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Benjamin

わたしのあたまのなか。

なんでもいいので楽しかったことや好きなものを書き出して褒めてみようとした。

その時の私の頭の中。

 

 私の心の中で、二人の私(アンジーとキャサリン)が話している。

 

A: 楽しいと思えた記憶がない。確かにあったはずの記憶がすっぽりと消えてしまっている。明かりが灯っていない。脳の中で1つ1つの記憶の部屋をノックしてみるんだけどね、暗い思い出の部屋ばかり明かりがついてすぐに出てきてくれてしまうの。言葉で表すと、すごくチグハグに見えるんだけど、暗い方が目立ってるのよ。そんな状態。

 

C: そうね、私も自分でびっくりしたわ。楽しかったことやポジティブなことを書き出してみてって言われて、いざ埋めようと思っても、何一つ出てこなかったんだもの。ぽいっと出してしまいそうになる項目、特に好きな”人”とかの項目もあったけど、好きになっても届かないとか、楽しかった”こと”に関してもそれは一番には及ばないわ、と思って結局書き出す自分に見栄を張って押し殺してしまっている自分がいたわ。

 

A: そんなのまるで自分で絞首しているみたいね。

 

C: ほんとにそうよね。でも今みたいな状態の時ってそうして自分に言い訳をしている自分が心地良いの。一回黒く染まったら、それよりも黒いもの、更なる漆黒を求めて安心したがっちゃうの。でもさ、これって生物の本能だと思わない?周りに同化する。そこで「周りは白でも自分は黒でいいんです!!」なんて主張できる奴は元気なのよ。強がれるだけの、ヤセ我慢するだけの、いきがるだけの気力がある。そうでないときに落ちるところまで沈むのは当然のことのように思うな。

 

A: たしかにそうかも。生物の性質から考えると一理あるかもしれない。だからさっきの部屋の明かりの話でもそうだけど、周りの明るさによって浮き彫りになるものが違うのかもしれないね。でもどうして大学に入ってから、ポジティブなことが思い浮かばなくなっちゃったんだろう…

 

C: うーん、そうね…。なんでかしらね…。高校の時は少なくとも自分の周りの友達より優れているし、優れていたいという自負を維持できていたからというのが関係してるのかも?と思ったわ。

 

A: どういうこと?

 

C: 高校生の頃の私の悩みは、コロナ禍という閉塞感と、将来に関することだったような気がするわ。勉強は塾に行かなくても、ガリ勉しなくてもいつも一緒にいる7人のうち真ん中よりは上にいた。そういう自分でいられることが好きだったし、カッコよかったし、楽しかった。だから受験も乗り切れたのよ。

 

A: なんか笑っちゃうくらい傲慢で嫌なやつねw

 

C: そりゃあそうよ。でもきっと、みんなそれぞれが何がしかの形で他人と比較して保つプライドを持っているように私には映っていたけどね。進学校の社会なんて尚更。

 

A: それもそうねw

 

C: んで、話を戻すと、高校の時はそれで幸せを保てて、健康に過ごせていたってワケ。でも、大学に入ってみたら、どう??

 

A: ん-、友達はいるけど、比較するほど同じところにもいないわね。

 

C: それじゃあ、世の大学生と比べてはどう??

 

A: うーん、いろんな大学生やハタチがいて比べられないわね。まず自分がどこにいるのかすら把握できていない状態だから余計にね。

 

C: そうでしょう。要するに、今までは同じ箱に入れられて、その中でどんぐりの背比べをしていればよかったの。それぞれの箱ごとに勝負が行われているからそこだけを考えればいいの。その中で競争をしていれば、その競争を放棄する方法も、ずるして攻略する方法も、勝つ方法も、探すことができていたでしょう?でも今となってはそんな箱が用意すらされていないように感じる。見られているのは、そのどんぐり個人の背の”高さ”だけ。自分が箱に守られなくなった分、自力で背を伸ばすためにもがき続けなければいけないのよ。この、”箱が見えなくなるところ”がドロップアウトして闇落ちするところの境目よ。人によってはこれが小学校かもしれないし、幼稚園、中学、はたまた社会人かもしれないけどね。

 

A: ある意味、競うという概念がない中で結果的には競争させられているようなものね。

 

C: そういうこと。見えないけれど敵はいる。周りはブラックボックス。個人プレーで一人で競うような仕組みになったら、そりゃあ生真面目で人間社会に従順な素直な子がオーバーヒート起こすのは当然でしょう??しんどくないわけがないじゃない。

 

A: 自分で自分の首を絞める原理”は”、よくわかったわね。

 

C: うん、多様性の弊害にもつながるような内容だと思うけど。ところで、原理”は”ってどういうことよ?

 

A: 原理だけ分かったって仕方ないでしょう?今実際悩んでいるんだから前を向くためのエッセンスくらい処方箋として出してみた方が駄弁を弄しただけにならなくてマシじゃない?w

 

C: まったくゲンキンな奴ね。

 

A: テキストが嫌いなもので。てへ。

 

 

 

続く...

 

 

 

 今日も学校に行かなかった。

 でも未だ学校をやめることはできていない。

 

 あーあ。無敵の人になれたらいいな。本当にすべてのことがどうでもよくなれたら思い切りが付く。

 

 学校の登校を拒否すると、癖がつく。その瞬間は逃げられるかもしれないが、なんらかしらの形となってジリジリと後から現れてくる。何となくその予感を察知するから大概の人はすべてを捨てきることができない。

 

 後から現れてくる”やつ”にはいろんな形がある。

例えば人間関係。今日また行かなかったら話題についていけないな。もっと疎遠になるな。とか。

例えば課題。これを出せなくなると成績が下がるな。この不安は成績だけではなく、単位や留年の不安事までよこしてくるから厄介だ。

例えば将来。ここでやめたら学歴ドロップアウトだな。今まではみんなと横に並んでいられたのに、いつしか別の眼鏡をかけて世界を見ている人たちになっていくんだ、と思うようになっていく。敷かれた社会のレールを歩くのもくそくらえだけど、それをできなかったときに戻ろうとするにはどこかで今よりはるかに大きなエネルギーを必要とする正念場が来るんだろうな、と不確定要素しかないことにまで思考を巡らせる。

 

ここまでくるとことは結構大きくなっている。自分の中での不安が体調に現れてくる。胃がキリキリしたり、熱が出たり、風邪の治りが悪くなったり、寝付けなくなったり、過食してしまったり、寝込んでしまったり。体が”やつ”から逃れたがっている。

 

体と心は両輪のようで、どちらかにガタが来るともう片方もそれにつられてめっきり悪くなってしまう。どうして自分はこうなんだ、この間のあの時も、さらには幼少期の追憶まで行い始める。これは脳の防御システムなのだろうかと思うほどに自然に作動している。

 

この周期に入ると耐えしのぐしか道はなくなっている。

 

周りの人は、つらいなら一度立ち止まって見るのもありかもよ、とか、頑張りすぎないでね、とか、或いは、そんな甘えたこと言ってたら社会人になれないよとか、俺もつらかったなーとかいうくそみたいな自分語りを始めたり、早寝早起きをしましょう、日光を浴びましょう、スマホをやめましょう、とか出来たらしてるわ‼みたいなヘドみたいなアドバイスを呉れる想像力ゼロのやつとかが大半である。

 

耐えしのぐしかないのは、やめる勇気も立ち止まる勇気もなく、下手に過去に縋り付いている自分がいるからである。そんなの自分が一番わかってる。今、一番横にいてほしいのは、同じ境遇の人だけである。終わってる人に救われる。同じ境遇だった人や、終わってた人には救われない。伴ってくれる人以外はいらない。

 

そんな時期が年に3回くらいやってくる。あーあ、無敵の人になりたいな。

 

 

 なぜ人は信仰するのか、考えてみた。

 

 もっとも根底にあるのは安心感、心の拠り所、駆け込み寺、といった類のものだと想像する。

 

 人は最初、とても小さなところから出発する。そこから自分を形成していく。形成するにあたって外界というのはとても大きな要素のひとつである。つまり、周囲によって自分は形成されるし、それと同時に形成された自分によってふたたび周囲を見る。この循環は鶏と卵だが、その中の周囲とは両者とも自分の感覚に入る範囲でしかない。ほかの人から見たら、まったく別のものが周囲として認識されているかもしれない。

 

 形成される自分も未完成だが、外界を形作るあらゆるものも絶対的なものではない。その不安定さから人間はどこかで安心感を求めているのかもしれない。(大海原にポツンと浮かぶ船からポラリスを見つけたときの安心感みたいな??)

 

 そんなぐらぐらして、不安定な世界をとらえる私たちだとしたら、すがれるものがあったらすがっておきたいという感情は生き物の生存戦略として至極当然のことのように思う。神でも、藁でも、すがれるもの、それ自体の存在に安堵するのかもしれない。

 

 私の心の中で勝手に生まれてくる嫉妬心や罪悪感、そんなやり場のないようなものですら抱擁してくれる存在があると思うだけで気持ちが楽になったり、救われたりするのかもしれない。

 

 なんか現代文みたいになってしまった…

 

 新学期が始まってしまった。

 

 新学期の自分になじむのには少し時間がかかる。今は半クラッチにしたばかりの状態。ここで上げすぎるとエンストしてしまう。(これから教習所に行かないといけないので変な用語も頭に浮かぶ)

 

 一年生の時は思いっきりエンストしたのを思い出して、それを思い出せている自分がいるということは、それを乗り切ったんだという事実に少しほくほくしている。

 

 そんなことは置いといて、大学の講義の話をしたい。

 

 経済学部の授業だが、本当につまらない授業がある。というよりは締まりのない授業というのか、スカッとしない授業。それは日本の現状や世界情勢をとめどなく説明してくる授業だ。少子化問題や、高齢化社会、IT革命による影響や政治、選挙の話。毎回15回を聞き終えて思うのが、後味悪いなー。である。

 

 確かに、教授というのは高校までの先生とは違って、本人も研究段階の途中過程であり、問題があるからこそ、そこに向かって歩み続けているからこそ、現状に不具合が生じていることを生徒に伝えざるを得ないのは分かる。分かるし、重々に承知している。

 

 しかし‼ いち生徒として、最後の最後まで後味を悪くするのだけはやめていただきたいと切に思う。せめてこんな社会に生きる我々への投げかけや処方箋としてのその先生なりの考え方などを少しくらいは置いていってほしい。突き落とすだけ突き落とすのはやめていただきたい。もうハエがいないのにずーっとハエたたきでぺちぺちされてる気分。

 

 そう思う授業が毎学期に一回はある。

 

 導入 

 

 嫉妬がもし、『悲しくて涙が出る』といった類の ”現象” だとするならば、それを治める唯一の手段は『共感』なのか?

 

 こういう問いから出発してみる。(覚書)

 

 

 

 

 ~①変な口調~

 

 私はあまり友達を作らないようにしている。

 人の名前を覚えるのも大変だし、何かと出費がかさむからだ。

 

 だからとっくの昔にSNSにキラキラストーリーを載っけるための人脈のある自分でいるのはやめた。こうして文章にしてみるとなんて最低な自分なんだろうとも思うが、今でも周りを見渡すとそういう目的で友達を作っている人も多くて、そういう人から見れば私もまた丁度よい存在だったのだろうと思うとあまり心苦しくはならない。

 

 今日はそんなぺっらっぺらの人間関係の話ではなくて、親しくしている友人に関して考察がある。その人はどうやら私のこと見下してるみたい。昔から薄々感じるものの初めて言語化しようと思ったきっかけは、今日ふとラインの通知が来た時に、君さあ、という字面を見たことからだった。何となくその言葉が引っかかってラインにあるワード検索で”きみ”って入れてみた。そうしたら私からは一切言うことがなかったがその人が送るラインにはちょくちょく”きみ”って文字が入ってた。

 

 細かすぎることかもしれないけれど少なくとも私は、すまん、とか、きみ、とかって使う人に対して、おや?と感じる。カッコつけたいお年頃の男子や、調子づいているときに使うのであれば話は別だが、同性の同い年の人に言われるとイラっとする言葉ってある気がする。

 

 そして、そういう言葉を使う人に限って私を都合よく使っている節々が脳裏をよぎるから余計にちゃんとイラっとする。

 

 イラっとするだけでは私ばかり勝手に嫌な思いを被ってしまう。だから私は頭の中で消化する。

 

 それ、他の人にも言ってたら、中には違和感を覚える人もいるだろうな、ましてやそんなにモテたいモテたい言ってるのに、変に癖のある口調使ってたら余計遠ざかるのでは?始めたばかりのメイクや髪のどうこうもいいけど、笑う時に人の肩を腫れるまで叩かないとか、自分よがりな推しの話を長々しないとか、もう少し気遣うところあるのでは???ニヒルな笑み!!!!

 

 私の思うことはこれだけである。きっと言ったらその人のためになってしまう。もし自分の姉妹がその人と同じような境遇であれば当人に伝えるだろう。

 

 やはり親しき中にも礼儀はあったほうがよいねー。

 

 

 

 

 

 

 いつも通りレジ打ちをしていた時、一人の男性がバイトの面接にやってきた。

 清潔感があって背が高く、スタイルも気にかけている今どきの人というのが第一印象であった。

 

 聞いた話によると、30代無職マンガ家志望だそうだ。今の時代定職についていなくともそこまでやばいやつではないのかなとも思わなければならないのだろうが、やはり、そういう方々は一癖あるような気がする。

 

 喋るときの独特な手の動き、ぎこちない敬語や謙譲語、不自然な間の取り方など。

こういう人もいるんだと会うたびに思う。しかもわりといる。高校時代を振り返るとそんな人は一人もいなかった。中学もいたのかもしれないが自分のコミュニティーの中には見受けることのない種族だった。しかしアルバイトとして社会を見てみると、今まで交わらなかった人たちがたくさんいて、否が応でも関わらざるを得ないのだが、話をしてみると案外おもしろい。

 

 彼らは彼らなりのこだわりがあって、それがまた自分の生きる世界線が少しでも違っていたならばそうなっていなくもないかも、と思わせるような納得感もあるからだ。彼らには彼らなりの野望があって(大体名を馳せたい系の野望)、それを追い求められるある程度の親族の支援もある。若い分考慮できる将来の幅も少ない。自分がもしその立場であれば確かに彼らのように考えて行動するのもわかる話である。

 

 しかし、社会は多様性を掲げている昨今であれ、それをまるごと受容してくれるほど寛大ではない。30にもなって今まで一度も働かずに親のお金だけで自分の趣味に没頭するなんてやばいやつじゃんと一蹴する。そうして余計に彼らは社会のレールから外されて行ってしまう。

 

 誰が良い悪いとかいう話ではなく、そういう構図なんだなーとレジを打つ今日でした。