、子供はジブリ飯なんかで騒がない。もっとインパクトの大きい(例えば子供にはトトロが見えるんだ!というキラキラした希望や空にはお城があるんだ!という期待感に駆られる。だからジブリ作品を見て胸がいっぱいになる)

 かなしいかな、ラピュタパンを再現しよう!とかハウルの目玉焼きおいしそう!とか思ってしまうのは大人すぎる。


 これが最近私が感じた、自分が子供のころとは変わったと思う瞬間であった。
 



 おぢきもい。←わかるわかる。

 女の子だと一度は感じたことある感覚なんじゃないかな。


 なんできもいのかを少し言語化してみた。(←暇かよってなw)

 先日エレガント人生さんの「自己肯定感が高すぎるおじさんを適当にあしらうパパ活女子」という動画で、たった8分見ただけなのにホラー映画2時間分くらいの精神的疲労を負う体験をした。これがおぢのキモさを言語化するに至ったきっかけである。


結論からいきましょう。
 おぢへのキモさの根源、それはおぢの感情の処理までしないといけないというところにある。

 「PJという名の介護」というコメントが書き込まれていたが、そこにすべてが詰まっている秀逸な表現だと思う。


 パパ活でのパパとは、今まで女性経験が全くありませんという人は少数のように思う。むしろ20代や若かりし頃は一般的な恋愛もそれなりに経験してきたんだろうなと思う人のほうが多いのではないかと想像する。
 その今までの経験や女性たちがキモいおぢというバケモノを生むには一助となっているような気がしてならない。


 ”自分の感情と理性の見境が付いていない愚かさが露呈していると女側が感じること”これがキモさの根っこにあると思う。

 理性で自分の見え方や立場をわきまえていればいいのに、自分のモテた経験や若い女の子とイチャイチャしたいという感情が理性の制御を上回ることによって女の子はオエーーーーっていう感情を抱くのだと思う。

 (確かに感情がないとお金が動かないわけで女側もお金が欲しくてやっているのであれば感情によってしか恩恵は受けられないと言ってしまえばそれまでだが。それでもより一層キモいがブーストされる原因が感情であることもまた事実なように思う。)


 逆の視点で考えてみると、ちゃんとおぢの理性が上回って、あくまでも商売女と客と割り切ることができていれば、女の子も良客として扱ってくるだろう。
 現実世界においてもイケおじ枠に分類されている人はほぼ100%女の子に自分の感情の部分を見せていない。(ここで大事なのは、感情=下心がないわけではなくあくまでも”見せていないことが一貫されている”ことにある。)



 結局大人とは何かみたいな話題へ発展しそうになってきたが、自分の感情は自分でコントロールし、処理できるようになることが成熟した大人になるということであり、自立するということなのではないか。それができないで感情(≒下心)を露呈してくるから厄介で周囲を不快にする。
 これはメンヘラが男の人から嫌われるという構図にも転写することができるだろう。
 さらには職場のセクハラやキモいおじさんたちすべてにも通ずる話であるように思う。


 話を戻すと、お金の対価以上の感情の処理を突き付けられたとき、女の子はオエーーーーーーーーーーっとなるのではなかろうか。
 (そのオエーーを覆せるのは愛の力のみ。要するにおぢには無理。いい関係を保ちたいなら感情は出すことができません。悲しいですね。それがお金で見せかけの事実を買うということです。)




PS 有言実行のために1日2本書いた。
さすがに脳に糖分が必要かも。

 「好きなタイプはやさしい人です」、「あなたはやさしいね」、「君のやさしいところが好きだよ」 こういう言葉に嫌悪感を覚える。捻くれているかもしれないが、昔からずっとそう思う。なんでだろう。

 
 今日はこの“やさしい”という言葉への違和感について深掘ってみたいと思う。


 小学生の時、やさしい子が褒められていた。なんとなくそういう子は、いつも微笑んでいて、お花を摘んでいて、ハンカチを持っていて、協調性があって、自己主張が少ないようなイメージが記憶の中にある。
 そういう子は言葉を発している状況がこちらにはレアケースに映っていた。当然グループワークや給食の班の時間でも話さずに微笑んでいるだけで、話に積極的に参加することもないから一緒にいて楽しくはならないなとよく思ったことである。
 それでもそんな子が、クラスの優しい子というレッテルを貼られているように感じた。先生がいうやさしい子とは、大体おっとりしたような性格の子ばかりである。

 そこまでだったら私は別に違和感を覚えなかっただろう。
 こういう部類の子をやさしいと表現するんだと頭の中でカテゴライズできるだろう。


 その違和感が顕著になったのは、私がやさしいねと言われた時であった。
よく言ってくるのは親戚である。「○○ちゃんはやさしいね」とずいぶん言われるものである。あとは昔から顔なじみのあるご近所さんや、私のことを少し知っている人。

 やさしいねと言われてその場はうまく取り繕えても、言われた後になってみると「?」が浮かび上がってくる。”自分のことをやさしい子としてカテゴライズしていない私”と”やさしいと言ってくる他者”のギャップが私を悩ませる。

 このギャップを生んでいるものは何か。
今まではこれをギャップとして頭の中に宙ぶらりんにしていたがその感覚を久々に引っ張り出して言葉にしてみよう。
それはやさしさの尺度・解像度・定義が違うからだと思う。


 世間で言われているやさしいとは、色でいうとパステルカラーな感じである。
 ほわほわしていてそれに触れても心のずきずきしないもの。そのような感性や行動に対してほほえましく思い、やさしいという言葉を使うのだろう。学校の先生が、「あの子はやさしいですね、皆さんも見習いましょう」と言っていたあの子も、「○○ちゃんはやさしいね」と周囲の目に映っている私もきっとそういうパステルカラーの雰囲気を持っているような気がする。


 でも、私はそんなものをやさしいとは思わない。
 
 だってグループワークみたいな議論をする場で話題をに乗ってこなかったり、展開してこない奴なんて、その状況を切り取ったら私には厄介者に映る。
 私は思考を放棄します。発表も面倒くさいので意見出した人たちだけで頑張ってください。にこにこ。みたいに思えてくる。(もちろん、そういう子は実際そんなことは言ってないが。)

 また、一見ヤンキーっぽく見える人が猫を助けているみたいなああいうシーンで主人公の女子がトゥンク的な感じになっているのも全然納得いかない。
 もしものび太君みたいな子がやってもほんわかした雰囲気になるだけである。それなのにヤンキーっぽい人がそれをするからと言って印象がブーストされているなんていうのは、相対的にのび太君みたいなやつは損をして、ヤンキーみたいなやつは得をしているように感じて納得がいかない。

つまり、助けられた猫と助けた人間という構造は変わらないなずなのに、そこにやさしいという概念を当てはめてしまうことで一気に崩れてしまう何かが存在するのである。

きっと上記の例みたいなのを”やさしい”と言っている人たちは、お年寄りに席を譲るという光景を目の当たりにするだけで反射的に譲った人に対して優しいという言葉が出るんだろうな。

そんなパステルカラーの雰囲気を帯びた人や状態を、一般的な世界ではどうやら”やさしい”と定義しているみたい。

 だから、やさしいっていう言葉は最近まで全く好きじゃなかった。




 ただ、私の中で今のところすべての事象がうまく結びつく優しさという言葉への定義が完成してからその状況は変わった。

 
 私の中でのやさしさの定義というのはずばり、想像力である。
 優しい人とはそれすなわち想像力があるということなのである。

 例えば、さっきの例でお年寄りが席を譲ってほしくなかったらどうだろう。
おなかが痛いときに心配しないでほっといてくれることが一番ありがたい人だったらどうだろう。
 そういう人にとっては自分の中にあるプライドやポリシーによって断る負担というものが生まれうるかもしれない。
 もし仮にそのような負担を譲るという行為において生んでしまったとすれば、それはただの厄介である。


 そんなめんどくせーやつ少数派だからほっとけ!といわれるかもしれない。
 
 でも、そのような人だって少数ながら存在する。
(少数だからこそ私の優しさへの解釈もひねくれているように思えてしまうのかもしれないが。)
 
 つまり、他者にとってしてほしいこと、してほしくないこと、ありがたいこと、嬉しくないこと、得なこと、損なことという尺度は異なるのである。
 
 それを鑑みたうえで自分自身の行動を選択できる人、発言に移すことのできる人、自分の言動に責任を取ることができる人のことを、私は本当の意味での優しさと思うのである。



 行動に移すことだけが優しいじゃない。言葉にしたことだけが優しさじゃない。
行動しないことも、言葉にしないことも、ちゃんと考えてその結果に至る過程を含めてその人が実行したことならば、どんな形であれ優しさなのである。
 いちいち言葉にするのは難しいかもしれないけれど、もしも言葉にされたら、この人はそんなにも考えていてくれたんだと心が温かくなるものを心の中に持っている人。そんな人のことを私は優しい人と思うのである。

 難しいことに、私の定義の優しい人ほど”そのような考えの過程や葛藤をあなたのためにしました”と言葉にしてくることはない。だからこそ優しくて賢い人は良くない共同体にいたら静かに離れていく。大切だと思っていても気づいた時には時すでに遅しとなっている状況も成るべくしてなっているのである。



 私の目に映る優しさとはパステルカラーではなく、流動性を持つのに芯のある、透明のようなものなのである。
 すごく厨二病チックなことを言ってみる。

 「超越ってかっこいい。」

 これが今日のテーマです。眠いからさっさと頑張って書きます。

 
 さて。超越した人間になりたい、そんなことを思ったことがある。我の強い人間ならあるのかもしれないこの感覚。でも本当になれるのか。

 何に対して超越するのかとか、どんなことをすれば他者を克服したのかとか、いろいろ議論する余地がありすぎる。ということはこのお話はちょっと漠然としすぎているんだな。

 今回は文化と部族という観点からの超越について考えてみたい。

 人間は生まれつき社会システムの一員として何かしらのしがらみの中に組み込まれている。母体があって、住む地域がある。その中にはその中での従来のルールがあるだろうし、生きているうちに新たに紡ぎあげられている側面もある。けれど人間のちっぽけさから見て明らかなように、実体験を得る地域や文化には限界がある。

 例えば一口に日本を切り取ってみても、沖縄の人にとっては本土の人を「やまとんちゅ」と呼び、自分たち沖縄県民のことを「うちなんちゅ」と呼ぶそうだ。
 私のような本土の人間からしたらそういう区分があることが新たな発見である。
 
 このように日本という社会を切り取っても概念の違う組織が点在している。
 これは地域性などの地理的要因だけでなく、思考回路や使う言葉や性格などあらゆるもので”枠組み”を作ることができる。


 では、この社会の中に無数にある”枠組み”を知ってコントロールすることが超越になるのか。枠組みを知っていることが偉いのか。今回はその枠組みとして国を例に挙げてみます。

 やたらと留学をしたがる人、或いは留学をした経験をひけらかしてくる人。世界を見てみたい。その気持ちで純粋に楽しんで帰ってくる人は多いが、なかには[私は海外を知っていますので。」と鼻高々になる人もいる。
 それってすごいことなのか。確かにその人からしてみれば別の枠組みをもう一つ見てきたという大きな変化になったのかもしれないが、せいぜい他の国ひとつ見ただけだ。現実的に考えてすべての国に住んで文化を知り、熟知することはできない。


 以下、抽象的な説明にも応用できるように参照写真に合わせたアルファベットを振っておく。

 C(日本)にいてA.B.D(ほかの国)を見て回ることが聡明なことなのか。はたまた、すべてを見れるわけではないのだから、C(日本)を知り極めていくことが聡明なのか。A.B.D(他の国)を見ている人のほうが枠組みがあるということを知ったうえでC(自分の国)を判断できる。しかし、その紡がれてきた歴史の中で育まれてきた国を作ったのは大部分が外部からの接触を受けていない者ではないか。だからこそそこには(C)独自性がある。

 相対的に保守的な立場が好みか革新的な立場が好みかという話になってきそうだな。

また、C(日本人)ならばC(日本人)として誇りを持つべきなのか。それは他国から見たら嫌なものに映るのか、すごいものに映るのか。この辺もスタンスが難しい。
 


 広い見聞が聡明か、深い思慮が聡明か。

 どちらにせよ構成員の一部であり、超越は難しそうだ。けれどこの二択は別の意味で奥が深い。両方の視野を入れること必要になるのは牽引する者、つまりリーダーに必要な素質ではないかと思うのだ。逆にパンピーの人たちまでこの考えを持ってしまうとシステムのバランスが崩れてしまう。広い見聞が得意な人、深い思慮が得意な人それぞれがいてはじめてC(日本)という共同体を形成することができるのである。


 結局それぞれには役割があるということだし、一概にどちらのスタンスが正しいということは非常に難しいし、自分が構成員であると意識した時にその枠組みに対して自己批判的な立場をとるのか肯定的な立場をとるのかなどといった多くの観点が存在してくるという話だったように思う。

 この写真の構図は国だけでなくて、さっきも言ったように性格診断の属性や都道府県、部族・集落、アイドルなどすごく広くあてはまる普遍的な概念だから面白いと思う。

 なんか、話がまとまり切らずすっきりしないもので終わった感じがする。
 難しくて改善の余地のある話になってしまった。
 眠いから寝よう。


↓参照画像 集合体恐怖症の人すみません まる=枠組み てん=構成員


 先日、何を本業としているのかわからない人たちと交流する機会があった。
 
 何を本業としているかわからない人たちというのはいわゆる社会人からすれば独特の感性を持っているように感じる。

 何も知らない私は、この人たちはどうやって稼ぎを得ているんだろう、どうやってここのつながりが形成されたのだろうと思ったが、私もその場にいる時点でそっち側の人たちになりかけているかもしれないと思った。
 たかが数時間その場にいただけだが、歓談の時間が設けられて話しかけられたり紹介してくれた人が知り合いを呼び…といった形で多くの人と話をした。
 
 決して怪しい集団ではない。(いかにもなセリフだがw)地域ボランティアとかそのような類のコミュニティーである。
 どの集団でもそうだけれど小規模になればなるほど、個人事業主というのはその人自身の人脈やコネを駆使しないと生き残ることができない(その事業に対する研究者並みの熱意がある人は意外にも個人事業でも社会にうまく溶け込んでいるのでここでは除外する)。
 だからこそ周りの人に自分から歩み寄っていくし、お節介とまではいかないけれど他人に対していい顔もするのかなと思う。まだ多数社会のレールの上しか歩いたことのない私の目にはそのような世界に映った。

 

 正直、普通(何をもって普通かは一概ではないけれど大人が描きがちな社会のレールというスタンダード)の人たちにとって彼らの善意や意向は、奇妙に映るかもしれない。

 なんでそんなに人と繋がりたがるんだろうとか、さらにいえば干渉してくるんだろうとか思ってしまうかもしれない。実際私に話しかけてきた人の中で、学生としての意見は大変貴重なのでもし何かあればここに連絡してくださいと言ってくる人も何人かいた。

 しかしながら、私は別に彼らと繋がりたいわけではない。ただ友人の誘いの観客要因で足を運んだまでである。だからこそ余計その場が独特に思えたのだろうが。

 要するにあっち側の世界の人たちの暑苦しさは小規模であるからこそ生まれた自分たちの生き残るための生存戦略なのである。
 


 ここで少しボランティアと仕事について考えてみたい。
 
 正直な話、ボランティアというのを私は一口に素晴らしいものと称賛できない。というのもボランティアというのは大体の場合が人のためになりたいという自分の欲が先行して始まるからである。
 100%相手のことを考えたものではなくて、少なくとも1%くらいは自分がやりたいという”下心”があって初めて動き始めるものでもあると思うからだ。それが結果としてもおすごく社会に貢献したものであるとしても、今ある地域ボランティアは大体がそのような「人のためになりたいですワタシ」という感情で存在しているように感じる。

 そういう団体でお爺さんお婆さんや学生を多く見かけるのもこれが一因としてあると思う。それに助けられるのはほとんどの場合社会的立場の弱い人たちだけである。
 普通に生活していて大した苦労をしない限りその支援のありがたみというのを享受することはたぶん一生ないだろう。だから産業にもならないし、経済も回らない。けれどそのお節介や人のためになりたいという感情を持っている人たちのおかげで社会の一般から疎外されている人たちは救われているのも事実である。こう考えるとボランティアもうまく社会の構造としてはめ込まれているのかもしれない。

 

 ただ何度も言うように所謂”ふつう”の人たちからすれば、そのような人たちは暑苦しいおじさんやおばさんでしかないし、すごくつながりを求めたがってくる人に見える。



 共生という名の強制をしている人に思えてしまうのである。
 

「嫉妬という感情(Envy・羨望)は社会を発展させる原動力になるか」

 これが今日の内容だった。
 この内容や定義と私の考察については後々また触れようと思っている。

 今日伝えたいのは私の見ている世界がものすごく独特かもしれないということだ。

 私はこのような問いを受けたときに、嫉妬という対象を真っ先に”人間の直感としてつかむもの”という印象を受ける。
 しかし、多くの人は直感や感覚的なものでは現象を語らない。
まず論を構築する。よく見たり、触ったりというようなフィールドワークというよりも対象とするものがどのように作用していて、どんなメリット・デメリットがあるかという方ばかりに目を向けたがる。

 個人の感想としては、もっとじっくりその対象を見てみたいし、みんながそれをどのようにみているのか、触った時にどのような感覚なのかを知りたい。正解もなくて、最適解も数値で出すことはできないけれど、確かに存在する”みんなの腑に落ちるエリア”というのは大抵の場合あるはずである。

 そこを情報共有したうえで、こんな側面があるから有用・有用でない、むしろ足を引っ張っている、などといった議論をしてみることで今まで見えてこなかった視点や気づきが生まれると思う。ディベートとはそのための手段のようなものでしかないと思う。

 単に、こっちの立場のほうが立論がうまくて一貫性と発展性があって、みたいなところで評価をするのは、確かにこの高度情報化社会の中では即戦力として一つの力にはなると思う。

ディベートの中では議題の本質や核を考えることよりも、相手より自分の立場を良く”魅せる”核を作ったり、決められた時間の中で質疑応答をするといったようなプロセスを経て採点・勝敗というゴールがある。だからみんなそこを達成することに必死になって、その議題についてはパッと見るだけですぐに通り過ぎてしまっているような感覚に陥る。

就活とか、プレゼンとか、社会に役立つスキルとしてディベートのような論理的な思考で素早く論を組み立てるというのはもう一度言うが、すぐに使える有益な力にはなる。

しかしながら、こんなファスト的な社会だからこそ、もう少し立ち止まってとの本質や核となる部分をせっかくみんながいるんだったらその場で見つめてみたいな、と思った今日でした。


メモ

すぐに使える力=ディベート力
本質を見たいときに使える力=観察力

思うままに5分で書いたのでまとまってないかも。再考の余地あり。