【平成30年4月5日(木)】
伝承地は奈良県桜井市黒崎の白山神社。境内には「雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。同じく黒崎の天の森も古来、「大和志」や「日本書紀通証」などで述べられている。また同市岩坂の十二神社にも「泊瀬朝倉宮伝承地」の碑が建立されている。
一方、1984年には、同市脇本にある脇本遺跡で、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見されており、考古学的見地から朝倉宮の有力な候補地とされている。この遺跡は、第1期は5世紀後半、第2期は6世紀前半、第3期は6世紀後半と7世紀後半の3期に分けられる。泊瀬朝倉宮は雄略天皇が在位した456年から479年までの皇居であると考えられているが、これ以降も引き続き皇居とされたとの説もある。稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣銘には「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」と刻まれているが、「獲加多支鹵大王」は雄略天皇であり、「斯鬼宮」(しきのみや)は泊瀬朝倉宮を指すと考えられている。
という事で、伝承地が数ヶ所あるので、各々紹介していきます。
先ずは「脇本遺跡」から
【泊瀬朝倉宮】(安康天皇3年~) 所在地:奈良県桜井市脇本 脇本遺跡
第21代雄略天皇 在位:安康天皇3年(AD456)~雄略天皇23年(AD479)
場所は近鉄大阪線「大和朝倉」駅から北東へ約500m行ったR165沿い。
ちょうどローソン桜井脇本店のすぐ東側のバス停付近になります。
御覧のように現在は埋め戻されていまして説明書きもありませんでした。
脇本遺跡は過去18次に渡って調査され、5世紀後半、6世紀後半、7世紀後半の大型建物跡等が発見され5世紀のものは雄略天皇の泊瀬朝倉宮跡の可能性が高いと云われています。
また6世紀代のは欽明天皇の行宮である泊瀬柴籬宮(はつせのしばかきのみや)跡 、7世紀代については大伯皇女の斎宮跡の可能性が指摘されています。
【春日神社】
脇本遺跡の中心に位置している春日神社。
春日神社の東方に雄略天皇の歌碑がありました。(舒明天皇の説あり)
「夕されば 小倉の山に臥す鹿の 今夜は鳴かず 寝にけらしも」
現地を歩いてみて、春日神社が少し山の麓にあってそこから遺跡を見下せるし、大和平野に向かって初瀬川が下っていくあたり、朝倉宮跡の可能性はかなり高いような気がしました。