第35代 皇極天皇 越智崗上陵 | 倭は国のまほろば…残された憧憬を訪ねて…。

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3年半かけて天皇陵、皇后陵を歴代順に廻りました。
1年半かけて宮(皇居)を歴代順に廻りました。
普段は奈良を中心に周りで起こった他愛のない出来事を綴っていきます。
ペナントレース中は甲子園球場に出没しています!
奈良まほろば検定 奈良通1級合格。

【平成27年5月30日(土)参拝】

ついに乙巳の変(大化の改新)まで来ました。

皇極陵への最寄駅はJR和歌山線「掖上」駅。

皇極(こうぎょく)天皇陵  御陵名:越智崗上陵  陵形:円丘  考古学名:車木ケンソウ古墳   
所在地:奈良県高市郡高取町大字車木



立派な石段。


途中に皇極帝の孫にあたる大田皇女の墓があります。               皇極陵はさらに上。


結構、長い…。


そしてようやく拝所に到着。


制札名は斉明天皇。(重祚して斉明天皇)







皇極天皇(こうぎょくてんのう)は、日本の第35代天皇。(在位:642年2月19日 - 645年7月12日)。諱は寶女王(たからのひめみこ、たからのおおきみ)、または宝皇女。和風諡号は天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)。重祚して第37代 斉明天皇(さいめいてんのう)(在位:655年2月14日) - 661年8月24日)となる。推古天皇から一代おいて即位した女帝である。
【略歴】
敏達天皇の皇子・押坂彦人大兄皇子の王子・茅渟王の第一王女。母は吉備姫王
はじめ高向王(用明天皇の孫、父は不詳)と結婚して、漢皇子を産んだ。尚、この2人の詳細は不明。
後に舒明天皇2年1月12日(630年3月1日)、37歳で舒明天皇の皇后に立てられる。舒明天皇との間に、中大兄皇子(のちの天智天皇)・間人皇女(孝徳天皇の皇后)・大海人皇子(のちの天武天皇)を産んだ。
舒明天皇13年10月9日(641年11月17日)、 舒明天皇が崩御する。皇后は48歳だった。舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、642年1月15日、 皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇は古の道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。
乙巳の変
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子らが宮中で蘇我入鹿を討ち、翌日、入鹿の父の蘇我蝦夷が自害する(乙巳の変・大化の改新)。その翌日の6月14日、皇極天皇は同母弟の軽皇子(後の孝徳天皇)に皇位を譲った。日本史上初の譲位とされる。
新天皇の孝徳天皇により、皇祖母尊(すめみおやのみこと)の称号を奉られた。(参考文献:ウィキ抜粋)


このあと歩いて牽牛子塚古墳まで行って来ました。

【牽牛子塚古墳】
近年、牽牛子塚古墳が真陵とほぼ断定されたということは車木ケンソウ古墳の被葬者は誰なのか?


                                           まだ整備工事中ですかね。




                            最初から合葬ありきで制作された石室なのが一目瞭然!

これをみる限り、やはり牽牛子塚古墳が真陵みたい!


このあとは乙巳の変の舞台ともなった飛鳥板葺宮まで足を延ばしてきました!

飛鳥板葺宮



645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)この地でかのクーデターが決行されたと思うと感慨深い。


板葺宮からみた多武峰。 ここで中大兄皇子中臣鎌足が乙巳の変を企てたという。

                              飛鳥寺。ここで二人が初めて出会って蹴鞠したという。

飛鳥寺のすぐ西側にある蘇我入鹿首塚。板葺宮からここまで刎ねた首が飛んできたという。

                            首塚から板葺宮方面を望む。ゆうに5~600mはあろうか。

重祚ということは一代おいてまた斉明陵に行かなければ…。

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