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Benjamin

わたしのあたまのなか。

【要編集】
令和の時代になってもまだなお人を不快にさせるベクトルが昭和すぎる老害に遭遇した件について
【要編集】

社会全体で見たら基本的に気を遣える人って損してる。運転の時、就活の時、道を歩くとき
ただ圧倒的に得をするときがある
対個人の時

 のどぼとけの奥がつっかえるような苦しくてたまらない時間。
 ふとこみあげてくるそいつのその瞬間はいつだって急に襲ってくる。
 誰が隣にいようともきっとずっとそこにいて、気分次第で顔を出してくる。
 
 
 温かな気持ちになる感情はじんわりと、そしてゆっくりと私のそれを満たしていってくれるのに、負の感情とは残酷で、いつもは様子をうかがっていざという一撃のタイミングで姿を現し私を飲み込んでしまう。

 今日、そいつが顔を出した。
 今日は死にたかった。

 死にたいと思ったこと。伝えた相手のほうが眩しくて、自分が哀れでみじめな存在に感じたこと。それでもそう思った気持ちは嘘じゃないと思ったこと。頭じゃわかっていても他人はどこまでも他人なのだということ。
 そのような事実の羅列が絶好の餌食だったのだろう。

 ここぞとばかりに独壇場にしてくる。
 私を悲劇のヒロインへと追いやる。
 衣の袖を濡らす女へと拉致する。


 じんわりと、でも確実にその色に染め上げてくるその様はまるで、私の中に一滴の墨汁を垂らしたみたい。

 ひとたび落とされたたかが墨汁が、たちまち私を奪ってくる。

 あることないことで事実への感情を増幅させてくる。


 自分の中で喉から手が出るくらいに欲しくなりそうな何かが生まれたとき。
 自分ではどうしようもないくらいの十字架を背負ったとき。
 今まで持っていたものの大切さを失ってから気づいたとき。
 そのような強い感情がうごめくその場所を、そいつは我が物顔で転がしてくる。


 まずはとっても悲しくて。悲しくて悲しくてたまらない気持ちになる。
 死にたいと思うその事実がとっても悲しいことなのかもと耳元でやつがささやく。

 そうしてとっても寂しくて。寂しくて寂しくてたまらない気持ちになる。
 飲み込まれている自分ではない他者のぬくもりが痛いくらいに恋しくなる。
 きっと大きくて絶対的な他者の存在から、少しでも自分はそいつに抗えてると思いたいのかもしれない。

 最後はとっても悔しくて。これだから女は、と自分に言い聞かせざるを得ない。
 なんてみじめで愚かで厄介な生き物なんだろうと思えてくるのである。


 そんないろんな感情が、胸の奥でうごめいている。苦しくて寂しくて悲しくてつらい気持ち。それに呼応するように瞼の窓が開けて水は滴るのである。そうして私ののどぼとけの奥がじりじりとする。声にならないその声を外に出すことで、やつではない自分の存在を保とうとしているのかもしれない。

 幸せとは何かという命題は高校生のころから背負っている私の大義名分である。

 それを探し求めるために大学へ行ったようなものだ。

 でも今のところ分かるのは人によって幸せの形は変形しうるということである。

 幸せとは自分の想像力の及ぶ範囲で生きることなのかもしれないとも今のところ思っている。

 では、幸せは豊かさとは違うのか?豊かなのに豊かではないという感覚の正体は一体…

 こういうところにこそ普段からしている考察の余地を感じるのである。
 欲望に対してもっと解像度を深めたい。

 今まではそれが原因で起こることに対しての対症療法的なことしか考えていなかったけれど、それは汎用性が低いことに気づいた。それはお説教になりかねなくなってしまう。

 決してその症状に対する処方箋になってはいけない。あくまでもその症状自体をよく見ること。どうこうしようとするのではなく、よく見るのだ。これはこれから研究するにおいての私自身への戒めである。

 それが論ずるうえでの前提だということ。

(前座の文章はよろしいが欲望の正体についての言及がないため加筆の必要性あり)

 先延ばしという事実が苦しい。

 小さなことからという言葉すら苦しい。

 そんな時は待ってあげるほかない。

 どうせ追い込まれたらやるんだから。

 或いは、あまり褒められたことではないかもしれないが下には下がいることを知って自分を奮い立たせるか、何か強烈なインシデントが起こるのを待つか、くらいしかないのではないかと思う。

 こんなに何もしないことによる心的疲労が大きいのであれば早く社会人になって土日休みが欲しいまである。なんかニートとかやることや人生に希望がない人とかも同じベクトルで苦しんでいる人はいそうだな。

 今を楽しめていないこと。これも限界大学生の定義の中に含めてはくれないか。
 9月は8月の余韻の波に乗って月初にこうして4つのタイトルを先に覚書しておこうと思う。

 一枚の白紙を用意されて何か書いてくださいと言われたら、こうしてブログを書くという漠然としたページの画用紙を用意されたら、これを書こうとか、あれを書こうとか言うアイデアはたくさん溢れてくる。

 つまりタイトルはすぐにぽんぽんと決まるのである。

 そこから一つの作品に仕上げるのはまた別の話なわけであって。

 アイデアを形にしていく作業はそろそろ涼しくもなるし、夏休みも終わって生活という名の規則に乗せられることによって作品に仕上げる労力も湧いてくると思ってる。

 今はこうして本当に徒然なるままに書いているけれど、もう少ししたらきちんとした文章を書いてくれるんじゃないかと思います。

 その辺は私の中にいる、気難しい執筆先生のご機嫌を伺いながら気長に待ってあげるしかないのです。

 そういうところがもどかしい自分もいるし、そうでしか私は保てないのだろうというある種のアイデンティティを感じている部分でもあるわけですね。

 というか、今の数時間を俯瞰してみると何もせずに過ごしていた8月と今月のタイトルをもうすべて埋めているという9月の落差が大きすぎて自分でも戸惑っている。

 これ用の友達

 ”親友”という類の友達。

 気づいたら長くいたから親友に昇格してお互いに親友という言葉を共有しただけにすぎない。

 結局価値観が違ってしまえば絶好という言葉や疎遠になってしまう。

 本当にその人の存在を大切にするのなら、価値観が違った時にそのような”軽率に見える”行動を果たしてとるのかどうかという話

 最近彼氏に忙しい気がする。

 そのせいで日常の脳のリソースが考察に割けていないのか???

 だとしたら鬱陶しすぎる!早く時間よ、経ってくれ!!!馴染んでくれ!!!

 自分が自分らしくないところに嫌気がさす。

 恋愛ってこれだから嫌いなんだ。

 人を好きになって、自分も好きになってもらえて幸せになるのはいいことだとは思うんだけど、普段なら鋭くてとがった考察に充てているそれが恋愛に自動的に全別途されてしまっている。だるすぎる。

 ふたりの人間が好き同士になれること自体は幸せなはずなのに、孤高で鋭い方がかっこいいという美意識もある。バランス調整が実に難しい。

 あと!妬むような視線が1%でも感じられてしまうから親しい友人である彼氏なしの友人には話すこともできない。

 いろんなことに翻弄された8月だったような気がする。 

 なんかほんとに今最近忙しいんですよあたくし。

 

 
 

 こうして月が替わってしまうときに月4投稿を達成しようとする感じにものすごくパワープレイ感を感じる。

 許してくれ。まだ8月だ。(ダイエットは明日から理論と一緒だ)