第37代 斉明天皇 孝徳天皇皇后 間人皇女 越智崗上陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
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【平成27年6月6日(土)参拝】

今ふたたびの掖上へ。 今日は皇極帝ではなく斉明帝として陵を訪れます。


斉明(さいめい)天皇陵  御陵名:越智崗上陵  陵形:円丘  考古学名:車木ケンソウ古墳   
所在地:奈良県高市郡高取町大字車木

また240段の石段を登ります。                            あと50段。


拝所到着。


珍しく鳥居のすぐ横まで行ける。  そしてここは陵をぐるっと1周出来るんです。





斉明天皇(さいめいてんのう)は、重祚して日本の第37代天皇。(在位:655年2月14日) - 661年8月24日)となる。皇極天皇から一代おいて再度即位した。
【重祚】
孝徳天皇の崩御後、655年1月3日、62歳のとき、飛鳥板蓋宮で再び皇位に就いた(史上初の重祚)。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が執った。
斉明天皇元年には、高句麗、百済、新羅が使を遣わして朝貢してきた。また、蝦夷と隼人も衆を率いて内属し、朝献した。
対外的には、朝鮮半島の諸国と使者を交換し、唐にも使者を遣わした。
【朝鮮半島への軍事介入】
在位5年(660年)に百済が唐と新羅によって滅ぼされた。百済の滅亡と遺民の抗戦を知ると、人質として日本に滞在していた百済王子豊璋を百済に送った。百済を援けるため、難波に遷って武器と船舶を作らせ、更に瀬戸内海を西に渡り、筑紫の朝倉宮に遷幸し戦争に備えた。遠征の軍が発する前の661年、当地にて崩御した。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援、倭国軍は朝鮮半島南部に上陸し、白村江の戦いを戦ったが、唐と新羅の連合軍に敗北した。(参考文献:ウィキ抜粋)

間人皇女
間人皇女(はしひとのひめみこ、生年不詳 - 天智天皇4年2月25日(665年3月16日))は飛鳥時代の皇族。間人大后とも。孝徳天皇皇后。父は舒明天皇、母は皇極天皇(斉明天皇)。天智天皇の同母妹、天武天皇の同母姉に当たる。
【生涯】
乙巳の変(645年6月)により皇極天皇譲位し、軽皇子(孝徳天皇)が即位する。葛城皇子(中大兄皇子、後の天智天皇)を皇太子とし、大化の年号が採用された。大化元年(646年)末に、飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都する。葛城皇子は孝徳の治世下で実質的に改革を推進しており、天皇と不仲になっていたらしい。白雉4年(653年)に葛城皇子は天皇の意に反し、皇極間人皇女の他、多くの官僚を率いて飛鳥に戻ってしまう。孝徳天皇はこれを恨み退位も考えたが、山碕(後の京都府乙訓郡)に宮殿を造営中に病に倒れ、白雉5年10月10日(654年)に難波の宮殿で崩御した。
間人皇女は天智天皇4年2月25日(665年3月16日)に薨去し、斉明天皇陵である越智岡上陵に合葬された


そして斉明陵参拝後、ふたたび牽牛子塚古墳に行って来た。






今日はさらに江戸時代に斉明陵に比定されていたという小谷古墳も訪問してきました。

【小谷古墳】(奈良県指定史跡) 高さ約8m、径約30m前後の円墳、あるいは方墳。
所在地:奈良県橿原市白橿町4-18

住宅街に隣接しているのですが、雑草が生い茂っててなかなか近づけませんでした。



ここの天井石は一枚岩で、かの石舞台を凌ぐといわれています。

この季節だからか雑草が生い茂り全然整備されていないのが残念…。(一応江戸時代は天皇陵なのに…)


【平成28年12月14日追記】

斑鳩の吉田寺内の清水の古墳が、間人皇女の陵墓と伝えられている。⇒こちら