迷い道クネクネ。

好きだったな、この歌。

高音が綺麗すぎて歌えませんけど、好きだったな。

 

こんにちはBJです。

古本屋の店先にワゴンセールみたいに「たたき売り」されている本。

ありますでしょ。

なんか、旬の過ぎたエッセーやら小説がワンサカ。

日ざらしの中に並べて置いてあるやつ。

しょうがないとは言え悲しいものがあります。

その「もの悲しさ」を愛する私は、ワゴンをよく覗き込みます。

 

時の流れは残酷だ。

 

などと思いながら今回も眺めておりました。

ちなみにワゴンの本は「一冊110円(税込み)」です。

なんか値段も悲しいよなと思いつつ。

 

「世界文学大系」と言う本が何冊か出てまして・・・

その中に「デカルト・パスカル」と書いてある一冊がありました。

嘘でしょ。

と思いながら手に取りました。

目次を見ると御二方の代表作が・・・

デカルトの「方法序説」とパスカルの「パンセ」が同じ本の中に入っておるわけです。

 

で、110円。

ハードカバーのデカい本ですけど110円。

これは何かの間違いではないか。

110円は失礼だろう。

だってデカルトさんとパスカルさんの代表作だぞ。

 

でも、110円。

ほとんど救出するように買いました。

もう、なんか国際救助隊(サンダーバード)気分です。

古本屋に期待したのは、値段が間違っていましたと言う一言。

ありませんでした・・・

やはり110円なんですよ。

 

奥付を見ると「昭和33年10月10日発行」だそうで。

古い?

古いですよね・・・

私の生まれた年だ・・・・

古い?

すいませんね。

でも、中身が変わっている訳では無いし。

いや、本の話ですよ。

 

パンセなんて文庫本でも上中下巻あって高いのです。

はい、前にパンセを引用した時は図書館で部分的に写筆しました。

欲しかったけど諦めていた本です。

 

が、110円。

 

「人間は、考える葦である。」のパンセ。

「我思う、ゆえに我あり。」の方法序説。

いいのですか、こんな値段で。

失礼なのではないでしょうか・・・・

中身は変わって無いのですよ。

と、心の中で叫びながら買いました。

 

110円。

 

さっそく読んでいます。

面白いかって。

読めばわかる。

そんな感じ。

完璧な迷い道。

プラトンさんごめんなさい。

ではまた。

 

100年もつヒザとか100年生きるための心得とか体操とか。

なんですかね「人生100年時代」。

100年生きるのが人生の目的なんですか。

私は、そんな目的など持ちたくありません、はい。

 

 

日本は少子化と騒いでいる。

世界は人口増加であえいでいる。

何が問題か自分で考える癖を付けなければ・・・

ゲルニカは何処にでも存在する。

 

こんにちはBJです。

岡潔さんにはまっております。

書籍を買い込んで読んでいます。

*また、脇道へ・・・バカですね。

 

凄いことを書いておられる。

なんか、岡さんからゴンゴン殴られ続けている気がします。

この偉大な数学者は、人類の理知とか発展に関して毛ほどの信用も持っていない。

驚きです。

今回は、ゴンゴン殴られている中身を紹介します。

 

ゴン1:一の定義は無い。

これは、前回書きました。

数学者は、一を仮定して使用するが、一の定義はしない。

一は何であるかと言う問題は取り扱わない。

あぁ、いまだに驚愕しています。

 

ゴン2:今の世を獣類時代だと思っている。

人新世とか言っていますが、岡さんは競争社会を生存競争の場とみなしています。

つまりは獣類時代だと・・・

その次の段階で人類時代が来るとおっしゃっていますが、次の段階には行けないだろうと。

今回の人類は、獣類時代で終わると思っておられます。

*今回です!!!

 

ゴン3:人類は滅びると思っている。

獣類時代と言っても本物の獣たちには食物連鎖と言う掟があり、それなりのリミッターを持っているが、人間にはない。

つまり人間の争いにリミッターが無いと言う事は滅びるのが自然である。

そう言うことを淡々と述べておられます。

 

ゴン4:死を視ること、帰するがごとし。

これは同意できないところではありますが、日本民族を大義のために身を捨てることが出来る唯一の民族だと。

そうかな、単なる刷り込み学習の結果のような気がしますけど、岡さんは日本民族を大変高く評価されております。

*この方は戦中派です。

 

さて、殴られ続けて読んでおりますが、なんでまた引っ掛かっておるのかと言うと。

こんな一文があるのです。

 

『私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えてきた。』

 

なんか私、凄く共感できるのですよ。

通信とか言う虚業を生業にしてきた私としては、虚しさを救ってくれた言葉です。

まぁ、これでコロッといってしまい読んでいます。

この岡さんは、数学者であり教育者でもあります。

よって、日本の教育に関して苦言を呈する箇所が散見されます。

この内容については、詳しく書きませんが、問題は「教育」です。

 

なんだ。オマエも教育に文句を付けようってか。

 

ではありません。

「教育」は重要だと言う事です。

今更、何言ってんだ。

と、思ったでしょう。

思ってください。

「国家」の正義を紐解く鍵は「教育」ではないかと考えています。

いや、まだ熟成は足りていませんが、当たりではないかと思っています。

オホホ。

 

オマエは、またぞろ無理やり「国家」に結び付けようとして、そんな事を言っているのだろう。

 

かも知れませんが、当たっている気がします。

本当です。

 

ではまた。

 

久々に読み応えのある本を定価で買いました。

定価でってところに意気込みを感じませんか。

内容が楽しみです。

 

 

才能に人生を喰われた日本人。

棟方志功さんだけかと思っておりました。

岡潔さんもそうなんですね。

 

こんにちはBJです。

変なテーマでしょ。

まぁ、自分でも変だとは思っています。

実は、私の読書がかなり偏向をきたしている昨今。

ブログの更新もままならない。

理由を明確にし、できれば時間稼ぎもしておきたい。

 

原因は分かっております。

プラトンの「国家」に引っ掛かりハンナやハラリ、そのうえ岡潔に突入。

もはや「国家」自体の記述を再読せねば元に戻れない。

また読むんかい!

何という無駄!

 

って、思いますでしょ。

思ってください。

でもね。

私の読書ってそんなものなんです。

以前、荻生徂徠や本居宣長を書いたときも、いろんなところに飛んで行っては戻るを繰り返していました。

もともと、知識が少ないのでしょうがないと諦めて飛び回っております。

 

でね。

もうちょっと軽い読書をしようと歴史小説と推理小説を買ったわけです。

はい、古本屋から。

で、読みました。

ぜんぜん面白くない。

びっくりするほど面白くない。

お金返せ!レベル。

 

推理小説は、有名作家の最高傑作と解説目録に書いてありました。

何のわくわくも無しに思った通りの展開。

歴史小説に至っては、途中でつまらなくなって「つん読」。

全部読んでいません。

 

はい、原因は「国家」です。

分かっているのですが、どうしようもない。

取込まれている感じです。

こういう不思議な魅力があるから古典となっておるわけでしょ。

私の場合、理解をするためには他の書物の助けがいります。

もうやたらめったら関係するとおぼしき書物を片っ端から読むわけです。

もう、頭の中は満杯です。

 

で・・・

 

熟成するのを待ちます。

何をするかと言うと「何もしない。」

ただ散歩して動画見て、たまにうっすらと「正義」を考える。

そういう感じ。

そうやって頭の中がまとまってくるのを待ちます。

はい、いつもこんな感じです。

 

いつまでもまとまらない場合は、再度読みます。

足りない知識の詰込みを何度でも行います。

何と「優雅な学び」でしょうか。

この優雅さを気に入っております。

急ぐ必要もないし、わたし独特の方法だと思っておりました。

 

熟成を待つ。

 

あれっ!

岡潔さんも同じなの。

私だけの方法では無いの?

なんかすごく傷ついた感じ・・・

岡さんの場合、数学それも解析学ですから考えに考え抜くそうです。

あらゆる手段を試し、まだ何かないか、まだあるはずだ。

そんな感じだそうです。

 

 

ある時は、近所の理髪店で耳掃除をしてもらっているとき。

ある時は、蛍狩りの最中。

ある時は、車がトンネルを抜けて眼前に海が広がったとき。

解決が出てくるそうです。

この方、考え始めると授業中だろうが散歩中だろうがおかまいなしに没入されるそうで。

何時間でも動かなくなるそうです。

私はそこまで没入できませんけど、偉人は違いますね。

そばに居たらちょっと怖い。

 

さて時間稼ぎの軽い話もこれぐらいにします。

そしてとりあえず熟成を待ちます。

ではまた。

 

だれ一人取り残さない。

弱い人に寄り添う。

耳に心地いい言葉は負の面を隠します。

簡単にのせられないように。

 

 

自分の行動に「美学」を持って欲しい。

それは、他人に吹聴したり人に誇るものでは無く。

些細でそれでいて譲れない「小美学」を持って欲しい。

 

こんにちはBJです。

なんか、テーマが違っているのではないかと思いました?

思ってください。

「アプローチ:国家」のはずでした・・・

なんでいきなり「岡潔(オカ キヨシ)」なんて聞いた事も無い名前が出てくるんだ。

訳の分からない事するな。

 

・・・ですよね。

私も「この偶然」に驚いているのです。

いやほんと。

実は「国家」とは関係なく、私が探していた本が見つかりました。

それが小林さんと岡さんの対談集「人間の建設」です。

ほんとに最近、古本屋で見つけました。

*私は、小林秀雄さんの大ファンですから。

 

その本の中で面白い記述を発見してしまい、よって「アプローチ:岡潔」となりました。

言っときますが、岡潔さんっておそらく日本が生んだ最大最高の数学者です。

私が知らなかっただけ。

では、なにより見てもらいましょう。

 

『「一」という観念』から抜粋:岡さんの発言。

 

『私がいま立ち上がりますね。そうすると全身の四百幾らの筋肉がとっさに統一的に働くのです。

そういうのが一と言うものです。

一つのまとまった全体というような意味になりますね。

一の中に全体があると見ています、あとは言えないのです。

個人の個というものも、そう意味のものでしょう。

個人、個性と言うその個には一つのまとまった全体の一という意味が確かにありますね。』

 

これって凄くないですか。

なんか、そのままプラトンの言う一人の人間であるのに「多くのものであること」の説明になっていませんか。

一という観念・・・ここですか。

まさか「一」にそんな秘密があるとは・・

 

これね、会話の始めは岡さんの発言です。

 

『一を仮定して、一と言うものは定義しない。

一は何であるかという問題は取り扱わない。』

 

小林さんは受け取ります。

『つまり一の中に含まれているわけですな、そのなかでいろいろなことを考えていくわけでしょう。一という広大な世界があるわけですな。』

 

岡さんの返答。

『あるのかないのか、わからない。』

 

この会話の先に最初に引用した発言が続きます。

 

このお二人の会話には、省略された知識の言葉が無数にあります。

お気付きでしょう。

なので私のつたない解説などやめます。

見事な会話としか言いようがない。

 

さらっと書いていますが、自分の浅い考えに呆然としてほとんど自失しておりました。

この衝撃は、近年まれにみる痛みです。

なんか、とうとうこんな所まで来てしまった。

大丈夫か私。

・・ってところです。

 

2週間ほど「この驚き」に耐えておりました。

では、「一」とは観念であるとしてプラトンの話を考えて見ましょう。

『多くのものであることをやめて節制と調和を堅持した完全な意味での一人の人間になりきる。』

この「完全な意味での一人の人間」とは、多くの自我が「ある目的」のもとで統一され運動を行う状態の事。

または、一つの方向を表明すること。

かな。

言葉足らずのような気がするけど・・・

なんとなく分かっていただければいいかな。

私も何となく答えが見つかったような気になっております。

 

『「一」に定義は存在しない。』

 

それだけで驚天動地だったわけで・・・

今でも動揺していますけどね。

本当にビックリしました。

一に多くのものが含まれているのであれば「統一する」ことも出来ますし、その状況を一と呼ぶことも可能ですよね。

なんか変なこと言ってます?

言ってますね。

理解したつもりでも、言葉にしようとするとダメだな。

もう少し時間がかかるようです。

 

でも次は、「国家」に戻ります。

無茶やるな、私。

ではまた。

 

世界は広い。

まだ、私の知らない偉人が数多くいるのでしょう。

今回は、偶然見つけた偉人でした。

凄すぎて今だビビってますけど・・・

 

 

「自然との共生」・・嘘ですね。

本音は「人間にとって都合のいい自然だけとの共生」

そうなんでしょ。

 

こんにちはBJです。

やっと日常が戻り始めましたね。

いいことです。

 

最近、動画を見ることが多くなってきました。

面白いですもんね。

いろんな動画を見ながら、一人で突っ込んでいます。

 

例えば「それは、証拠を出さなきゃ!」

例えば「それは、根拠になっていない!」

 

などです。

つまり、確証が欲しいのですが「なんともあやふや。」

あやふやだからいろんな説が可能になるのでしょうけど。

はい、かなりとんでもない話を喜んでみています。

シュメール文明とか日本の超古代史とか。

始めから「とんでもない話」を期待して見るのはいいのですが・・

 

でもね。

議会や行政の話は別です。

結構、真面目に見ています。

やはり、数値やデータを並べて説明されると説得力がありますね。

興味のある財政の話なんか、知らなかったり騙されていたりで面白いです。

 

国債って国民の借金じゃなかったの?

 

ってのが最初の驚き。

新聞やテレビでは国民の借金みたく言っていなかったっけ?

なんだよ・・・違うんだ!

何年も騙されていたわけだ。

なんて話を数年前に動画で見つけて喜んだのが始まりです。

それから財務省批判の動画にはまっております。

昔は、日本は赤字で首が回らないはずと思ってました。

 

でもね。

 

なんかやたらに外国への援助したりするでしょ。

ODAとか円借款とか思いっきりやっているし、なんで海外への援助金なんて「余裕があるわけ」とか疑問でした。

日本って超赤字じゃないの?

 

超赤字じゃありません。

 

証拠は?

 

バランスシートを見てください。

 

えっ、国のバランスシートってあるの!

ありますわ・・財務省のHPに。

見て見たら赤字になってますけど、なんかトリックがあるらしく・・・

*日銀の扱いとかです。

IMFに出しているバランスシートの方が正確らしいです。

そっちを見てくれって言ってました。

私そこまでは追いかけませんでしたけどね。

 

なんか長年騙されていた私。

それから、色々見ておりまして今や反財務省派の私がおります。

昨今、気を付けて見ていると「国債は国民の借金」と言う言いかたをあまりしなくなりましたよね。

いや、たまに新聞とかにチラッと出てたりしますけど。

動画の影響って凄いのですよ。

 

エガちゃんのポテチも買えなかったし・・・

 

とまれ。

要は、信じ込まされているものが他にもあるかも知れない。

なんて思いだしております。

何が信用できるのか・・・

今回の件に関しては、IMF版バランスシートと言う証拠があります。

証拠は大事ですよね。

確実な証拠。

 

なんか動画と言うニュースツールが出てきたおかげで視野が広がりました。

これは感謝ですね。

ただショート動画なんですが、暇つぶしにはいいですけど、これって時間がすぐに経ってしまう。

面白いので見ちゃいますが、これはタイパ以前の問題でしょう。

まさに無駄の極み。

で、最近は「行政系チャンネル」と「格闘系チャネル」ばかりを見ています。

 

さて、読書はどうした?

ではまた。

 

相撲、面白かったですね。

リアルタイムで110年ぶりの優勝を見ました。

なんか、運がいいな私達。

 

 

好きな野良猫がいました。

彼女は、病気で死んだそうです。

彼女は知りませんが、私は勝手に罪の意識を感じています。

 

こんにちはBJです。

面白いニュースが欲しいなと思っていたら出てきましたね。

日本保守党。

大人気らしいです。

そうでしょうね。

私達庶民は、いつも政府を非難する民間人に共感しますもの。

昔から、そう言われております。

例えば、プラトンの国家。

でね、思うに・・・

 

あぁ、人間て全然進歩していないな。

 

などと感嘆したりして、そこを考えておりましたら、こんなに時間を喰ってしまいました。

いや、アプローチ「国家」を忘れた訳ではありませんけど。

ちょっと、お付き合いください。

プラトンが「国家」の中で民主制について語る場面があります。

痛烈で、面白いので書いてみます。

 

「個人的にも公共的にも賞賛され尊敬されるのは、支配される人々に似たような支配者達、支配者に似たような被支配者達と言うことになる。」

 

プラトンなど遥か昔の人間に民主主義が分かるのか?

はい、分かります。

アテネはね、民主主義発祥の地ですから。

そして、その民主主義国家での裁判にてソクラテスは有罪となり毒をあおることになりました。

これは、プラトンにとって衝撃的な事件だったでしょうね、それは痛烈な批判になるわ。

で、まだ続きますよ。

個人の自由をめぐってね。

 

「父親は子供に似た人間となるように、また息子達を恐れるように習慣づけられ、他方、息子は父親に似た人間となり、両親の前に恥じる気持ちも恐れる気持ちももたなくなる。自由であるためにね。」

 

なんと自由と言う言葉の怖い事か。

さらに続きます。

 

「すなわち、このような状態の中では、先生は生徒を恐れて御機嫌を取り、生徒は先生を軽蔑し、個人的な養育係の者に対しても同様の態度をとる。」

 

「一般に、若者たちは年長者と対等に振舞って、言葉においても行為においても年長者と張り合い、他方、年長者たちは若者に自分を合わせて、面白くない人間だとか権威主義者だとか思われないために、若者たちを真似て機智や冗談でいっぱいの人間となる。」

 

ね、痛烈でしょ。

現代の人達がよくやっておりますよ、悲しい事に。

奴隷主義や女性の参加は認めない、偏った民主制ではありますけどアテネと言う都市国家が発祥の地であることは間違いありません。

はい、プラトンは民主制を否定しています。

自由と言う事を人間には扱いきれない事象として書いてあります。

でね。

民主制は、政治制度の通過点だと書いてあります。

では、次に来るのは、

僭主(独裁者)主義であると。

それは自由を扱いきれない人間には必須であると書いています。

 

いや、お前は独裁主義にもって行きたいだけだろう。

 

でしょうか。

独裁者が、人間であるとは言ってませんよ。

例を挙げるまでもない。

ねえ。

AIは進化を続けています。

どんどこどんどん。

AIが民意であると数値を示して説得した時、誰が違うと言えるのでしょうか。

データには、人の肩越しに隠れて意見を言う卑怯な人達も数値として入っています。

面白半分の意見もデータとして数値化されます。

貴方は、その数値を嘘だと言えますか。

何がどうあれ人間が言ったのですよ。

 

どうでしょうか。

 

どうしますか。

最大多数の最大幸福がそんな形で出てきたら。

誰が、反対意見を言うのでしょうか。

怖い未来ですよね。

AI僭主主義。

私の対策は、ただ一つです。

 

考えろ。

 

それだけです。

一体それ以外に人が他の動物に勝るものがあるでしょうか。

考えて、考えて、考え抜く。

出来なければ、科学と言う波にのまれるだけです。

あの、科学って人間が作った物なんですけどね。

ではまた。

 

自分達が作ったもの(AIとか)にのまれてしまう。

犬や猫は、笑うでしょうね。

なんと、間抜けな動物だろうと。

 

 

日々、知らないことが出てきて。

それを調べるのが日課となっております。

なんとバカだったことか・・私。

 

こんにちはBJです。

大騒ぎになっているパーティー券裏金問題。

この国際情勢が緊迫している時期に何を悠長な話だろう。

などと、その「悠長さ」を笑っておりました。

金の記載漏れなんですから、振り込みにすればよいでしょ。

全部、記録は残ります。

だけど、何故か「派閥解消」へと動いています。

派閥が諸悪の根源・・・・

なのでしょうか。

派閥と言う名前が消えればそれでよしとする。

政策グループとか勉強会とか出てきても「派閥」と言う名前が消えればいい。

そうなんでしょ。

 

いやね、それでいいのです。

 

民意と言う怪物は、あきれるほど言葉に騙されますし、もともと意思などないのですから。

すぐ忘れますよ。

だってね。

選挙に金がかかるから「金を持っているものが勝ち」なわけです。

金のある所に人は集まりますでしょ。

いや、政治の話ですよ。

選挙に金がかかるのは我々がそうさせているのでは?

それとも、議員各位が金のかかるようにしているとでも思っています?

 

派閥もグループもけしからん。

 

ですか・・・・

では、例えば自民党が一枚岩になったとして考えて見ましょうよ。

その代表である総裁=総理が右向け右と言えば全員が右を向く。

国会は立法府ですから法律を変更することも作ることも出来ます。

つまり「独裁」がすぐにでも出来ますでしょ。

なんと行政の長も総理ですから、粛々と独裁に向けて作業できます。

 

えっ・・そんなことは許さない。

 

あらら、だって誰か止めることができますか。

考えて見てください。

日本のように二大政党制を持たない国は、簡単に独裁に陥りますよ。

 

何を言っている、今までそんな独裁者が出たことは無いだろう。

 

えぇそうです。

実は、貴方の嫌いな「派閥の力学」が働いて極端な思想や行動を中和していました。

で、派閥が無くなって(それがお望みでしょ。)自民党一枚岩。

あっという間に独善に陥りますよ。

それは、考えていらっしゃる?

独善は独裁にはつながらない?

それは嘘ですね。

 

いや、そんな簡単に独裁者は出ない。

 

えぇ、簡単には出ません。

だって、私達が作るのですから。

使命感に燃えた人に熱狂し、この人こそが世を変えてくれる人だと応援を惜しまない。

彼こそが、我々民衆の代弁者だ。

そこからしばらく彼と民衆の蜜月が必要です。

民衆の代弁者だった彼が、いつの間にか彼の言葉が民衆の言葉と錯覚されてきます。

そりゃそうだ。

難しい政治の話や外国との付き合いなんか考えるのは面倒ですしね。

彼に任せておけばいいのです。

 

でしょ。

 

そして彼が言います。

「私の言葉が民意だ!」

誰も疑わない。

はい、独裁の始まり。

時間は多少かかっても出来ますでしょ。

でもね、彼は独裁者になりたかったのか?

考えて見てください。

 

じゃあ、日本の政体は独裁者を生むのか?

 

違います。

どんな政体であろうと「独裁者」を生むのは、我々民衆です。

そこを忘れないでください。

 

さて、それはそれで考えてもらうこととして

今回は「民主主義って何なんだ。」

ってところに戻ってきて欲しいのです。

前に「参加と責任のシステム」であると書きました。

宇野重規(うのしげき)さんの言葉です。

 

「民主主義」は、完成された主義ではありません。

何処に不備があるか・・・・

または、人間に可能な主義なのか。

金の問題で騒いでいる今が考える良いチャンスかも。

 

遠い国会の話ではありません。

民主主義の実践は、町内会と言う身近なところに最もよく表れます。

その辺から見てみてはいかがでしょうか。

私は、そうしています。

神は細部にやどる、らしいですよ。

 

ではまた。

 

ちなみに日本は、三権分立をしていません。

議院内閣制とはそう言うことです。

モンテスキューさんごめんなさい。

 

 

令和6年1月

 

こんにちはBJです。

年明け早々に能登半島地震、羽田の航空機事故。

北九州でも商店街の火災。

次々に悲しい情報が飛び込んできます。

 

夜を日に継いで救助活動を行っている人達。

電気も水も無い状況で耐えるしかない人達。

数分の差で避難できた人達。

火事で焼け出された人達。

 

直接そこに居ない私達に出来ることは少ない。

しかし、何かできることは無いかと考える。

何かできるはずだと地団駄を踏む。

狂おしく悲しむ。

そういう人を「悶え神(もだえかみ)」と言います。

 

石牟礼道子さんと言う作家が言っておられた。

想像力が豊かで共感に優れた人のこと。

 

悶え神。

 

そう言うそうです。

でもその神は、我々の心の中にも必ずいます。

ただただ悲しくオロオロするしかない自分を嘆きながら、心の中で悶える神。

そういう神を持っています。

戦争も災害も人の命に係わる同じ大事です。

安易に考えてはいけません。

まずは、自分に出来る範囲で行動しましょう。

 

それなのにバカな奴らのデマ情報や詐欺。

なさけない。

それも人間の性と言うのでしょうか。

 

年の初めに考えさせられました。

ではまた。

 

 

若いころに失敗をたくさんしろって言うでしょ。

でも、失敗の責任から逃げるようでは話にならない。

失敗の修復や反省に成長の種があるのだから。

 

こんにちはBJです。

さてさて、今回も私が引っ掛かっている「多くのものであること」についての考察です。

はい、面倒な話にお付き合いいただきありがとうございます。

前回、ハンナさん言うところの

 

「我々人間も有機生命体の一種であるかぎりにおいて、認識の対象にすることが出来る。」

 

ここんところをハラリさんが強力に補足してくれます。

と言うか、補足を飛び越えて回答にまでもっていってくれます。

ではハラリさんの「ホモ・デウス」記述をさっそく出します。

あまりに簡潔で簡素で恐ろしい。

 

第8章 研究室の時限爆弾「どの自己が私なのか?」より

『自由主義が理に適うものであるためには、私には一つ、ただ一つの真の自己がなくてはならない。』

 

*ここで言う自由主義とは、「個人主義と人権と自由市場のパッケージ」とハラリさんは定義しています。

まぁ、日本で普通に暮らしている私達と解釈してよろしいかと。

「ただ一つの真の自己」とは、近代哲学が基本としていた考えですね。

私も信じておりました。

 

『なぜなら、もし複数の本物の声があったなら、投票所やスーパーマーケットや結婚市場でどの声に耳を傾ければいいか、わからないではないか。』

 

*わかりやすい例えです。

結婚市場が出てくるところが今日的。

「複数の本物の声」と言うところが大事です。

 

『ところが生命科学は過去数十年のうちに、この自由主義の物語がただの神話でしかないと言う結論に達した。』

 

*おいおい、いきなりなんだ。

って、思いました。

思ってください。

なんかそうらしいです。

検証の実例は、このあと沢山出てきますが、そこは本を買って読んでください。

そんな簡単には教えませんよ。

 

『単一の本物の自己が実在するというのには、不滅の魂やサンタクロースや復活祭のウサギが実在するというのと同じ程度の信憑性でしかない。』

 

*ねっ!

ここらあたりから大変な話でしょ。

復活祭のウサギ?

まぁいいや

 

『もし私が自分の中を本当に深くまで眺めたら、当たり前だと思っていた統一性は見かけ倒しであることがわかり、相容れないさまざまな声が混ざり合った耳障りな雑音と化す。そのうちのどれ一つとして「私の真の自己」ではない。』

 

*生命科学(脳科学)では、そう言う検証が出てきているという身も蓋もない話。

無いのだそうです「統一された自己」なんぞ。

あっさり言ってくれますよね。

自分探しなんぞ「たわけた茶番」というわけ。

 

『人間は分割不能な個人ではない。さまざまなものが集まった、分割可能な存在なのだ。』

 

*この堂々たる宣言。

なんか「多くのものであること」に似ていませんか。

と言うよりそのものかな。

どうしましょう。

これで検証を終了していいのでしょうか。

 

でもね。

現代の脳科学の話なんてプラトンさん知りませんしね。

なんで「国家」に単一の個体である人間が精神的に「多くのもの」を有すると言う記述が存在するのでしょうか。

なんか預言者めいていますけど「国家」を読み返せばわかります。

じゃあ、なんでわかっていながら検証してんの。

って、思いました。

思ってください。

一つの説で理解し納得できたと思うのは危険です。

傍証も必要ですから。

 

でもね。

白状しますと、私はハンナの「人類に共通の真理などない。」と言う近代哲学に対するアンチテーゼが大好きなんです。

なので今回の話に強引にでも結び付けて登場させたかった。

反省。

 

ハラリさんの「本当の自分などない」宣言も大好きです。

こちらは、そのまま使えています。

おほほ、良かった。

 

二人とも好きだから書たのですが、自分の意見に合った文章を探してきているだけかもしれません。

*見たいものを見ているだけかもです。

そこんところは御注意を。

次回は、もう一度「国家」に戻って検証します。

 

ではまた。

ハンナに倣って自問自答をしておりますが、たまに・・・

本当に、たまになんですが「誰かと話したい」と思います。

だけど、プラトンとかハンナとかハラリとかの話?

で、あきらめています。

 

 

「お蔭様で」と言うのは、神仏に感謝している言葉。

なるほど、私知りませんでした。

誰か特定の人に感謝している訳ではないんだ。

 

こんにちはBJです。

今回は反省をメーンにお届けします。

まず、ふりかえって話の筋を追ってみましょう。

 

始めの疑問は「国家とは何か」だったのです。

人が「国家」という概念を持つことで生物最強までになった。

では何故「国家」と言う概念が必要なのか。

 

それを探るうえで、まず万人が思う「理想の国家」を定義したい。

で、プラトンさんの「国家」を買って読んでいる次第。

 

ところが現実社会で戦争や紛争が次々に勃発し「正義同士の殺し合い」が世間を騒がせております。

たまたま、プラトンの「国家」には「正義について」と言う副題がついており、あぁこりゃいいや、ついでに「正義」も教えてもらおうかと言う安直な考えが浮かんだわけです。

馬鹿ですね。

 

自分で「正義は定義できない。」と言っておきながら。

プラトンさんの思考を簡単に理解できるなんて思っちゃって。

そんなに簡単なわけないじゃない。

知ってました?

ホワイトヘッドは、「過程と実在」において

 

「ヨーロッパの哲学的伝統はプラトンへの一連の脚注から成り立っている。」

 

と述べています。

つまりは、プラトンさんの思考がすべて包括してしまっており、ヨーロッパ近代哲学はプラトンさんの哲学を噛み砕いて教えているだけだってこと。

凄く大雑把ですけど、そういう意味です。

なんか、だいそれたことをやってしまった。

 

でね。

プラトンさんの言う「正義」の定義解明はまだまだ先になりますけど。

すみません。

ちょっと気が付いた点を書いておこうと思います。

私が引っ掛かって動けなくなっている場所。

一人の人間であるのに・・

 

『多くのものであること』

 

でしたでしょ。

ここで止まってしまっているのですが・・・

例えば、ハンナアレントさん「人間の条件」第一章。

 

『我々は自分を取り巻くあらゆる物が何であるかを知っている。

それらの性質を調べて、その本質について定義することができる。』

 

*あらゆるものを知っているのかは疑問ですけど。

まぁ、そこそこ知っているのでしょうね。

それに定義付けは、みんな好きですし。

 

『だが、自分以外の物に適用できるその方法を自分自身に適用することは、自分の影を飛び越えるようなもので、とうていできることではない。

そもそも人間が他の事物と同じような意味で本質や実質をもっていると決めつける資格は我々にはない。』

 

*ここなんですけど。

単一の「本当の自分」と言う本質を疑問視する考え。

ここらあたり、ハンナさん近代哲学にケンカをうっているところなんですが、本質の核が無くゆれうごいている自我とも考えられます。

沢山ある自我がふにゃふにゃしている感じ。

 

『もちろん、高度に発達したとはいえ、我々人間も有機生命体の一種であるかぎりにおいて、認識の対象にすることが出来る。

だが、我々はいったい「何者」なのか、という問いに、我々の認識能力は答えることができないのである。』

 

*近代哲学に無茶苦茶ケンカをうっておりますが、それはそれ。

「汝自身を知れ」をあっさり不可能であると断言しております。

これって統一された自我ではなく複数形の自我ともとれるでしょ。

だって、もし自我が無ければ私は何なのかと言う存在の問題になります。

複数の自我が寄り集まって、その時々の状況で都合のいい奴が顔を出す。

そんな感じに受け取りました。

「多くのもの」って話となんとなく似ていませんか。

 

ただね。

ハンナの言う「資格が無い」とか「認識できない」って事は「統一された自我があるかもしれない。」でしょ。

この辺でまた引っかかるのですよ。

悩ましい。

 

あぁ、言うまでも無いのですが、今回の話の類似性は私の妄想かも知れません。

そこんところは御注意を。

次回は、もう一人のお助け人、ハラリさんを予定しています。

ではまた。

 

月の半分を断酒期間にして3年ほどです。

今の飲酒期間は、どうしてもお酒が必要な時を狙い撃ちです。

何時って。

大相撲の期間中ですよ。