やたら繋がりたがる大人たち【考察】 | Benjamin

Benjamin

わたしのあたまのなか。

 先日、何を本業としているのかわからない人たちと交流する機会があった。
 
 何を本業としているかわからない人たちというのはいわゆる社会人からすれば独特の感性を持っているように感じる。

 何も知らない私は、この人たちはどうやって稼ぎを得ているんだろう、どうやってここのつながりが形成されたのだろうと思ったが、私もその場にいる時点でそっち側の人たちになりかけているかもしれないと思った。
 たかが数時間その場にいただけだが、歓談の時間が設けられて話しかけられたり紹介してくれた人が知り合いを呼び…といった形で多くの人と話をした。
 
 決して怪しい集団ではない。(いかにもなセリフだがw)地域ボランティアとかそのような類のコミュニティーである。
 どの集団でもそうだけれど小規模になればなるほど、個人事業主というのはその人自身の人脈やコネを駆使しないと生き残ることができない(その事業に対する研究者並みの熱意がある人は意外にも個人事業でも社会にうまく溶け込んでいるのでここでは除外する)。
 だからこそ周りの人に自分から歩み寄っていくし、お節介とまではいかないけれど他人に対していい顔もするのかなと思う。まだ多数社会のレールの上しか歩いたことのない私の目にはそのような世界に映った。

 

 正直、普通(何をもって普通かは一概ではないけれど大人が描きがちな社会のレールというスタンダード)の人たちにとって彼らの善意や意向は、奇妙に映るかもしれない。

 なんでそんなに人と繋がりたがるんだろうとか、さらにいえば干渉してくるんだろうとか思ってしまうかもしれない。実際私に話しかけてきた人の中で、学生としての意見は大変貴重なのでもし何かあればここに連絡してくださいと言ってくる人も何人かいた。

 しかしながら、私は別に彼らと繋がりたいわけではない。ただ友人の誘いの観客要因で足を運んだまでである。だからこそ余計その場が独特に思えたのだろうが。

 要するにあっち側の世界の人たちの暑苦しさは小規模であるからこそ生まれた自分たちの生き残るための生存戦略なのである。
 


 ここで少しボランティアと仕事について考えてみたい。
 
 正直な話、ボランティアというのを私は一口に素晴らしいものと称賛できない。というのもボランティアというのは大体の場合が人のためになりたいという自分の欲が先行して始まるからである。
 100%相手のことを考えたものではなくて、少なくとも1%くらいは自分がやりたいという”下心”があって初めて動き始めるものでもあると思うからだ。それが結果としてもおすごく社会に貢献したものであるとしても、今ある地域ボランティアは大体がそのような「人のためになりたいですワタシ」という感情で存在しているように感じる。

 そういう団体でお爺さんお婆さんや学生を多く見かけるのもこれが一因としてあると思う。それに助けられるのはほとんどの場合社会的立場の弱い人たちだけである。
 普通に生活していて大した苦労をしない限りその支援のありがたみというのを享受することはたぶん一生ないだろう。だから産業にもならないし、経済も回らない。けれどそのお節介や人のためになりたいという感情を持っている人たちのおかげで社会の一般から疎外されている人たちは救われているのも事実である。こう考えるとボランティアもうまく社会の構造としてはめ込まれているのかもしれない。

 

 ただ何度も言うように所謂”ふつう”の人たちからすれば、そのような人たちは暑苦しいおじさんやおばさんでしかないし、すごくつながりを求めたがってくる人に見える。



 共生という名の強制をしている人に思えてしまうのである。