第21代 雄略天皇 丹比高鷲原陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成26年12月29日(月)参拝】

おそらく今年最後になるであろう天皇陵巡りに行って来ました。

最寄駅は近鉄「高鷲」駅。


雄略(ゆうりゃく)天皇陵  御陵名:丹比高鷲原陵  陵形:円丘  考古学名は高鷲丸山古墳(島泉丸山古墳、円墳、径76m)と平塚古墳(方墳、辺50m)(2つの古墳を1つとして治定)。
所在地:大阪府羽曳野市島泉8丁目

此処雄略陵は住宅沿いに参道があります。





                                         横の道路からでも陵に入れます。




久々に歪みもなく綺麗な楷書の制札です。






陵の北側から望む。                    落書きしたらバチが当たるから止めましょう!

雄略天皇は第21代天皇(在位:457年 - 雄479年)。大泊瀬幼武尊(おおはつせわかたけるのみこと)、大長谷若建命、大長谷王(古事記)、大悪天皇、有徳天皇とも。また『宋書』、『梁書』に記される「倭の五王」中の倭王武に比定される。その倭王武の上表文には周辺諸国を攻略して勢力を拡張した様子が表現されており、熊本県玉名郡和水町の江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀銘や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣銘を「獲加多支鹵大王」、すなわちワカタケル大王と解して、その証とする説が有力である。
『日本書紀』の暦法が雄略紀以降とそれ以前で異なること、『万葉集』や『日本霊異記』の冒頭に雄略天皇が掲げられていることから、まだ朝廷としての組織は未熟ではあったものの、雄略朝をヤマト王権の勢力が拡大強化された歴史的な画期であったと古代の人々が捉えていたとみられる。
【系譜】
允恭天皇の第5皇子。母は忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)。木梨軽皇子・安康天皇の同母弟。
皇后:草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ。仁徳天皇の皇女)
妃:葛城韓媛(かつらぎのからひめ。葛城円大臣の女)
・白髪皇子(しらかのみこ、清寧天皇
妃:吉備稚媛(きびのわかひめ。吉備上道臣の女。もと吉備上道臣田狭の妻。吉備兄君・吉備弟君の母)
・磐城皇子(いわきのみこ) 難波小野王(顕宗天皇の皇后)の祖父
妃:和珥童女君(わにのわらわきみ。春日和珥臣深目の女)
・春日大娘皇女(かすがのおおいらつめのひめみこ、高橋皇女) 仁賢天皇の皇后、武烈天皇・手白香皇女(継体天皇の皇后、欽明天皇の母)・橘仲皇女(宣化天皇の皇后)の母
【略歴】
記紀によれば、安康天皇3年8月9日、安康天皇が幼年の眉輪王(『古事記』では7歳とあるが誤記と思われる)により暗殺されたとする。安康天皇が、仁徳天皇の子である大草香皇子に、妹の草香幡梭姫皇女を同母弟である即位前の雄略天皇の妃に差し出すよう命令した(大草香皇子と草香幡梭姫皇女は父系の叔父と叔母)際に、仲介役の坂本臣等の祖である根臣が、大草香皇子の「お受けする」との返答に付けた押木玉鬘(おしきのたまかつら:金銅冠とも)を横取りするために、天皇に「大草香皇子は拒否した」と偽りの讒言をする。安康天皇は大草香皇子を殺害し、その妃である中蒂姫命(長田大郎女)を奪って自分の皇后とした。中蒂姫は大草香皇子との子である眉輪王を連れており、これが眉輪王に安康天皇が殺害される直接の原因となった。暗殺の事実を知った大泊瀬皇子は兄たちを疑い、まず八釣白彦皇子を斬り殺し、次いで坂合黒彦皇子と眉輪王をも殺そうとした。この2人は葛城氏の葛城円宅に逃げ込んだが、大泊瀬皇子は3人共に焼き殺してしまう。さらに、従兄弟にあたる市辺押磐皇子(仁賢天皇 ・顕宗天皇の父)とその弟の御馬皇子(みまのみこ)をも謀殺し、政敵を一掃して、11月にヤマト王権の大王の座に就いた。即位後、草香幡梭姫皇女に求婚する道の途中で、志貴県主(参考:志貴県主神社)の館が鰹木を上げて皇居に似ていると何癖をつけ、布を掛けた白犬を手に入れる。それを婚礼のみやげ物にして、草香幡梭姫皇女を皇后にする。
【皇居】
都は、近畿の泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)。稲荷山古墳出土金象嵌鉄剣銘に見える「斯鬼宮(しきのみや ・磯城宮)」も朝倉宮を指すと言われる(別に河内の志紀(大阪府八尾市)とする説もある)。伝承地は奈良県桜井市黒崎(一説に岩坂)だが、1984年、同市脇本にある脇本遺跡から、5世紀後半のものと推定される掘立柱穴が発見され、朝倉宮の跡とされ話題を呼んだ。これ以降一定期間、初瀬に皇居があったと唱える人もいる。なお、『日本霊異記』によれば、磐余宮(いわれのみや)にもいたという。(参考文献:ウィキ抜粋)


【大塚陵墓参考地】

大塚陵墓参考地(おおつかりょうぼさんこうち)では、雄略天皇が被葬候補者に想定されている。考古学名は河内大塚山古墳(前方後円墳、全長335m)。ただし埴輪が無い等の特徴から前方後円墳終末期のものである可能性が高く、そうであれば雄略の崩年と築造年代に数十年の開きがある。

雄略陵の前に大塚陵墓参考地に寄ってきました。

最寄駅は近鉄「恵我ノ荘」駅。


現雄略陵とは比べ物にならないほどデカい。(全国第5位)雄略陵で無いにしろ間違いなく当時の大王クラスのお墓でしょう!