弁天岩の向かいには同じ岩石で出来た「尾山」があります。この尾山の麓にあるのが白山神社で歴史も古く見処の豊富なスポットです。
古い絵はがきの白山神社と弁天岩(橋がありません)↑
尾山の植生は南方系のツバキ・アカガシ・シロダモなどの木と北方系のものが入り乱れた所であり、アカガシの木を好むヒメハルセミと言う南方系の昆虫の北限地であります。7月の下旬にはヒメハルゼミが群生し音頭取りに併せて一斉にジィー・・・と泣き出す光景は「残したい日本の音風景百選」に選ばれています。
ヒメハルセミは日本海側では山陰の城之崎温泉付近にみられ、太平洋側の北限では茨城県笠間市にで他に千葉県茂原市にも群生していて天然記念物になっています。
ヒメハルゼミは暖方系で糸魚川が北限です。主な生息地をプロットしてみました。↑
白山神社の拝殿。入母屋造りの茅葺き屋根で宝暦5年(1755年)に再建されたものです。↑
下は当神社にある文化財の一覧表です。↓
白山神社は昔は奴奈川姫を祀る奴奈川神社の一つで延喜式神名帳に記載されている「奴奈川神社」の論社の一つとされています。始まりは高志の峯と呼ばれる「権現岳」にありましたが三世紀後半の崇神天皇の頃から創建されたと伝えられています。
奈良時代に泰澄大師が白山信仰を取り入れたことにより白山神社を名乗るようになりました。その時代から神仏調和の信仰「両部習合」の神道が行われ、明治維新の廃仏毀釈まで続きます。
泰澄大師と汐路の鐘↑ 宝物殿に安置されています。
平安時代の寛弘年間に加賀の白山から分霊して合祀し白山権現と言われました。現在の祭神は伊弉那岐命・大己貴命(大国主命)・奴奈川姫命ですが、越後三十三観音巡りには同社の小白山権現(本地聖観音)に参詣して一番は名立の岩屋堂から最後は最明寺(下田村)まで回ることになっています。
木造聖観音像
当神社の別当として能生山泰平寺がありましたが廃寺となった後は宝光院から光明院に移りました。能生山泰平寺には古くから汐路の鐘と呼ぶ梵鐘がありました。
「曙や霧にうつまく鐘の声」芭蕉 奥の細道巡行の途中、能生で泊まった時の句です。
元禄2年(1689年)7月11日 この句の石碑は岡本五右衛門が文政5年に寄進したものです。
汐路の鐘の歴史
泰平寺には、潮が満ちてくると自然に鐘が鳴り響き一里四方に聞こえたと伝わる不思議な鐘がありました。「汐路の鐘」と称される鐘です。何時の時代か判りませんが古くからの伝説です。
源義経一行が奥州へ下向時に立ち寄った時、一行の常陸坊海尊がこの鐘に追銘で汐路の鐘としたことが神社に伝わっています。文治3年(1187年)。
明応6年1497年白山神社に火災があり鐘楼ごと焼け落ちて鐘が大破しました。
明応8年(1499年)能登の仲居浦(穴水町)で残銅を使用して鋳直しました。
延宝8年(1680年)大雪のため破損しました。
元禄2年(1689年)芭蕉が奥の細道回遊で汐路の鐘の俳句を残しています。
元文5年(1740年)破損した汐路の鐘を鋳直す。柏崎で修繕しました。
文政5年(1822年)汐路の鐘の石碑を岡本五右衛門が寄進。後、明治16年、直江津清水屋旅館に売却されます。
明治元年(1869年)廃仏毀釈令により壊される。丘の上から落として壊したとの事。橋場の某家の床下に放置されていました。
大正15年(1926年)汐路の鐘石碑が白山神社に戻る。
昭和51年(1976年) 汐路の鐘が新潟県有形文化財工芸品に指定される。
芭蕉の句碑↑と説明↓
芭蕉は俳句の神様に祀られ花本大明神の称号を授かりました。白山社脇にある石碑↓
潮の満ちてくるかすかな波動? 、大地から反射される波動が鐘の固有振動周波数と合致したのでしょうか。非科学的な事と言ってしまえばそれまでですが、誰か解明して欲しいものです。例えば昔話に楠正成が幼少の頃大きな鐘楼を小指一本で振動させたと言う話も残っているのですから。
本殿は1497年の火災で焼失し永正12年(1515年)に再建されました。室町時代の特徴ある三間社流造と言う形式で右側が張り出した岩のためやや非対象の造りとなっています。拝殿は入母屋造りの茅葺き屋根で宝暦5年(1755年)に再建されたもので既に262年前の建造物です。本殿は国の有形文化財、拝殿は市の有形文化財です。白山神社は海上信仰の神社でもありますので多くの船絵馬が奉納されていて代表的なものには「はがせ船」と言う北前船の前身に当たる船の絵馬があり、 これらも国の民族文化財に指定されています。
白山神社の本殿↑下は海上信仰の船絵馬のはがせ船です↓
殿と社殿の付近にあり樹木にはこの地では珍しい小さなキセルガイが棲息しています。
シーボルトコギセルと言う巻き貝の一種ですが本来は九州産のようです。何故ここにいるのでしょう。それは、航海の時にこの貝を身につけていると安全であると言う言い伝えがあるからです。船乗りがこの貝を身に 付けて無事航海して来た後に無事帰還のお礼に社殿付近の樹木に返したのが繁殖しているもので、この貝は非常に窮乏に耐える性質があり地味な生物なのです。そんな貴重な生物も隠れた見物として何時までも残したいものです。
境内の木にしか見られないシーボルトコキセル
拝殿の横にある湧き水は新潟県の名水の一つで年中絶えることはありません。龍の口から吐き出されていていますが、長野県の戸隠山と地下で繋がっていると言う説もありますが、これも良く判らない憶測です。
神社の入り口には何処にもある鳥居や灯籠。狛犬がみられます。灯籠には加賀前田侯の紋が刻まれた大きな石灯籠が目立ちます。前田藩の江戸との連絡に月に三度の飛脚の会所として白山社が指定されていたことから、前田藩が灯籠を奉納したものです。
灯籠には白山社の紋と反対側には前田藩の梅鉢紋が彫り込まれています。
鳥居の脇にある狛犬は、当地で見られる狛犬でも最大級のものです。能生の地引き網の小見衆の寄進
社殿の敷地内にある秋葉神社は薬師堂となっていましたが、ここには素晴らしい龍の天井絵が見られます。
天井絵の雲龍図↓
白山神社で最高の見物はなんと言っても伝統ある舞楽でしょう。大阪四天王寺から伝わる舞楽で永享年間(1429-1440)に習得したもので全11曲からなります。毎年春の大祭4月24日に奉納される舞楽です。ここの舞楽には伝授先の要素の他に地域性も取りいれられていることです。これも重要無形民俗文化財に指定されています。
稚児行列↓
御神輿↓
内容は1.獅子舞、2.振舞、3.候礼、4.童羅利、5.地久、6.能馬頭、7.泰平楽、8.納曽利、9.弓法楽、10.児抜頭、11.輪歌、12.陵王です。(獅子舞を含む)
圧巻は最後の陵王の舞です。一人で一時間半も舞う大作でこの役をするのは名誉ある楽士です。能生白山神社の手引きにはつぎの様に記されています。
「既に死亡した中国のある王が我が子のために陵(墓)から出現して戦地に向かったが、日が暮れ、敗色が濃くなつたため、日を招き返してついに敵を滅ぼした」というものです。この舞が行われるのが日没に近い頃で海に日が沈むに併せて舞います。一名「日招きの舞」ともいわれます。
陵王の舞は日没に併せて舞ます。丁度鳥居の中程に落ちる太陽を招き返すところです。
これに対して糸魚川天津神社の舞楽の陵王の話は少し異なります。「昔、中国の蘭陵王は自分の優しい顔を隠すのに恐ろしい面を付けて陣頭に立ち、敵を勇壮に打ち破った様子をあらわした舞」で日が沈む頃に舞ます。陵王の舞は「蘭陵王入陣の曲」とも呼ばれています。
糸魚川・能生の舞楽とも大阪の四天王寺伝来のもので国の民俗文化財ですが、必ずしも同じでなく、地域で変化して伝えられているのが面白いと思います。同様に、神輿についても御走りや喧嘩神輿があることなどでも神社それぞれの伝統ある方式を採っているのがみられます。これから四月は二つの神社の春季大祭をはじめ各所で祭のシーズンが到来します。
白山神社の舞楽に関しては「糸魚川ジオパークおじさんのブログ
糸魚川ジオパークの紹介201号 「白山神社の舞楽」を参照下さい。
http://ameblo.jp/benihoppe-2012/archive2-201504.html