余震が納まってくれない中で、突然思いついた。

AIは、「正しい問い」を見つけられるか?

 

こんにちはBJです。

で、あらためて「隠居」。

私、爺道を究めた「隠居」になりたいのです。

はい、隠居。

しかし、残念なことに目指す隠居のロールモデルがいない。

つまり暗中模索なのです。(それが楽しい。)

では、私の思う「隠居」の定義から。

 

定義1:目立たないこと。

 

なんにしろ一歩も二歩も下がって目立たないこと。

議論なんか無し、怒りもしない、ゲラゲラ笑わない。

散歩と庭いじり。

挨拶は返すけど積極的に話さない。

いるかいないか分からないけど生きてるらしい。

 

住んでいる場所は、住宅街とかマンションとかアパート。

つまり人が近隣にゴチャゴチャいるところ。

人がいない場所での隠居はダメです。

生活は「孤立」であってはいけません。

 

定義2:市井に隠れる。

 

これが大事。

そして、そこで孤独を知る人間が「隠居」。

孤独を深くまで知ることが「隠居」には不可欠です。

また面倒なことを、って思いました。

思ってください。

そうなんです「隠居」には深い思想が必要です。

ただの厭世観や虚栄では、いけないのです。

核になる表に出さない思想。

つまり

 

定義3:透徹した人生哲学。

 

これは必須でしょう。

まぁ、これがあるから「隠居」になりたいのですけどね。

今のところ「本来無一物」あたりかな。

で、多少の事には動じない。

*地震は別です、本能的に怖いので。

 

西洋哲学は、どうしてもプラトンさんへの追従から拡大に見えてしまいます。

翻って東洋哲学は、自然への回帰かな?

で、孤独を深く知るとは東洋哲学的に考えると言う事です。

日本人ですから。

さて、前に「孤独」なんてインテリの戯言と書きました。

何故かと言うと、「孤独」はポーズになりがちだからです。

はい、美的なポーズ。

「孤独を抱えた私。」

って、言う「ポーズ」が好きな人が多いのですよ。

でね、孤独ってのは、自分と他者・他物との間に生まれるもの。

この「間」の断絶状態だと思います。

つまり、拡大すれば・・・

 

孤独とは、私一人対全世界の対峙(たいじ)。

 

って、ぐらいの深みがあると思います。

美的ポーズに陥らず、孤独と言う言葉に秘められた甘美な味に惑わされず。

普通に暮らしながら孤独を深めていく。

最終的には、「我一人生きて有る」ぐらいまで行きたいな。

「本来無一物」も私と他者・他物との間の関係ですしね。

と言う条件を充たし、私は「隠居」になりたいのです。

ではまた。

 

水道水はキレイになりました。

復興は進みます。

が、被災者のやむにやまれぬ「悔い」を癒すのはこれからです。

 

 

「隠居」についての考察をしようと張り切っていました。

半分ほど書いたのですが邪魔が入りました。

はい、グラグラです。

 

こんにちはBJです。

熊本に地震が来ました。

10年ぶりの震度7。

10年前は、東側地区がドカンとやられました。

今回は、南側地区がドカンの震源地です。

はい、私は北側地区でして震度5強ぐらいでした。

ここ3~4年は比較的おだやかに暮らしていましたけど。

まさかの再地震。

 

本当にビックリです。

やはり「縦揺れ」は怖いですよ。

立っていられませんもんね。

結果的に座ったり這いつくばったりしてやり過ごすだけ。

ただ、ただ、地震が納まるのを待つだけ。

本能的な怖さです。

でね。

一番、怖いと思うのは、睡眠中の地震です。

はい、余震がやたらに起きてまして。

日中は、まだ周りの状況が見えるからいいのです。

夜は、暗いでしょ、見えませんもん。

ただね。

睡眠中の地震の場合、いきなり脳が100%で目覚めるのは何故でしょう。

寝ぼけるなんてないですよ。

ドカンと100%フル回転の脳で目覚めます。

 

やはり、本能なのでしょう。

 

地震当初、かなりデカイ地震であるのは分かっていました。

10年前の震度7は別にして小さな地震は多いのです。

阿蘇とか普賢岳とか活火山が周辺にありますし。

活断層は、東から南に多く走っています。

地震慣れ、とは言いませんがよく揺れます。

 

とは言え、立っていられない地震は最近では今回が初めて。

そのうえ、イオンモール熊本の爆発。

昔、八代のランドマークだった日本製紙の煙突崩落。

人の営みのもろさを痛烈に感じます。

 

被災地近郊の我々は、連絡を取り合うのが急務です。

連絡の方法を決めておくことが重要。

LINEのグループ化なんか便利ですね。

無事を確認することが第一です。

次に大事なのは、自分の周囲を見直すこと。

再度、大きな地震が来ないとは限らない。

だって、地震予想はあてに出来ないことを知っていますから。

 

自分の身は自分で守る。

 

鉄則です。

しかし、夜中の地震は何とかならないものか。

水道水も濁っているし。

電気があるだけまだましか。

スーパーマーケットやコンビニからレンチンご飯やパンが消えて。

カップ麺や水もすぐに売り切れ。

被災地域からの買い出し部隊が根こそぎ買っていきます。

 

周辺地域の我々は、ほとんどいつもと変わりません。

まとめ買いをしないことで、多少なりとも被災地域に気を使っています。

もし、また巨大地震が来たら?

他県に逃げます。

それを最終手段として生活しています。

ではまた。

 

自分の出来ることを選んで実行する。

無理をしてはいけません。

無理は体や生活を壊すもとです。

 

 

暑い暑い暑い。

暑い日は、雨の日と同じに運動を控えよう。

そうしよう。

 

こんにちはBJです。

人を好きになると知らないうちに「哲学的」になっていきます。

いや本当。

だって、振られたらもう死にたくなって海辺をさまようでしょ。

*海岸線は私の趣味です。

ねえ、この時貴方の頭の中は「生きるか死ぬか」だったでしょ。

若気の至りではありません。

根本的な問いです。

愛する人に拒絶された。

残りの人生をどうしよう、つまり「生きるか死ぬか」が懸けられた問いです。

 

でも、だいたい立ち直りますね。

そして次の人・・・

 

では、惚れ込んでしまった人に対してはどうでしょう。

えっ、愛した人とどう違うんだって。

次の人なんかいないって事です。

例えば、その人の考え方、知識、生き様に憧れてしまった。

いわゆる、その人の人生哲学に惚れ込む。

そんな感じ。

 

私は御存知の通り、徂徠さんの「弁名」を読んでいます。

はい、簡単には読みつくせないのは承知の上です。

理解が及ばないことなど山ほどあります。

が!

なんともド素人の私でも気が付くのは伊藤仁斎さん引用の多さです。

よく出てきます。

はい、何度も何度も。

仁斎さんが起こした「古義学」等からの引用。

否定もあれば肯定もあります。

で、古義学ではなく「仁斎先生」って名前で書いてあります。

 

仁斎先生はこう言っている。しかし・・・

 

そんな感じです。

どう思います?

まるで日ノ本で私と同等の儒家は仁斎さんだけだ。

って、宣言しているようなものです。

無論、孟子や荀子、老子や朱子なんかも出てきますけど。

日ノ本では仁斎先生が圧倒的に多く出てきます。

 

仁斎先生に惚れ込んでいた。

 

としか思えない。

徂徠さんと仁斎先生は面識がありません。

江戸と京都は遠いのです。

徂徠さんは手紙を送りましたが、仁斎さんが読んだかどうか不明。

返事はありません。

亡くなってしまったからです。

ですから書籍だけのつき合いなんですよね。

仁斎先生亡き後、長男が余計な事をします。

徂徠さんの手紙を本人の承諾なしに使用。

徂徠さん激怒!

徹底的に「古義学」を批判します。

 

皮肉なことに、この古義学批判により徂徠さんは名を売ります。

何という巡りあわせか。

もし会えていれば・・・

もし手紙のやり取りが続いていれば・・・

本居宣長さんと賀茂真淵さんみたいになっていたかも。

いやそれは単なる私の妄想ですけどね。

怪物と豪傑の静かな戦いを見てみたかったな。

 

でもね、徂徠さんの頭に住み着いた仁斎先生は消える事が無かったと思います。

いいなぁ、そんな関係。

プラトンとソクラテス。

ハンナアレントとアウグスティヌス。

私も欲しいけど惚れ込むほどの人っていなかったし。

自分との戦いに手いっぱいだったしなぁ。

残念です。

ではまた。

 

考え詰めるのに必要なのは、時間です。

一人で静かに待つ時間です。

やがて熟成された答えが降りてくるのでしょう。

 

 

フェイスタオルって言うのですか、今は。

10枚買ってきました。

変化は、徐々に表れるものです!

 

こんにちはBJです。

作用と反作用の3回目。

「幸福」です。

はい私、幸福の定義を探していました。

しつこいでしょ。

なんとか一人目を見つけましたよ。

ゲーテさんからの定義。

 

幸福とは人格である。

 

なんともソクラテス的に面倒なご提案であります。

で、考えました。

人格の形成とは?

環境、教育、資質、時代、宗教から、なんでもかんでも。

人格を形成する要素は限りなくあります。

そして、いずれにしろ人格を持ちます。

でしょ、でもこれが幸福?

どんなに暴力的で邪悪な人格であっても?

その人格を持つと言う事が本人にとっての幸福!

きっついなぁ・・・

人格と言う言葉の中にすでに作用反作用が同居しているような・・・

 

この人格が幸福であると言うのを支持しているのは「三木清」さん。

三木さんも最後に残る幸福は「人格」であると。

でもね、人格ってのは善悪を繰り返しているのでは。

だって、人格は死ぬまで変化し続けると思うからです。

変でしょうか?

だって人は死なないと人格も評価も確立できないではないですか。

変なこと言ってます?

「晩節を汚す」って言葉は、汚す人が多いから出来たんでしょ。

多くなきゃ、こんな言葉は生まれません。

言葉の成り立ちを侮ってはいけません。

 

三木さんは、強烈な性善説なのでしょうか。

えぇ、時の民衆から圧倒的な支持を受けながら獄死した哲学者が?

なんか違う気がする。

でも、優しいんだなこれが。

 

幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。

 

なんてね。

優しく言っておきながら・・

 

我々は我々の愛する者に対して、自分が幸福であることよりなお以上の善いことを為し得るであろうか。

 

なんてドッキっとするようなことが出てきたりするのです。

考え詰める仕事の哲学者ですから、まぁいいですけどね。

「自分の幸せの為なら」って反作用もあるしな。

って考える私もいるわけで。

 

じゃ、不幸とは「人格」が揺れ動いていること?

それだと「すべての人」が不幸では。

さて、どちらを支持なさるかは貴方次第。

まだ私の中では「幸福」はやぶの中。

困った、困った。

楽しく困った。

ではまた。

 

藪の中で思い出したけど。

千葉の「八幡の藪知らず」。

よく通りがかりました。

不思議な場所です。

 

 

「本来無一物」ってご存知でしょうか。

これが理解できていれば「孤独」なんてインテリの戯言なんですけど。

 

こんにちはBJです。

作用と反作用の2回目。

決断を迫られる「何か」が、事件であった場合です。

はい、殺人事件。

大丈夫、小説の中の話です。

そのうえ犯人は、捕まっております。

加害者の男は死刑が求刑され、その後執行となります。

強盗殺人と言う作用は、死刑と言う反作用で加害者に返ってきたわけです。

これって、なんかまともでOKじゃない。

と、思いましたでしょ。

私もそうです。

 

では、被害者遺族側の心情はどうでしょう。

 

事件は起こったのに「決断」と言う機会が無い。

 

なんじゃそら、って思いました。

思ってください。

姉夫婦を殺害された弟、はい肉親です。

弟の母親は心労から急逝します。

間接的な犠牲者が出てきたわけです。

復讐心は、当然「加害者の男」に向けられます。

で、加害者の死刑執行後にその遺族の弟が、今で言う法務大臣に抗議書を送ります。

何の抗議か?

 

わからないのです。

 

なに言ってんだと思いました。

でもね、わかっていることは、この極悪非道の殺人犯が獄中でキリスト教徒となり罪を悔いて懺悔を重ね、晴れ晴れとした気持ちで死刑にのぞんだと言う事です。

一般の人から見れば、「そうか真人間になって死んだか、よかったじゃないか」でしょうけど。

被害者の弟は苦悩します。

なぜ、殺人と言う最も重い罪で死刑になっているのに晴れ晴れと極刑にのぞむのか。

恐怖に震え叫び喚き、命を懇願して死ぬのが遺族の希望だったのに。

姉夫婦の恨み恐怖そして絶望を万分の一でも加害者に与えないのか。

 

私は、抗議する。

 

でもね、「誰」に対しての「なんの」抗議なのか・・・

わからないままです。

殺人事件と認定されたとたん、この弟は「見守る人」になります。

捜査、逮捕は警察が行います。

制裁は、裁判所が行います。

弟の復讐心は、取り残されたまま埋もれ火のようにくすぶり続けます。

遺族の直接的な行動は「0」なんです。

大義名分は、国の制度側にあり「秩序の維持」が優先されます。

 

はい、罪を憎んで人を憎まず。

 

そんなことができるのか?

罪と罪を犯した人間は不可分では無いのか?

遺族と言う立場であっても「決断」の起点を奪われたままです。

作用反作用を起こしてはならない。

社会秩序と言う大義に個人は逆らえない。

では、個人の復讐心は、恨みは何処へ向かえばいいのか。

 

わからない。

 

わからないままの抗議書です。

これは、菊池寛が大正時代に発表した「ある抗議書」という小説です。

とても短い小説ですので興味があれば読んでください。

こんな小説も書いていたんですね。

ではまた。

 

行き場を失った恨みは、どうなるのでしょうか。

別の何かに向けられるのでしょうか。

それは悲劇の始まりのような・・・

 

 

「ババヤガの夜」は、面白かった。

最近読んだ中では、一番。

 

こんにちはBJです。

面白いテーマを見付けました。

 

作用と反作用。

 

面白すぎてうまく書けるか心配ですが・・・

これね、物理法則だけではなく私達の生活にも出てきますでしょ。

いや、出てきますって。

学ぶことで無知を知る。

働くことで時間が無くなる。

好きになることで憎しみを覚える。

薬の効能と副作用。

権利は、義務を伴う。

そう言う感じ。

何かをすれば、正の部分と同じように負の部分が生まれる。

 

行動には、責任が伴う。

 

って、当たり前の事だと思いました?

思ってください。

では、責任とはどう「とる」のでしょうか?

そこが問題。

例えば、今の貴方の状況は誰が作ったか?

時代、環境、両親?

じゃぁ、貴方がその時々で選択してきたこと事は関係ない?

・・・選択した事柄の積み重ねが「今の状況」では。

全部がそうだとは言いませんけど。

 

今の選択は、自分の未来への約束です。

 

何をあたりまえな事を、って思いました。

選択し決断したことは、作用と反作用を生むでしょ。

良い事もあるし悪い事もある。

どちらにしろ貴方が選択したのです。

 

なんでこんなことになったのか。

 

それは、貴方が選んだ結果でしょ。

はい、責任を取るとは、自分の人生をかけた博打(選択)の結果を受け入れると言う事です。

大変ですよね。

だって選択は毎日数限りなくやってきます。

それこそ無数の選択をしながら生きている訳で。

その結果としての、今の自分と言う状況。

 

こんな凄い博打ってあるでしょうか?

私がギャンブルをしないのは、それに気づいたからです。

自分の人生をかけたギャンブルを数限りなくやる。

他の博打など軽すぎてやる気がしない。

おほほ。

 

話を戻しましょう。

私達の人生における選択に「作用、反作用」があるとすれば。

その基準となる「定常状態」ってなんでしょうか。

つまり選択をする前の状態。

これは、選択を必要とする「何か」が起こっていない状態ですよね。

何かが起こる、そして選択。

何をグダグダ同じ事を言ってんだ。

って、思ってください。

次回、不穏な事を書こうと思っています。

ではまた。

 

「ババヤガの夜」には、だまされました。

いやはや、筋肉だらけの暴力小説と思っていたのに。

ひさびさに楽しかった。

 

 

小さなことを決めて、達成できると喜んでいます。

これぞ真の自画自賛。

 

こんにちはBJです。

さて、「数車無車」の続きです。

前回は、意見の「ゆれ」を書きましたけど。

同じように思想もゆれるでしょ。

年齢を重ねるにつれ知識が増えていく。

経験も積み重なる。

それに基づいて物の考え方も変化していく。

徐々に深く。

悩んだ跡(あと)は、だんだん顔に出てきます。

 

カッコイイ大人ってそう言うもんでしょ。

 

車を数えていたら、車自体の姿が変貌していた。

なんてね。

いいと思いませんか。

 

例えば「自分探し。」

これが自分の「本質なんだ」って思ったとします。

何故かと問われれば、いろんな理由を出しますでしょ。

車を数えるわけです。

その理由を突き詰めて問うと、だんだんあやふやになる。

うまくいかない。

じゃぁ、自分探しは終わってないのでは・・・

無駄じゃない、とは思うけど。

 

自分とは何だ!

 

ってのは、哲学の「第一級課題」なんですよ。

これが解けたら哲学界のスーパースターです。

ソクラテスさんも平伏です。

うふふ。

この場合、数えるのは自分の精神、肉体、思想、癖なんかのありとあらゆるもの。

どんどん数えてください。

自分の心の「強弱、勇怯、愛情、憎悪」それだけでも大変。

なんなら自分を含め、すべてを一度捨てますか。

はい、デカルトさんのように。

徹底出来ますか?

全てを疑うために「仮の自分」まで考える。

そんなところまで行くのでしょうか?

行ってください、本気ならば!

 

自分を求める旅の途中で「ゆれる」貴方が成長の証では。

 

と、思っております。

さて、統計の話が変な所まで来ました。

「車を数えて車無し。」

いろんなことを考えさせてくれます。

最後に、「車ってなんなんだ。」ってところに戻りましょうか。

車って、その「完成された型を示す名前」です。

多くの部品から車を連想しろと言っても無理でしょう。

貴方は、タイヤから車の全体像を想像できますか?

そんな感じ。

 

なんとなく「道」に似ていると思いませんか。

各々、正義とか常識とか良心とかの部品からは想像できない。

だけど、日常で当たり前のように使用されている。

「道にはずれている。」とか「道理」とか「道徳」とか。

徂徠さんは「道」を統名と看破しました。

全てを含んで流れる「概念の名」であると。

 

いいですね、「車を数えて車無し。」

いろんな事象に応用できそうです。

ではまた。

 

究極の自画自賛ってなんだろう。

根拠のない自信をもつこと?

ひょっとすると・・・いやいやそれは無い。

でも・・・

 

 

梅雨は、雨が降ってあたりまえ。

それこそ雨を楽しみましょう。

 

こんにちはBJです。

今回のテーマ。

なに言ってんの、って言葉でしょ。

「数車無車」。

これは、老子さんの言葉なんですよ、意味が分かんないでしょ。

私もそうでした。

では、説明を・・・

 

車を分解すると部品になります。

これが、車を数えると言う事。

部品には各々名前が付いていて、その部品も分解できてまた名前がついていて。

どんどん小さくなるけど元の車は原形をとどめていない。

あれ、車って何処に行ったのかしら・・・

だから「車無し」なんです。

沢山の名前の付いた部品が集まって「車」と言う名前になる。

思えば面白い事でしょ。

 

じゃ、車ってなんなの?

 

なんて思いませんか?

思ってください。

これは、格言として用いられます。

例えば、細部にこだわると全体を見逃す。

例えば、多くの言葉で構成されている一つの「共通概念」がある。

かもしれない。

ですけど、例えば「人間」って言葉はどうでしょう。

車に変えて人間。

 

人を数えて人は無し。

 

よくやってますよね。

統計です。

個性の無いのっぺらぼうの人達が「数」で表されます。

年齢や支持政党や右や左に分類される。

私達の事ですけど「他人事」として見るでしょ。

その統計の正当性とか内容の吟味とかしませんでしょ。

何となく信じちゃう。

 

いや、この数値には正当性がある、なぜなら・・・

 

って、作った人達は沢山の旗を立てて見せる。

年代別、性別、地域別。

でも一人一人からじっくりと話を聞くわけじゃない。

相手も忙しいし、こっちも忙しい。

「はい」か「いいえ」で答えるアンケート方式が採用される。

ネットでのアンケートも意見を書く欄があるけどめったに書かない。

なぜなら面倒だから。

「はい」か「いいえ」なら、どちらかと言えば「いいえ」だけど・・・

条件によっては「はい」かも。

何て言う微妙な「ゆれ」は考慮されません。

 

実は、「微妙なゆれ」こそが大事だと思っています。

それが、本来の自分の意見だと。

他人と同じ「はい」であっても中身は違うでしょ。

アンケート結果として棒グラフや折れ線グラフになって。

そこには個人のゆれは入っておりません。

 

ゆれなんかに、引っ掛かっている暇はないんだ!

 

なのでしょうね。

統計を取る人達は、人って数でしかありませんから。

この話、面白そうなので次回に続きます。

ではまた。

 

この話、何処に行くのかわかりません。

分からないまま続けようと思います。

 

 

財布にお金が入っている。

それだけで「なんか幸せ」な私です。

 

こんにちはBJです。

今回は、教育です。

何を爺の分際で・・・と思ってください。

別に今の教育方針に異議があるわけでもありません。

私が、考えたことをまとめたいだけ。

では、お付き合いください。

 

教育とは「情緒」を育てることである。

 

と、岡潔先生は力説されています。

「情緒」とは、「思いやり」の事と思ってください。

他人への「思いやり」を教えることが教育の中心であると。

簡単だと思いました?

いえいえ、かなり難しい事になるのですよ。

だってね、他人への思いやりって想像力のことでしょ。

他人の心中を推しはかる「想像力」。

簡単ではありません。

 

小学校の低学年までは、自分の経験から推し量るしかないでしょ。

ケガの痛みも悔しさも悲しさも。

自分の経験が基になっていると思います。

この時期に「思いやり」の萌芽が始まるのですよ。

 

自分が嫌な事は、相手も嫌である。

 

なんとも簡単な教えなんですが、

これは大事な心得です。

なにを当たり前の事を、と思った貴方。

 

いわゆる「恕」である。

 

なんて言うと、のけぞりませんか?

「恕」は、論語の教えの核となるものです。

つまり小学校低学年の時に丸暗記させた方がいい言葉だと思います。

「自分が嫌な事を他人にするな。」

簡単ですから覚えるでしょ。

耳にタコができるほど言って聞かせる。

それだけです。

 

AIに例えるなら。

国語、算数、理化、社会なんていわば「データ」です。

このデータを集める、そして独自のデータベースを作る作業が勉強。

「学んで知る。」です。

どんなに精緻な演算処理をしようと思ってもデータベースが貧弱だと用をなしません。

データが1個しかなければ比較検討なんて出来ませんし、データが0個なら何もできませんから大切でしょ。

 

学んで知る教育に不足するのは「情緒」です。

情緒は、自分で考えなければならない。

データでは無いのです。

だから、考えるきっかけを教えましょう。

「自分が嫌な事を他人にするな。」

答えは、各々違うでしょうが考えるでしょ。

それが大事。

 

思って得る。

 

を簡単に実践できます。

教育の最終目的は「自分で考えて答えを出す。」ことを、あれこれ教えること。

自分で考えることが習慣となれば「うまい質問を考える。」ことも出来るようになると思っております。

私の中で、かなり繋がって考えられるようになった「教育」です。

皆さんも考えて見てはいかがでしょうか。

よけいなお世話だ、って思いました。

思ってください。

ではまた。

 

私の幸せは、一万円程度みたいですよ。

そんなものかな。

 

 

今回は、めったにやらない新聞記事からの引用。

フランスの市民会議が、あまりにも素敵だったので。

 

こんにちはBJです。

こんな、素敵な市民会議を実施する国があるんだと感心してます。

三銃士の国、フランス。

新聞の記事によると2022年12月に初会合を行ったとのこと。

 

「人生の終末に関する市民会議」(184人)

 

テーマも難解ですけど、まずは参加者の選出の方法から出色です。

どうやって選ぶのか・・・

なんと無作為抽出の電話で、参加を希望した人による構成。

 

「くじ引き議員」

 

無作為と言っても、性別、年齢、居住地などの六つの指標が整備されており、なんとフランス全体の比率と等しくなるように選ばれているそうです。

いわば、フランスの縮図ですね。

しかも議題は「人生の終末」なんですよ。

具体的に言えば「安楽死」と「自殺ほう助」の是非なんです。

 

またまた、ド素人を集めて市民会議をやりましたと言う政府の宣伝でしょ。

なんて、私だってそう思います。

インプットだけを宣伝してアウトプットはウヤムヤ。

良くある話・・・・

では、ないんですね。

 

『この国(フランス)では、何十年も安楽死問題を議論したが、結論は出ていない。』

何故なら

『政治家や専門家だけに議論を委ねたからだ。』

だから

『市民会議の集合知に託した。』

 

何と明解な「お言葉」。

この市民会議を主宰する政府側の開催理由です。

そんなに権威があんの?

って、なにしろフランスの経済・社会・環境評議会が主催する公共機関なんです。

会議が下した結論は、政府・国会に送られてその内容を基に法制化される。

凄い、影響力。

 

で、ド素人の集まりですから

議題に対しての勉強会が開催されます。

「安楽死、自殺ほう助」の是非ですから、それはもう医療関係、宗教、哲学、法曹関係者等々、約100名が召喚され質疑が行われました。

週末の3日間を使い9週間に渡って・・・・

結果は

 

自殺ほう助や安楽死に賛成が「76%」。

 

法案化されて議会で審議中です。

何が凄いってアウトプットがはっきりしていて結果が見えるって事です。

この市民会議以降に政治に関心を持った議員もいたみたいです。

 

結局、自分事として政治をとらえるのは、実際に政治の場に参加することが最善のようです。

 

いろんな意味で、なんとも素敵な市民会議でした!!!

さて、ここまで書いてきて。

じゃオマエは、安楽死や自殺ほう助に関して賛成なのか、なんて思いました。

思ってください。

私は、森鷗外の「高瀬舟」を読んだ時から

賛成です。

 

ではまた。

 

民主主義は、衆愚政治に陥る危険を常にはらんでいます。

でも、このフランスの市民会議は、民主主義の原点である「参加」を通して政治への関心が大切であると教えてくれてます。

まずは「参加」する事が民主主義の基盤ですね。