先日、あるブログ記事を読んでいて、こんな表現が出てきました。

before lunch

文脈的には、「人間がこれまで時間をかけてやってきたことを AI なら数時間程度で before lunch にできる」という感じでした。

え、これって before lunch  before breakfast →朝飯前 って意味じゃない?

と思って、調べてみました。

 

実は、英語には、もともと簡単なことを表すのに、「before breakfast」という表現があったようです。それが近代には進化(?)して「before lunch」が主流になったとか。

 

具体例を探してみると、「P.G. Wodehouse」という作家の「The Code of the Woosters(ウースター家の掟)」という著書に「I could do that before breakfast」と書いてある箇所があるとか。

その他、シャーロックホームズの冒険にも、一般人には難しい事件を探偵なら「before breakfast」に解決できる、というような表現があるとか。

 

どちらも、AI に探してもらったものなので、裏は取れていないのですが。

 

とにかく、英語にも before breakfastlunchという表現は実在するようです。

中学生のころ、「朝飯前」は「piece of cake」とか習ったような気がしますが、もうね、英語初学者たちが好んで使う「before breakfast」でいいじゃんね。

 

なんというか、30 年以上英語を勉強してきて、これが通じるのを今更知ったことに驚いています。

日本語と英語を比べた時、よく聞くのが「日本語は主語がない」とか「日本語は主語が省略できる」とかいう言葉です。

さらにはたまに、「だから日本語の方が劣っている」とか言う人もいます。

そもそも、世界には 6000 以上の言語がある(方言とされたりする場合もあるので、この数字は概算ですが)と言われているのに、英語と日本語という、たった2つの言葉を比較してあーだこーだと言うのはナンセンスだと思いますけどね。

という訳で、今日は年末年始のヒマな時間にベルーガが考えた、日本語の主語の省略について書いてみたいと思います(そして本記事執筆中に冬休みが終わりいつの間にか桜も開花してしまった)。

 

<主語の省略>

まず、前提として、「主語」とか「動詞」とかいうのは、英語(を含む主にヨーロッパの言語)の文法用語なので、それをそのまま日本語に持ち込むのはどうかとベルーガは思っていますが、まあ、ここでは本質から外れるので(そして話すと長くなるので)、「主語」という言葉を使いましょう。

要は動作主です。

 

もちろん、英語でも「主語が省略」されるケースはあるようです。

例えば日記。

「今日は野球をした」は、「played baseball.」のように、「I」が省略されることがあるそうです。

日記は普通、「私が」何をしたかを書くものなので、主語が「I」の場合は省略されますよね。

その他にも、命令文や複文(「私が~へ行き…をした」のような文の「…をした」の部分の「I」など)で主語の省略が起きるようです。

https://discoveringsounds.com/subject-omission

ここに、主語が省略できる例が示されているので、読んでみてください。

 

さて、ここに書いてあるように、主語が省略されるのは、主語が「文脈から容易に理解でき」る場合のようです。

では、日本語ではどうでしょうか?

 

実は同じで、「主語が誰か容易に分かる場合」です。

ここは共通なんですが、その範囲が全く違う、のです。

これは両言語の本質的な違いではないかと思います。

 

<両言語の違い>

どういうことかというと、日本語は、話者と聞き手で状況を確認し合いながら会話していく言語、英語は、話者が状況を作り上げそれを聞き手に伝えていく言語、とでも言いましょうか。

詳しく書きます。

 

まず、日本語は、「話者と聞き手で状況を確認し合いながら会話していく言語」なのです。

つまりどういうことかというと、「この部分は認識が同じだよね」と(言葉にされることはめったにないかもしれませんが)いちいち確認しながら会話が進みます。

例えば、状況1。

ある家に5人家族がいました。

その中で、お父さんと中学生の息子が、これから出かける、という状況での息子さんの一言。

 

「そろそろ行く?」

 

主語も述語もない。

けど、ほぼ全員の日本人は、息子さんが、お父さんに、「そろそろでかけるかどうか」を確認した言葉だと思うでしょう。

 

これは、出かけるのが父親と息子の2人で、話者(息子さん)と聞き手(父親)の間で、「これから出かける」という状況が共有されているからです。

そのため、息子さんは、「お父さん、僕たちそろそろ出かけますか?」という言い方をしなくてもいい。

 

では、同じシチュエーションで、アメリカの家庭で。

 

“Are we leaving?”

 

ちゃんと主語の「we」が入ってます。

「お父さん、僕たちそろそろ出かけますか?」と言いたいということを、聞き手(父親と家族の残り3人)が理解しているかいないかは関係なく、話者(息子)が、聞き手(父親)に向けて、そろそろ出かけようか、という意思を伝える、という構図になっているからです。

 

ということは、これは、悪意をもって言えば、「話者の考えを押し付ける」ことになります。

実は、これを端的にあらわす単語が英語にはあります。

それが「冠詞の the」です。

The というと、中学英語では、前に出てきた単語、とかこの世に1つしかないものに付ける、などと教わりますが、その本質は、「話者が、聞き手も分かっていると思っている(だから、聞き手にその状況を押し付ける)」名詞につけるものなのです。

 

<他人との共有が優先か、自分の意見の伝達が優先か>

例えば中学一年生で習いそうなセンテンス。

「I have a pen. I bought the pen yesterday.」は、1文目で pen が出てきたから、2文目は the になる、のように説明されますが、要するに言いたいのは、「私はペンを持っています。」(今私が口にした「ペン」は、あなたの頭の中で認識されたハズですので、これ以降は、定冠詞 the をつけてわかりきったものとして扱いますが、)「the ペンを昨日買いました。」ということなんです。

別の文、「The sun rises every morning.」は、「太陽っていえば地球から見えるのは1つしかないから、当然あなたが頭の中で認識するものは私が認識しているものと一緒ですよね、だから定冠詞を付けますが、「the 太陽は毎朝のぼります」という意味です。

 

ところが日本語では違います。「私はペンを持っています。」(今私が口にした「ペン」は、あなたの頭の中で1つに認識されたかどうかわかりません(状況確認が不十分)。だから、まだ「このペン」という言葉を使います)「これ(このペン)は、昨日買いました。

という考えなのです。

「太陽は毎朝のぼります」の太陽が省略できないのは、毎朝のぼるのが太陽だけとは言い切れないからです。月がのぼるかもしれませんし、殿様が登城するかもしれません(状況が共有されていない。太陽が一つしかないという状況は英語と同じだが、状況的には英語の the sun とは違った理由で「太陽」という言葉が必要)。

ちなみに殿様が毎日(お城に)のぼる場合は、敬語という別のレッテルで主語を明示できるので、動詞により状況を共有して、主語を省略できる場合があるのですが、それはまた別の話なのでここでは省略します。

 

そして、日本語で主語が省略できるシーンが多いのは、おそらく、一般的に同じような人々が集まっている集団だからなのかと思います。

 

<小説を読むのはどちらが楽?>

昔思ったのですが、日本語の小説と英語の小説を比べると、人物描写が英語の方が圧倒的に細かい。

だから、英語の小説は長くなる(ような気がする)。

例えば、日本語だと、「目の座った紳士然とした男が」くらいで、どんな感じの人かイメージできますよね(少なくともできる気がする)?

ところが、英語だと、特にアメリカだと、髪の色はどうだ、長さはどうだ、服装はどうだ、肌の色はどうだ、目の色はどうだ、と外見だけで2~3行使うこともざら。

つまり、髪の色から何から、1つに定まるものがない。

なので、話者は聞き手が状況を理解していない前提で、細かく描写する。

日本語の場合は、「黒髪黒目、男なら短髪」というのは(現代では必ずしもそうでもないかもしれないが)一般的なので、あえて言う必要はない。日本人であれば、確認するまでもなく、状況として既に共有されている、と考えてよい。だから、「長髪の男は」のように、そこから外れる状況だけ述べればよい。

つまり、日本人(日本語話者)という集団の中で、状況確認ができている事柄が多いし、それが当たり前(だった)文化であるということです。

 

と、ここまで長々と書いてしまい気が付いたら3か月経っていましたが、まとめると、英語と日本語の違いは、両文化の違いに端を発して、次のようになっていると考えられます。

 

英語:一人ひとり違うから(または他人のことに関心がないから?)自分の言いたいことはすべて開示して、相手にすべてわかるようにして話す。が、文法的には背景の押し付けにもなりえる。

日本語:基本的に同じ(他人と認識を共有していると)思っているので、共有していると思われる言葉は省くし、会話は共有をしながら進めていくので、会話が進むにつれて省かれる量が増えていく。

 

ベルーガが最初に思ったことをちゃんと述べているか自信がなくなってきたのですが(なぜなら、3か月前に考えていたことをはっきり覚えていないから)、この記事は、次のような思いから始まりました。

 

○日本語って主語をはじめとした単語を省略するけど、なぜなんだろう?

○英語では省略しないのだろうか?

○日本語の小説って結構コンパクトだけど、英語の小説ってムダに長く感じるな。

 

上の問いにだいたい答えられていますかね?

基本的な考えは変わらないので、これからも関連して考えたことを書いていきたいと思います。

読者の皆様、今年も一年、当ブログをお読みいただきありがとうございました。

気が付けば 10 月から更新してないし…。

マズい。

 

が、仕事はちゃんと続いています。

IT 関係なので、年末に「基本情報技術者」なんて資格も取りました。

資格というのか分かりませんが…。

来年は「応用情報技術者」、そしてゆくゆくはセキュリティスペシャリスト。

なんのこっちゃ?

翻訳は?

来年も引き続き、わかりやすい翻訳を目ざして精進しながら、気づいたことがあればブログにつづっていきます。

また来年もよろしくお願いいたします。

皆さんは、幽霊は怖いですか?

日本には幽霊が出てくる話は多いですが、イギリスにも幽霊話はあります。

続いて読んだ別の短編小説、『カンタビルの幽霊』も、そんな幽霊話の一つです。

キャンタービルとかカンタヴィルとか、いろいろな訳がありますが、英語は「The Canterville Ghost」というものです。

 

<アメリカ人は現実的>

物語は、幽霊が出るというイギリスの屋敷に、現実主義者のアメリカ人一家が移り住んでくるところから始まります。

屋敷の持ち主から、「幽霊が出ますよ、いいんですか?」とくぎを刺されるも、平気なアメリカ人一家。

実際、住んでみて夜中に幽霊が出てくると、父親や母親は、幽霊につけられているチェーンのさび取りを勧めたり、その双子の息子に至っては逆に幽霊にいたずらをしかけたりします

ちっとも怖がらないこの新しい住人に、幽霊は手を変え品を変え、脅しを続けます…。

 

というような、ラノベみたいな話です。

反対にやられてしまう幽霊がけっこう滑稽です。

 

<ラノベ作家ではないが>

この小説の著者は、「幸福な王子」などを書いたオスカーワイルドです。

最近の日本のラノベにも、幽霊を怖がらずにむしろ親しくなってしまったりする類の話がありますが、この小説は、1906年発表だそう。

今から100年以上前に、こんな現代ラノベみたいなストーリーを考えていたなんて、オスカーワイルドさん、現代日本に生まれていたら、ラノベ作家になっていたかも…?

「To be or not to be」という本を読みました。

が、シェイクスピアのハムレットではありません。

残念ながらハムレットを読む読解力はベルーガにはありません(自慢できるものではない)。

2BR02Bというタイトルの短編小説です。

「2BR02B」と「To be or not to be」の関係は、本文内の比較的最初の方に出てきます。

もうわかった人もいるかもしれませんが…。

短編小説なので、本は出ていないようです。

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と思ったら、Kindle ではありました。

 

<これは理想の世界か>

貧困も戦争も病気もない未来世界が舞台です。

その世界では、人類は事故や自主的な選択をしない限り死にません。

その世界では、人口は一定に保たれていて幸福が保証されています。

そんな世界に住むある夫婦に子供ができました。

祝福すべきその子供は三つ子でした…。

 

なんか出だしのこのあらすじだけで先が予想できてしまうのですが…。

最後は予想通りの部分と予想と異なる部分がありました。

短編小説なので、すぐに読めます。

ぜひ読んでみてください。