第36代 孝徳天皇 大阪磯長陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成27年5月31日(日)参拝】

王陵の谷、天皇陵としては孝徳天皇をもって最後になります。

孝徳(こうとく)天皇陵  御陵名:大阪磯長陵  陵形:円丘  考古学名:山田上ノ山古墳   
所在地:大阪府南河内郡太子町大字山田

孝徳陵は王陵の谷の中では一番東に位置しています。


ここも石段を登ります。


皇極陵ほどでなくすぐ拝所に着きます。




此処の陵は左側が崖になっていて正面に行けません…。


こういう正面に行けない御陵は孝昭陵以来。なんでこういう設計にしたのだろうか?



孝徳天皇は、日本の第36代天皇(在位:645年7月12日 - 654年11月24日)。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろずとよひのすめらみこと)。
【生涯】
敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女天武天皇(大海人皇子)の叔父。姪・間人皇女を皇后にした。阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。他に子女は確認されていない。蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。

『日本書紀』によれば、天皇は仏法を尊び、神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。

皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、翌々日に皇極天皇中大兄皇子に位を譲ろうとしたが辞退して軽皇子を推薦した。軽皇子は三度辞退したが14日の内に、皇極天皇から史上初めての譲位を受け、軽皇子は即位した。
皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。

孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)とした。『日本書紀』が伝えるところによれば、大化元年から翌年にかけて、孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。 この改革を、後世の学者は大化改新と呼ぶ。

孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。多数の随員を伴う遣唐使を唐 に派遣した。

孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。 が、白雉4年(653年)に、皇太子は天皇に倭京に遷ることを求めた。 天皇がこれを退けると、皇太子は皇祖母尊と皇后、皇弟(=大海人皇子)を連れて倭に赴いた。 臣下の大半が皇太子に随って去った。 天皇は気を落とし、翌年病気になって亡くなった。(参考文献:ウィキ抜粋)

これで王陵の谷4陵+聖徳太子御廟の全てを参拝しましたので、最後に再び叡福寺に行って御朱印を貰ってきました。


初めて御朱印を貰いましたがなんかハマりそうで怖いです…。
一応、今後は陵墓がある寺院限定で御朱印を集めていきたいと思います。