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Benjamin

わたしのあたまのなか。

 この白い箱に何でも自由に書いていいですよ的なアート。

 最近よく見かける白を基調とした空間。

 カフェなんかに行っても、使用前の画用紙ですか?みたいなちょっと落ち着かない空間。

 なんか最近の”モダン風”として、あるいは”近未来風”としてまとめられそうなあの感じ。おわかりいただけるだろうか、この感覚は…

 

 ところで、だいぶ前から私には一番好きな時間がある。

 それはダイニングテーブルの前に座って窓から外の景色を眺めること。

 私の家のダイニングからは町が一望できる。

 一人でその町の音や、ときには雨のにおい、春のにおいなんかに包まれながら、ぽけーっと溶けている時間がものすごく好きだ。

 リビングじゃダメ。景色が一望できないから。ベランダじゃダメ。他人の視線がなくても気になるから。自室じゃダメ。日常すぎてしまうから。誰かがいたらだめ。気が散るから。そのあとに予定があったらダメ。顔に塗装を施さないといけないから。

 一人で開けた空間にいるという事実がまず私の心を解放させてくれる。

 引きこもっていた時はその景色が日常だった。
 今は多忙を極めているが、そうなるとこの時間の価値の重みが変わった。

 絶対に週に一回は設けるようにしているその時間は私の日常でのささやかな贅沢と化した。

 わざわざ設けなくても自然と生まれていたその時間が、私から見た社会が少し複雑になった途端に、そしてなればなるほど、見えにくくて、遠くて、有るのが難いものへと変わっていく。

 ああ、こうして空白は必要とされていくのかな。と思う。

 つまり、空白はそれだけだと空白には、なれない。
 自由帳もたくさん使われているからこそ、使っていないページがあることが嬉しくなる。真っ白だと逆に何故かだか、もったいないとか、緊張が走ったりする。

 
 結局何が言いたいのか。
 あらゆる時代でも憩いの時間は必要とされてきたし、徒然草では今流行りのジャーナリングの先駆けみたいなことやってるし、、、複雑なのは世の常なのかもしれない。

 だがしかし、<<<こんなにも白紙をアートとしたり色がないことを持て囃す今の社会…。これってなんかだいぶ疲れてません!?!?>>>
ということです。

 社会が目まぐるしすぎる。情報化社会。コスパ。タイパ。有能無能。即戦力。
 
 あのね、人間もお魚と変わらないんだよ。二酸化炭素出してるだけでいいの本来は。
 ちょっと大きめの脳をたまたま持ち合わせちゃったもんだから、社会性は必要になったけど。言葉は操れちゃったけど。
 本来、光の速さなんて人間の知る由もないはず。自分たちが光でもない限り。(まあ、とんでもない脳のフル稼働や、AIさんによって光になれちゃう日が来るのかもしれないけど。)
本来は呼吸してるだけなの!母なる大地に根差してるだけなの!

 なんか思想強めな感じに映っちゃってるからここら辺にしておこう。

 というわけで、何かがあるなかで生きている我々だからこそ、ないということそれ自体に価値を見出すのではないか。たまに「何者でもない自分」とか、「何にもないから何でもできる」とかいう人いるけどさ。もう少し言葉を丁寧に使ってほしいよね。
 
 何にもないは嘘。社会という物差しで測るから何者でもない、になるわけだし、満たされていないとかいう自分とその他を比較してるフィルターを通してるから何にもないになるわけだし。

 今日は「ないはない」とかいう存在のテーゼを推してるのかなみたいな文章になっちゃった。なんかまた哲学チックな変な方向でべらべら語り出しそうだから、、ここらへんで のうみそは しゃっとだうん しておこう。


PS 今日は、内容にちなんで、余白と句点を、増やしてみたョ。





 

 「おめえが間違ってるんだよ」「おめえのその気取った人間性からは何も見えてこねえ」

 は?

 今日家に帰ったら一番に言われたことだ。


 私が食べようとした鳥そぼろ。「そんなしょっぺーもんくえねーよ。」「その卵どうした、俺の分はねーのかよ」(自分はさっき食べたのに)

 こうして酔っ払いに絡まれる。喋ってもないのに一方的にストレスを吹っかけてくる。
この間私は一言も発していない。

お酒を飲んだからって何しても許されるわけではもちろんないが、本人にそれを伝えたところで伝わることはない。(何かに本当に依存している人とかかわったことがある人は頷けるだろう。)

小学生、中学生の時は帰ってきて急に「おめえがやばいんだよ、間違ってんだよ、だから社会に適合できないんだよ、お前の人間性がどうかしてる、誰に似たんだろうか(カーーーーッツ、ペッツ)」と言われたら、どうしてそう思うの、自分のどこが間違っているのと素直に言われるがままに聞いていたけれど、結局帰ってくる答えは「俺は一生懸命やっている」だった。本人も社会的につらいからお酒に飲まれてしまう心の寂しい人なのは分かっている。でも今日はさすがに疲れてむかついたので寄り添う気にはならないのでそちらの言い分は無視する。

よく真面目に聞いてたね、幼いころの私ちゃん。
素直さに脱帽しちゃうよ。よくそんな酔っ払いの話を相手にしてたね。だからこうして心にはたくさんの絆創膏が貼られているんだね。

本当に身の毛がよだつくらい嫌いなあの酔っ払いの声。ちびまる子ちゃんのお父さん、ヒロシの酔っぱらった時とシラフの時をあんなにイメージしやすく表現している屋良さんはすごいと思う。酔っぱらっているときの声を聴くと本当に耳をふさぎたくなる。

最近、実父の酔っぱらっているときの声を聴くと片耳が聞こえなくなる。くぐもったように感じる。鳥肌が立つ。みぞおちから湧き出る憎悪と憎しみ、嫌悪感が私に覆いかぶさってくる。

そんな夜を過ごすのが耐えられなくて、私はいつも2時間の散歩に出かける。
あの想像するだけで耳が腐るような声を聴くぐらいなら、夜の9時から11時まで外で放浪していた方がよい。

実家の安心感などという言葉は、そこにはない。


 

 普段、同じ年齢層の友達と話していて”この人の話はおもしろいなー”と思うことは、ほぼない。

 

 しかし、この人の話は本当に面白い!!と思える人は文字の中やネットの中にはたくさんいる。 

(この人面白いよね!なんて現実で語ろうものなら、友達にはオタクのようにべらべら喋ってるやつにしか映らないだろう。友達と話すときは恋愛の話や、推しの話、授業の話等々、聞き役でちょっとツッコむ程度である。)

 

 自分が面白いと思うことについて、考えてみた。面白いと思う配信者、ブロガー、通話する友達、面白いと思うお笑い芸人、教授など。彼らに共通するものはあるのか、あるとしたら一体何なのか、を考えてみた。

 

 自分のお気に入りの人が話すとき、聞こうとする私の中に普段とは違うところがあるような気がする。

 特に知的な人の話を聞いたり読んだりするときは、それ用のスイッチを自分の中で作動する気がする。”この人が話すから”、今から面白い話題がくるかもしれない、 新しい視点が得られるかもしれないといったような”期待”が自然と生まれてくるように感じる。つまり、自分の中で、その人からの恩恵を最大限受けようとするような姿勢へとスイッチを切り替えているのである。そして、より集中して自分の感覚にすり合わせるように聞いてしまう。つまり、”何を話すか”ということだけでなく、”誰が話すか”という人間性も含むようである。もっともこれは聞き手側からの視点であるのだが。

 

 

 ここからは面白いを発信する側への考察になる。

 

 前置きがすごく長くなってしまったが、面白さには条件があるのではないかと思った。条件は大きく分けて2つ。

 

  ①面白さとは、毒を含んでいる

  ②その毒を魅せる表現の工夫や独創性がある

 

それぞれを具体的に説明していく。

 

 ①に関して言い換えれば、毒を含ませることのできる感性と、それをさらけ出すことのできる勇気を持っているかどうかである。毒とは分かりやすく表すと”歪み=平均からのかけ離れ具合”である。

 毒は鋭ければ鋭いほど他人に刺さる。毒の鋭さとは、他者から見て「この人の言ってることが分かるゾーン」と「この人の言っていることは分からないゾーン」との”きわ”の部分を攻めることである。この時、決して「分からないゾーン」に触れてはいけない。あくまでも、分かるけれど、あえて言葉にしない歪みだからこそ、人とは違うその人らしさが表れて面白くなるのである。そしてそれが巧みであればあるほど、ニッチなウケを示してもらいやすい。つまり、おもしれぇ奴になりやすいのである。

 

 ①の最たる例は、美男美女、満ち足りてる人、幸せそうに見える人がいけ好かなく思えてしまう現象である。しかしこの感情を抱いてしまう”自分”が嫌な奴だということではない。本来、このような”言葉にはされてないけれど存在するえぐい感情”、すなわち”他人の不幸は蜜の味”的な感情は、人間という社会性を持つ動物的な視点からすれば、ごく普通の感情である。余談だが、最近このyoutuberは彼氏・彼女ができてつまらなくなったよね、とか前のほうがよかった、と思う感情というのは、その人の持つ毒性が本人の幸せによって浄化されてしまったからがゆえに起こる取り残された側の抱くぽつんと置いて行かれた感情なのである。(だからといってそれをコメントにズバズバと書き込んでいいとは思わないけれども)

 

 

 ②に関して。言い換えればこれすなわち、人と違って表現できる器量があるかである。含ませた毒を”いかに魅せるか”、魅せる工夫ができるか、ということである。②に関しては話術や表情、文才など天性のようなものも含め、磨かれた感性を持っている必要があると思う。もちろん自分の毒(すなわち個性)を全員が全員笑ってくれたり、納得してくれるわけではないが、より多くの支持がある人は、やはり人を惹きつけるだけの器量があるなと思わざるを得ない。

 

 すごく個人的な見解にはなるけれど、ロバート秋山さんやジェラードンさんは②が本当に上手だなと思ってしまう。特に彼らの表情やしぐさなど、他の人が持ちえない独特な”あの感じ”はすごいなと見るたびに思う。

 

 

 今日は(も?)、ずいぶんと堅苦しめの現代文みたいな文章になってしまった気がする。

 

 ここらへんでまとめておくと、面白さとは毒のベクトルや露出具合によって決まり、それを表現する人の魅せ方によって見え方が変わってくるものなのではないか、ということである。

 

 

 

 

PS 考察時の①のイメージ図

 

 

 

 

 

 

なんでもいいので楽しかったことや好きなものを書き出して褒めてみようとした。

その時の私の頭の中。

 

 私の心の中で、二人の私(アンジーとキャサリン)が話している。

 

A: 楽しいと思えた記憶がない。確かにあったはずの記憶がすっぽりと消えてしまっている。明かりが灯っていない。脳の中で1つ1つの記憶の部屋をノックしてみるんだけどね、暗い思い出の部屋ばかり明かりがついてすぐに出てきてくれてしまうの。言葉で表すと、すごくチグハグに見えるんだけど、暗い方が目立ってるのよ。そんな状態。

 

C: そうね、私も自分でびっくりしたわ。楽しかったことやポジティブなことを書き出してみてって言われて、いざ埋めようと思っても、何一つ出てこなかったんだもの。ぽいっと出してしまいそうになる項目、特に好きな”人”とかの項目もあったけど、好きになっても届かないとか、楽しかった”こと”に関してもそれは一番には及ばないわ、と思って結局書き出す自分に見栄を張って押し殺してしまっている自分がいたわ。

 

A: そんなのまるで自分で絞首しているみたいね。

 

C: ほんとにそうよね。でも今みたいな状態の時ってそうして自分に言い訳をしている自分が心地良いの。一回黒く染まったら、それよりも黒いもの、更なる漆黒を求めて安心したがっちゃうの。でもさ、これって生物の本能だと思わない?周りに同化する。そこで「周りは白でも自分は黒でいいんです!!」なんて主張できる奴は元気なのよ。強がれるだけの、ヤセ我慢するだけの、いきがるだけの気力がある。そうでないときに落ちるところまで沈むのは当然のことのように思うな。

 

A: たしかにそうかも。生物の性質から考えると一理あるかもしれない。だからさっきの部屋の明かりの話でもそうだけど、周りの明るさによって浮き彫りになるものが違うのかもしれないね。でもどうして大学に入ってから、ポジティブなことが思い浮かばなくなっちゃったんだろう…

 

C: うーん、そうね…。なんでかしらね…。高校の時は少なくとも自分の周りの友達より優れているし、優れていたいという自負を維持できていたからというのが関係してるのかも?と思ったわ。

 

A: どういうこと?

 

C: 高校生の頃の私の悩みは、コロナ禍という閉塞感と、将来に関することだったような気がするわ。勉強は塾に行かなくても、ガリ勉しなくてもいつも一緒にいる7人のうち真ん中よりは上にいた。そういう自分でいられることが好きだったし、カッコよかったし、楽しかった。だから受験も乗り切れたのよ。

 

A: なんか笑っちゃうくらい傲慢で嫌なやつねw

 

C: そりゃあそうよ。でもきっと、みんなそれぞれが何がしかの形で他人と比較して保つプライドを持っているように私には映っていたけどね。進学校の社会なんて尚更。

 

A: それもそうねw

 

C: んで、話を戻すと、高校の時はそれで幸せを保てて、健康に過ごせていたってワケ。でも、大学に入ってみたら、どう??

 

A: ん-、友達はいるけど、比較するほど同じところにもいないわね。

 

C: それじゃあ、世の大学生と比べてはどう??

 

A: うーん、いろんな大学生やハタチがいて比べられないわね。まず自分がどこにいるのかすら把握できていない状態だから余計にね。

 

C: そうでしょう。要するに、今までは同じ箱に入れられて、その中でどんぐりの背比べをしていればよかったの。それぞれの箱ごとに勝負が行われているからそこだけを考えればいいの。その中で競争をしていれば、その競争を放棄する方法も、ずるして攻略する方法も、勝つ方法も、探すことができていたでしょう?でも今となってはそんな箱が用意すらされていないように感じる。見られているのは、そのどんぐり個人の背の”高さ”だけ。自分が箱に守られなくなった分、自力で背を伸ばすためにもがき続けなければいけないのよ。この、”箱が見えなくなるところ”がドロップアウトして闇落ちするところの境目よ。人によってはこれが小学校かもしれないし、幼稚園、中学、はたまた社会人かもしれないけどね。

 

A: ある意味、競うという概念がない中で結果的には競争させられているようなものね。

 

C: そういうこと。見えないけれど敵はいる。周りはブラックボックス。個人プレーで一人で競うような仕組みになったら、そりゃあ生真面目で人間社会に従順な素直な子がオーバーヒート起こすのは当然でしょう??しんどくないわけがないじゃない。

 

A: 自分で自分の首を絞める原理”は”、よくわかったわね。

 

C: うん、多様性の弊害にもつながるような内容だと思うけど。ところで、原理”は”ってどういうことよ?

 

A: 原理だけ分かったって仕方ないでしょう?今実際悩んでいるんだから前を向くためのエッセンスくらい処方箋として出してみた方が駄弁を弄しただけにならなくてマシじゃない?w

 

C: まったくゲンキンな奴ね。

 

A: テキストが嫌いなもので。てへ。

 

 

 

続く...

 

 

 

 今日も学校に行かなかった。

 でも未だ学校をやめることはできていない。

 

 あーあ。無敵の人になれたらいいな。本当にすべてのことがどうでもよくなれたら思い切りが付く。

 

 学校の登校を拒否すると、癖がつく。その瞬間は逃げられるかもしれないが、なんらかしらの形となってジリジリと後から現れてくる。何となくその予感を察知するから大概の人はすべてを捨てきることができない。

 

 後から現れてくる”やつ”にはいろんな形がある。

例えば人間関係。今日また行かなかったら話題についていけないな。もっと疎遠になるな。とか。

例えば課題。これを出せなくなると成績が下がるな。この不安は成績だけではなく、単位や留年の不安事までよこしてくるから厄介だ。

例えば将来。ここでやめたら学歴ドロップアウトだな。今まではみんなと横に並んでいられたのに、いつしか別の眼鏡をかけて世界を見ている人たちになっていくんだ、と思うようになっていく。敷かれた社会のレールを歩くのもくそくらえだけど、それをできなかったときに戻ろうとするにはどこかで今よりはるかに大きなエネルギーを必要とする正念場が来るんだろうな、と不確定要素しかないことにまで思考を巡らせる。

 

ここまでくるとことは結構大きくなっている。自分の中での不安が体調に現れてくる。胃がキリキリしたり、熱が出たり、風邪の治りが悪くなったり、寝付けなくなったり、過食してしまったり、寝込んでしまったり。体が”やつ”から逃れたがっている。

 

体と心は両輪のようで、どちらかにガタが来るともう片方もそれにつられてめっきり悪くなってしまう。どうして自分はこうなんだ、この間のあの時も、さらには幼少期の追憶まで行い始める。これは脳の防御システムなのだろうかと思うほどに自然に作動している。

 

この周期に入ると耐えしのぐしか道はなくなっている。

 

周りの人は、つらいなら一度立ち止まって見るのもありかもよ、とか、頑張りすぎないでね、とか、或いは、そんな甘えたこと言ってたら社会人になれないよとか、俺もつらかったなーとかいうくそみたいな自分語りを始めたり、早寝早起きをしましょう、日光を浴びましょう、スマホをやめましょう、とか出来たらしてるわ‼みたいなヘドみたいなアドバイスを呉れる想像力ゼロのやつとかが大半である。

 

耐えしのぐしかないのは、やめる勇気も立ち止まる勇気もなく、下手に過去に縋り付いている自分がいるからである。そんなの自分が一番わかってる。今、一番横にいてほしいのは、同じ境遇の人だけである。終わってる人に救われる。同じ境遇だった人や、終わってた人には救われない。伴ってくれる人以外はいらない。

 

そんな時期が年に3回くらいやってくる。あーあ、無敵の人になりたいな。

 

 

 なぜ人は信仰するのか、考えてみた。

 

 もっとも根底にあるのは安心感、心の拠り所、駆け込み寺、といった類のものだと想像する。

 

 人は最初、とても小さなところから出発する。そこから自分を形成していく。形成するにあたって外界というのはとても大きな要素のひとつである。つまり、周囲によって自分は形成されるし、それと同時に形成された自分によってふたたび周囲を見る。この循環は鶏と卵だが、その中の周囲とは両者とも自分の感覚に入る範囲でしかない。ほかの人から見たら、まったく別のものが周囲として認識されているかもしれない。

 

 形成される自分も未完成だが、外界を形作るあらゆるものも絶対的なものではない。その不安定さから人間はどこかで安心感を求めているのかもしれない。(大海原にポツンと浮かぶ船からポラリスを見つけたときの安心感みたいな??)

 

 そんなぐらぐらして、不安定な世界をとらえる私たちだとしたら、すがれるものがあったらすがっておきたいという感情は生き物の生存戦略として至極当然のことのように思う。神でも、藁でも、すがれるもの、それ自体の存在に安堵するのかもしれない。

 

 私の心の中で勝手に生まれてくる嫉妬心や罪悪感、そんなやり場のないようなものですら抱擁してくれる存在があると思うだけで気持ちが楽になったり、救われたりするのかもしれない。

 

 なんか現代文みたいになってしまった…

 

 新学期が始まってしまった。

 

 新学期の自分になじむのには少し時間がかかる。今は半クラッチにしたばかりの状態。ここで上げすぎるとエンストしてしまう。(これから教習所に行かないといけないので変な用語も頭に浮かぶ)

 

 一年生の時は思いっきりエンストしたのを思い出して、それを思い出せている自分がいるということは、それを乗り切ったんだという事実に少しほくほくしている。

 

 そんなことは置いといて、大学の講義の話をしたい。

 

 経済学部の授業だが、本当につまらない授業がある。というよりは締まりのない授業というのか、スカッとしない授業。それは日本の現状や世界情勢をとめどなく説明してくる授業だ。少子化問題や、高齢化社会、IT革命による影響や政治、選挙の話。毎回15回を聞き終えて思うのが、後味悪いなー。である。

 

 確かに、教授というのは高校までの先生とは違って、本人も研究段階の途中過程であり、問題があるからこそ、そこに向かって歩み続けているからこそ、現状に不具合が生じていることを生徒に伝えざるを得ないのは分かる。分かるし、重々に承知している。

 

 しかし‼ いち生徒として、最後の最後まで後味を悪くするのだけはやめていただきたいと切に思う。せめてこんな社会に生きる我々への投げかけや処方箋としてのその先生なりの考え方などを少しくらいは置いていってほしい。突き落とすだけ突き落とすのはやめていただきたい。もうハエがいないのにずーっとハエたたきでぺちぺちされてる気分。

 

 そう思う授業が毎学期に一回はある。

 

 導入 

 

 嫉妬がもし、『悲しくて涙が出る』といった類の ”現象” だとするならば、それを治める唯一の手段は『共感』なのか?

 

 こういう問いから出発してみる。(覚書)

 

 

 

 

 ~①変な口調~

 

 私はあまり友達を作らないようにしている。

 人の名前を覚えるのも大変だし、何かと出費がかさむからだ。

 

 だからとっくの昔にSNSにキラキラストーリーを載っけるための人脈のある自分でいるのはやめた。こうして文章にしてみるとなんて最低な自分なんだろうとも思うが、今でも周りを見渡すとそういう目的で友達を作っている人も多くて、そういう人から見れば私もまた丁度よい存在だったのだろうと思うとあまり心苦しくはならない。

 

 今日はそんなぺっらっぺらの人間関係の話ではなくて、親しくしている友人に関して考察がある。その人はどうやら私のこと見下してるみたい。昔から薄々感じるものの初めて言語化しようと思ったきっかけは、今日ふとラインの通知が来た時に、君さあ、という字面を見たことからだった。何となくその言葉が引っかかってラインにあるワード検索で”きみ”って入れてみた。そうしたら私からは一切言うことがなかったがその人が送るラインにはちょくちょく”きみ”って文字が入ってた。

 

 細かすぎることかもしれないけれど少なくとも私は、すまん、とか、きみ、とかって使う人に対して、おや?と感じる。カッコつけたいお年頃の男子や、調子づいているときに使うのであれば話は別だが、同性の同い年の人に言われるとイラっとする言葉ってある気がする。

 

 そして、そういう言葉を使う人に限って私を都合よく使っている節々が脳裏をよぎるから余計にちゃんとイラっとする。

 

 イラっとするだけでは私ばかり勝手に嫌な思いを被ってしまう。だから私は頭の中で消化する。

 

 それ、他の人にも言ってたら、中には違和感を覚える人もいるだろうな、ましてやそんなにモテたいモテたい言ってるのに、変に癖のある口調使ってたら余計遠ざかるのでは?始めたばかりのメイクや髪のどうこうもいいけど、笑う時に人の肩を腫れるまで叩かないとか、自分よがりな推しの話を長々しないとか、もう少し気遣うところあるのでは???ニヒルな笑み!!!!

 

 私の思うことはこれだけである。きっと言ったらその人のためになってしまう。もし自分の姉妹がその人と同じような境遇であれば当人に伝えるだろう。

 

 やはり親しき中にも礼儀はあったほうがよいねー。

 

 

 

 

 

 

 いつも通りレジ打ちをしていた時、一人の男性がバイトの面接にやってきた。

 清潔感があって背が高く、スタイルも気にかけている今どきの人というのが第一印象であった。

 

 聞いた話によると、30代無職マンガ家志望だそうだ。今の時代定職についていなくともそこまでやばいやつではないのかなとも思わなければならないのだろうが、やはり、そういう方々は一癖あるような気がする。

 

 喋るときの独特な手の動き、ぎこちない敬語や謙譲語、不自然な間の取り方など。

こういう人もいるんだと会うたびに思う。しかもわりといる。高校時代を振り返るとそんな人は一人もいなかった。中学もいたのかもしれないが自分のコミュニティーの中には見受けることのない種族だった。しかしアルバイトとして社会を見てみると、今まで交わらなかった人たちがたくさんいて、否が応でも関わらざるを得ないのだが、話をしてみると案外おもしろい。

 

 彼らは彼らなりのこだわりがあって、それがまた自分の生きる世界線が少しでも違っていたならばそうなっていなくもないかも、と思わせるような納得感もあるからだ。彼らには彼らなりの野望があって(大体名を馳せたい系の野望)、それを追い求められるある程度の親族の支援もある。若い分考慮できる将来の幅も少ない。自分がもしその立場であれば確かに彼らのように考えて行動するのもわかる話である。

 

 しかし、社会は多様性を掲げている昨今であれ、それをまるごと受容してくれるほど寛大ではない。30にもなって今まで一度も働かずに親のお金だけで自分の趣味に没頭するなんてやばいやつじゃんと一蹴する。そうして余計に彼らは社会のレールから外されて行ってしまう。

 

 誰が良い悪いとかいう話ではなく、そういう構図なんだなーとレジを打つ今日でした。