多重人格者が出来るまで -4ページ目

多重人格者が出来るまで

解離性同一性障害の記録を残すブログです。


そう言われました。

涙が止まらなかった。

『どうして?』

それしか浮かばなくて。


夢にまで見た幸せな家庭を持つことが絶望的という現実に、ただただ涙を流すことしか出来なかった。





“今まで子供を産むために治療に来た人はいない”

“皆苦しくて自分のためだけに来てるんだよ”

“治療する理由が軽い”




と。




“DIDになる子供を産むか、子供を諦めるかしかない”




ねぇ、私が普通の幸せを望んだことがいけなかったの?



普通に・・・。


ただ普通に憧れて、でもその普通は私にとって叶えようと望むべきことじゃなかったのかも知れない。


旦那様を巻き込んで、旦那様の家族を巻き込んで、自分の親さえも巻き込んで。

与えるのは絶望だけ。


だったら何で夢をみさせるような出会いを与えたんですか?


何でこんな残酷な事するの?


私ひとり傷付くなら痛くなんてなかった。


旦那様も旦那様の家族も優しくて理解あるから、辛い。


『こんな出来損ないの嫁なら要らない。』

そう言うような人であれば良かった。



それなら傷付くのは私だけで済んだのに。




ねぇ、どうして・・・?


・学年の違う先生が結核になり、

 全校生徒検査したら何故か関わりのない私が感染してた。

 おかげで半年間検査&薬飲み続けなくちゃいけないことに。


・生き甲斐だった部活を引退した頃、

 何を思ったか父に今までの事を話したんだよ。


話したらさ、私突然おかしくなったんだ。


なんていうか…精神崩壊に近い状態?


何の不満もなかったのに不登校になってさ。

無気力で何もしたくなくて。


仲良かった友人二人が支えてくれたり、

副担任も気にかけてくれたけど無意味だった。申し訳ないと思ってる。




だけど唯一救われる事があった。

実はこの頃に知り合った人と付き合い始めたんだ。

年上でオシャレですごくカッコ良かった。


秋の夜祭りとか、リア充な事沢山して。


この頃にはパニック障害とかあったから電車乗るの辛かったけど、

会いたくて頑張って通ってた。


だからこそクリスマスはすごく楽しみでさ。


用意したプレゼントを胸に抱えて、

彼が仕事終わって迎えに来てくれるのを楽しみに駅前で待ってたんだ。






…でも彼は永遠に来る事はなかった。




彼は駅に向かってる途中、交通事故で亡くなったんだ。


※面識のあった彼の同僚兼友人が連絡をくれたし、ちゃんと彼にも対面した。

 夢見てるのかと思ったよ。夢であれば良いのにって思った。




・この頃から記憶が殆どない。


・同時期に父の会社の社長が自殺→父独立する。


・学校は部活の功績があったから卒業はさせてくれたんだけど、

 気付いたら卒業式終わってたんだよね。


自分の卒業アルバム見ても何も思い出せないんだよ。


思い出せるのは精神的におかしくなった時以降、

クラスの仲良かった子から鬱陶しがられていた事と、

支えてくれていた友人二人が毎日保健室に送り迎えしてくれる事だけ。


笑えるだろ?

自分が出てる筈の卒業式さえ何も思い出せないんだ。


誰が卒業式に出たんだよって話。本当笑える…。笑えるよ。




・高校卒業した後は専門学校に入ったけど、それも少し通ったくらいだったと思う。

(少し記憶ある)


・夏頃、気付いたら都内のMっていう閉鎖病棟に入院してた。


鍵かかってる分厚い二重扉でさ。

許可ないと散歩にも行けないの。


ハンガーは患者が首吊り自殺するから持ち込み不可で、

勿論カミソリとかもお風呂入る時以外は禁止だったよ。


勿論窓には鉄格子。周りの患者は同類。

皆何かしら抱えていて。


その中でB姉ちゃんみたいな年上の女性(E)と仲良くなった。

E姉と仲良くなったら次第に他の奴らとも仲良くなった。


皆本当に精神病なのか?

って疑いたくなるほど毎日平穏に生活してたよ。


時間ずらして散歩に出て、外で落ち合ってファミレス行ったり。

近くの公園に行ったりして。

だから退院した後も連絡取り合ってた。


・ひとつ、よく判らない事があった。

入院してた私に年上の彼氏(F)が出来ていたこと。


断片的に覚えてる記憶を話す。


まずFは口癖のように「生きろ」とか

「お前は幸せにならなきゃダメだ」って言ってた事。


全てがどうでも良かった私はそのまま付き合ってたんだけど、

その人やたら純粋でさ。


よく無気力の私を車で連れ出してくれてた。


最初は何で付き合ってるのかよく判らなかったけど、

嫌じゃなかったよ。廃人の私と何故か結婚も考えてくれていたし…。


あと、その人は元ボクサーでプロデビューしてたんだ。

だけど、プロデビューしてすぐに脳腫瘍が判明して引退した。

引退後は普通のサラリーマン。


部屋に遊びに行く度、

プロデビューした時のビデオを何度も観せて


「この時の賞金は取ってある。

 将来結婚する時に結婚指輪買うんだ。お前にそれ渡すから。」


って言うの。


私は、はいはいって言いながら馬鹿だなって苦笑してた。

もちろんそれは良い意味で照れ隠しで言ってたんだぞ。


・どうやらその人は私の過去を知ってるらしかったけど、

 その人とのセクロスが嫌で別れた。生々しくてごめん。


意外にもあっさり別れてくれたことが不思議だったけど気にしてなかった。


・その後、自分がどんな風に生活してたか覚えてないけど、

 数ヶ月して突然その人から電話があった事は覚えてる。


「元気か?」って聞くから「元気だよ。」って言うと

「そうか、良かった。」って言って電話切った。


意味が判らなかった。


・また数ヶ月経った頃、虫の知らせっていうのかな?

 何か気になって一度電話したんだ。


彼は出なかった。

代わりに出たのは面識のある彼のお母さんだった。


意味が判らなくて彼の事を尋ねたら


「Fは亡くなりました。

 最後までずっとあなたを心配していました。








 …だからどうかあなたは幸せになってください。」






…未練があった訳じゃない。


私が望んで別れたんだ。


それでも何で別れ話を切り出した時、

何であんなにあっさり別れてくれたのか、

何で突然電話くれたのか理解したよ。


悔しかった。

自分が許せなかった。


その時、頭にあったのは男泣きしながら私に

「お前は幸せにならなきゃダメだ」って言ってくれたFの顔。


泣いた。ただ泣く事しか出来ない自分が嫌だった。


何で皆死んでいくんだろう?って思ったよ。

私が疫病神なんじゃないかって思った。


だからこれがきっかけで自分と付き合うと

相手は死ぬものなんだとトラウマになる。




・その後の数年間の記憶は断片的。


・私は家出したらしく、

 何かの急病にかかって救急車で運ばれ処置室で女医に

「もう、あなた死にます。」って言われたのを覚えてる。


女医が去った後、誰も居ない処置室の簡易ベッドで


「実際死ぬ時って走馬灯とか駆け巡らないんだ。」


「呆気なく死ぬもんだなぁ。」


「誰にも看取られないで死ぬとか笑えるわ。」とか考えてた。


やたら時計の針の音が煩かった。


何か感染症だったみたいだけど転院して一ヶ月くらい入院したら退院出来た。




・走行中の車のドア開けて無理矢理降りる記憶。


・車の中で男性に首を絞められてる記憶。


本気で人を殺すつもりの目って完全に目が逝ってるよね。

その目が忘れられない。


・二階のベランダから逃走する記憶。

 私何やったんだ。本当意味が判らない。怖い。


・閉鎖病棟の仲間の自殺相次ぐ。

 E姉も亡くなった。何で私だけ置いてくんだって思ってた。


・薬の大量摂取とかリスカとかしまくってた。


薬は死にたかかったからだと思うけど、

リスカは自分の中で暴れる別人格を落ち着かせる為や、

精神的ストレスを発散するため。生きる為に切っていた。

気持ち悪いよね、ごめん。


・自宅に居た筈なのに気付いたら都内の駅構内で突っ立ってるとか、

 街中で呆然としてたりとか、田舎の駅に居たりとかよくあった。


・実家にいる時、

 親戚の叔母(父方)が心配して泊まり込みで来てくれた事があったらしい。

 私はそれを覚えていない。


その時、叔母とプリクラ撮っていたらしく叔母はそれを大切に取っててくれた。

数年前そのプリクラを叔母が見せてくれたけど思い出せなかった。


ねえ、叔母の隣にいる私は誰?




・感染症のあと実家に戻ったと思われるけど、

 気付いたらまた家出してた。私は実家に居たいのに笑えるよ…。


覚えてるのは私が住んでいたらしい都内のマンションで

体調不良すぎて?父を呼んだこと。


それから実家に戻り近所の婦人科で診てもらったら

自分達じゃ診れないからと総合病院を紹介される。

→総合病院でも同じ事を言われて医大に回された。


私が患ったのは卵巣腫瘍(両方に5cm大の腫瘍)だった。


「医大で即入院になるので準備して行ってください。」

と言われ、その通り即入院になる。


担当医に「即手術して卵巣摘出しよう。」と言われたが

思った以上に進行していて熱が40度を越えていた。手術不可能。


熱下がるまで安静にしていたら

医者がこのまま様子を見るとか言い始めて、

結果的に手術しないで腫瘍は奇跡的に自然消滅してくれました。


運が良いんだか悪いんだか…。

いや、運が良いんだよな。

摘出してたら旦那様の子供産めないんだもん。うん。




・昔からだけど私子供の泣き声聞くと発狂しそうになるんだ。


だからこの時入院したのは精神科の開放病棟だった…はず。

窓に鉄格子有りだったから少し自信ない。


ひたすら鉄格子の間から見える空を眺めていたよ。




・退院した頃だったか、その前だったか覚えてないけど親戚が自殺する。


・ネットで知り合ったヲタク仲間とリアルでも交流するようになって

 少しずつ自分を取り戻しつつあった。


でも精神障害者の三級から二級に悪化していた事が悔しかったのと、

自立したい思いもあって思い切って親元離れ地方で暮らし始める。

(近くだと甘えが出る為)


「健常者になりたい。」

「普通になりたい。」っていう気持ちが強かったんだと思う。


あと、よくないかも知れないが処方されていた薬断ちも出来た。


職場でリスカ跡を貶されたりしたけど、

基本的に良い人達ばかりだったので自信がつく→地元に戻る。


・実家に戻る前から目星をつけていた求人に応募し採用される。

 と言っても派遣だけど。


・新しい職場も良い環境だった。

一番年下だったからか女性ばかりの職場だったけど皆に可愛がってもらえた。

皆でよく飲みに行ったりして楽しかったよ。


そんな生活を送っていたからこそ、

その頃にはもう自分の病気は治ったんだと思い込んでいた。




・その頃、ネットで旦那様と知り合う。

 旦那様はごく一般的な幸せな家庭で育った人。

(家族の仲が良くて、両親健在、DQNが居ない家庭っていう意味。馬鹿にしてる訳じゃない。)


素敵な人だと思いながらもトラウマや、

自分の過去の事が引っかかって踏み出せずに居た。


・知り合って数ヶ月経った頃に食事をする。

 やっぱり素敵な人だった。

 この時はまだ昔の話をしてないと思う。


・その後告白されて付き合う事になったものの、

 過去を知れば冷めると思ったりしてどこか諦めていた。


…けど旦那様は違っていた。


私の過去も、記憶が曖昧で犯罪を犯している可能性がある事も

含めて全部受け止めてくれた。


以前、私は他人格の影響か記憶を全部失った事もあったし、

言葉を話す事が出来なくなったりした事もある。


※その頃は簡単な手話と筆談していた。

 これが原因で三級から二級になったのだと思われる。


「もし、また同じようになって忘れてしまっても傍に居るから」

と、

「俺は先に死なないから」と言ってくれた。


永遠に叶わないと思っていた

【明るい幸せな家庭を作る】

という夢をこの人となら叶えられると思えたよ。


私には勿体無さすぎる人だけど、

許されるならこの人の傍に居たいと思った。

初めて「この人だけは失いたくない。」と心から思った。


・同じ頃父が再婚する事になった。

 タイミング的に入れ替わる様な感じで旦那様と同棲を始めた。


・その頃からあるイメージがまとわりつくようになる。

 新宿のアルタ前のビルを通り過ぎるイメージ。

 それが何なのかいまだに判らない。

 ただ判るのは、それが私の見たものじゃないって事。


・またしても親戚の一人が自殺した。

 ひぐらしを想像してくれば何となく判ると思う。

 リアルでひぐらしみたいな事が起きると笑えない…。


・旦那様との結婚の話が進むにつれ、将来の事を考えるようになる。

 私も旦那様も子供好きだから子供の事もよく話題に出るし、考えた。


そこで違和感。


「子供の泣き声聞くとなんで私発狂しそうになるの?」


・記憶がない事、上記の事。

 そして以前は【境界型人格障害】との診断されていた事。

 それら元に無意識に色々調べた。


→あれ、確かにボダっぽいけど違わない?


→自己検査みたいなのやったら、

解離性同一性障害(以下DID)に当てはまる。いやいや、まさか。


→旦那様に相談。気になるならカウンセリング受けてみたら?


→怖くて保留にしたまま入籍、挙式。




・大丈夫だと思いながらも子供の為にと貯金する為に共働き。


・時々頭の中が煩くなるというか、わー!ってなる事が増える。


→面白い上司との会話途中突然

「気持ち悪んだよ。」「氏ね、消えろ。」の声。

その時、本格的にヤバいんだと自覚する。


・色々調べていたら、とある先生を見つける。

その先生は連続幼女殺人事件の容疑者を診た事もあり、

DIDの本も出している先生だ。


遠いが通える場所だったので旦那様と相談した結果、

その先生に診てもらうことにする。




私としては先生に

「君のは自称だよ。君は普通だから大丈夫。」

そう言って安心させてもらいたかったんだ。


期待とは裏腹に即答で

「君は間違いなくDIDだね。」と言われる。

覚悟してたけど自嘲した。笑うことしか出来なかったよ。




上記の事も伝えた上で過去何度も同じ質問をしている。

だが答えは毎回同じ。


受け入れている。解っている。

それでも私はいまだに《DIDじゃない。》と心の何処かで思っている。

そう思う事がきっと私の希望の光なんだと思う。


・その頃から体調崩し始めて、

 ある日とうとう身体を乗っ取られた。旦那様の前で。


そしてそれを重く受け止めた旦那様は私を退職させた。

お世話になった上司や先輩に一言の挨拶も出来ないままに。


・しばらくして落ち着いた私はカウンセリングを受けながら

 専業主婦をやっています。


と言っても体調良い時しか出来ないから心苦しい。

申し訳ないと思う。


・先生曰く、

 覚えていないだけで私は幼い頃母親に酷い虐待をされていたらしい。




・そういえば母親がいきなり私を抱きしめて 

「1ごめんね。ごめんね。許して。」って泣いてた事がよくあった。


意味判らないし、抱き締められるのが気持ち悪くていつも突き放していたけど。

それ以外は思い出せないんだ。


あれ。

というか6、7歳くらいの子供が母親に抱き締められて

「気持ち悪い」って思うのって普通の事?反抗期?


・旦那様は無理して子供は作らなくても良いと言ってくれているが

 私が旦那様のためにできる事ってそれしか浮かばないんだ。


・嫁姑関係は良好。


むしろ私はお義母さんが大好き。

お料理上手で、聡明で。

お義母さんは私の理想のお母さんなんだ。


お義母さんの手料理が大好きで帰省すると

お義母さんの手料理ずっと食べてる。


家事のお手伝いさせてもらったり、

一緒にお買い物行ったり、

私が「花火やりたい!」って言えば笑って付き合ってくれる。


結婚式の着物やドレス決める時もずっと付き合ってくれて喜んでくれた。


今年帰省した時に私の作った梅干し持って行ったら皆喜んでくれた。


大家族で人が沢山集まる家。

皆本当に優しいんだ。皆…。

ヤバい何か泣けてきた。


あと何かあると旦那様の家族は旦那様じゃなくて

皆個別に私に連絡くれるんだ。


それに対して旦那様は少し拗ねる。

でもそれがすごく嬉しくて幸せで。


それとお義母さんの事や、

お婆ちゃん(旦那様の)のことを思うと不思議と涙が出てくるんだ。

何でだろう?

嬉しくて幸せで、でも申し訳なくて泣けてしまうのかな…。


・DIDって知らずに、もしくはある程度人格同士の協力体制が確立して居ない状態で子供を産み、育てると子供もDIDになるらしい。


故に最低でも協力体制が確立していない状態では子供を産めない。


ちなみにニュースになるような虐待を受けている子供は基本的にDIDになると思っても差し支えないみたいだよ。


先生が言ってた。


虐待がなくならない限り、日本のDID人口は増えていく。

自覚して治す人はごく僅からしい。


だからこそ虐待された事がある人は監視されるべきだと思ってる。

自分の子供もDIDにしない為に。


…ごめん、脱線した。話戻す。




・私の母親もDIDだった可能性が高い。

 というかDIDだと思う。

 

それなら金銭面でのトラブルも納得出来るし、

幾度となく説得した事に対して突然発狂し始めるのも納得出来る。

母親がDIDなら全て辻褄が合うんだよ。




最初は母親を憎んでいたけど高校くらいから母親を憎んでいない。

ただ心の整理がつかないんだ。


私は自分だけ幸せになって、

母親を見殺しにしてる最低な娘だと自覚してる。

それでも、どうしても無理なんだ。


会ったり、電話すれば罵声暴言を浴びせる事しか出来ない。

そんな器の小さい自分が嫌になるよ。


ちなみに旦那様家族に被害が出ない為に

旦那様には一度も合わせていないし、会わせて欲しいとも言われない。


旦那様家族には母親は居ないということになってる。

(生活保護を受けている事は伝えたけど、

色々察してくれているみたいで深くは聞いてこない。)


・ここ最近週の三分の一くらい記憶にないんだ。

 

実害はないし、

旦那様も何も言わないからきっと問題行動はしてないと信じたい。


・子供が出来たら旦那様の実家に帰省して、

 そっちで子供を産む予定。


少なくても子供が小さいうちはそのまま向こうで育てたい。

可能であればずっとお義母さん達が居る所で育てて行きたいと思ってる。


それは子供を健全に育てるために必要だと思ってる。

お年寄りがいる家庭で育つと優しい子になるっていうしね。


だけど、もし子供産めない、

このまま仕事復帰も出来ないなら私は旦那様を開放すべきだと思う。


私は私みたいな嫁なら不要だと思うから。


でも、例えそうなっても後悔しないよ。

私充分過ぎるほど幸せ貰ったから。


夢叶えてもらえたから。


残りの人生、父を養えるように頑張るだけだよ。


だからこれ打ってる今、私笑顔だ。



ブログタイトルが【多重人格者が出来るまで】なのに、私の生い立ちを載せてなかったので改めて話そうと思う。
すごく長い上に面白い話じゃないけど気が向いたら読んで欲しい。

※以下、私の事は仮にGとする。


うちは物心ついた時から両親殴り合いの喧嘩する家庭環境だった。

共働きだった為、幼稚園では保育士達が帰った後も親を待ち続ける毎日だった。(※園長先生がずっと一緒に待っていてくれた。)


・物心ついた時には頭の中で叫ぶ男性がいた。沢山の人の中心で叫ぶ男性。イメージとしては発狂状態の叫ぶ男性って感じ。他の人も当たり前にそういうのあるんだと思ってた。だからそれが異常だったのだと知ったのはつい最近。


・父はよく遊びに連れて行ってくれたり、洋服などを買ってくれた。それを母親は見つける度に発狂して捨てていた。(※勿論、私が泣いて止めても無駄。)


・唯一両親を仲良く思えたのは、私の小学校入学式の時。両手を両親の手に引かれながら桜並木を歩いた事かな。…まぁ、それが最初で最後だったけど。


・この頃だったと思うけど、

「Gは二十歳まで生きられない。」

って何処かの医者に言われていた。それが誰だったのか何の医者だったのか覚えていない。ちなみに4歳の時、全身麻酔の目の手術をしたけどそれは関係ないと思う。


・同じ頃から母親に男の影が現れ始める。


・当然悪化する両親の仲
→母親と母親の不倫相手(A)の仲は深まり、私がAと会う事も増える。


・小学校三年の時に両親離婚→親権は母親。


・生活費は父が振り込んでる筈なのに何故か貧しかった。食事でまともな物が出てくる事は殆どなかったし。塩おにぎりばっか食べていた気がする。母親料理下手で、学童保育のお弁当に半生のホットケーキを入れられた事がある。あと紅白弁当とか。

子供だから期待してお弁当箱開けるじゃん?けど開けた中身はそれ。当然皆にからかわれて泣きながら食べたよ。

でもA宅に行ったり、Aと一緒に居るとまともな食事を食べられた。初めてしゃぶしゃぶに連れて行ってもらった時は嬉しさよりもお兄ちゃん達やお父さんに罪悪感でいっぱいだった。その頃私は7、8歳。そうそう、たまに冷蔵庫にお肉見つけると生肉のまま醤油付けて食べてた。美味しかった。しゃぶしゃぶは罪悪感でいっぱいなのに何で生肉には罪悪感なかったのは謎。


・しばらくしてAの家に母親、兄達、私が居候し始める。


・Aには娘(B)有り。
今思えばAはこの時まだ前妻と離婚してなかったと思う。


・私はAにもB姉ちゃんにも懐いていた。


・この時はあくまでも私の中でAは[おじちゃん]という存在で[父親]ではなかった。だからこそ、父親大好きっ子だった私は定期的に父親の家に泊りに行っていた。


・母親とB姉ちゃんと折り合いは悪く、しょっちゅう殴り合いの喧嘩をしていた。


・当時小学生の私が家族分のお夕飯を頑張って作ったりして、それをAが褒めると「それ私が作ったの!」とか平然と言ってのけるのがうちの母親です。
※それを見てたB姉ちゃんは激怒した。


・何故か長男(C)がAに追い出される→父親の元へ


・そしてある時、Aに「もう父親のとこ行くな。俺の事も父さんと呼べ。」と言われる。父親大好きっ子の私は辛くて辛くて…。でもそれに従うしかないのだと思った。

それから数日後、最後にって父親の家に泊りに行ったんだよね。その時もいつもの様に父がバス停まで送ってくれたけど、私は「もう泊りに来れないの」とは言えずに普通に笑顔でバイバイした…と思う。

でもバスが発車する時、父の顔を見たら父は何かを悟っていたらしくすごく寂しそうな顔をしたんだ。それを見た瞬間、本当にもう会えないのだという現実を叩きつけられた気がして、悲しくて寂しくて…バスの中でボロボロ泣きながら遠ざかる父の姿をずっと見てた。

正直この時の事は思い出すといまだに辛くて、書いてる今も泣いてしまった。


・そんな感じで幼心にAを父親と思うよう決心した矢先、母親とB姉ちゃん大喧嘩。母親は包丁持ち出し、傷害事件にはならなかったけど警察沙汰の騒ぎになる。


・B姉ちゃん大好きだけど殴り合いの喧嘩はやっぱり怖いし、その頃からお姉ちゃんいつも苛々するようになっていった。

それに怯えてる私をD兄ちゃん(次男)は「俺の部屋くるか?」って呼んでくれて、「大丈夫だから。」って頭撫でてくれた。それですごく安心したのを今でもハッキリ覚えてる。しかもお兄ちゃん普段は格ゲーとかでしか遊んでくれないのに、その時はマリオとか一緒にやってくれたりもした。


・そんなある日、学校から帰ると「もうこの家には居られない!」と突然母親が言い出して、私と母親は家を出る事になった。どうやら私の帰宅前にお姉ちゃんと喧嘩をしていたらしく、家はゴチャゴチャになっていた。


・計画性もないから当然だけど、着の身着のままだったので学生だったD兄ちゃんが必要最低限の荷物を取りに帰る事になった。後からB姉ちゃんから聞いた話によるとその時、D兄ちゃん「お前(B)の言うことより俺は妹を信じる。」と言って家を出たらしいです。
※この時D兄ちゃん中学生。


・尚、母親は変わらずA宅に居候。


・私とD兄ちゃん、既に父の元へ行っていたC兄ちゃんの四人での生活が始まる。


・家事は基本的に父が全てやってくれた。父は綺麗好きで料理も上手。家事全般得意なんだ。とにかく動き回ってないと落ち着かないらしく、休日は地域の活動とかボランティアとか忙しくしてる。

父曰く「洗濯は芸術だ!」らしく、いつも口癖のように言っていた。あと父は実家が農家やってた事もあってか花いじりが好き。だから家の小さな庭はいつも綺麗な花が彩り豊かに咲いていた。

そんな父の楽しみは月一に私を寝かし付けてから呑みに行く事。でも酔って帰る事は一度もない。そんな父に私が出来る事があるとすれば、家事のお手伝いや父の布団を敷いてあげる事くらいだ。私は父が呑みに行く度に布団から抜け出して父の布団を敷き、

「おかえりなさい。ゆっくり休んでね。おやすみなさい。」

ってありふれた手紙を書置きしていたよ。下手くそな自画像(ちびまる子みたいなの)付きで。父が仕事で遅い時には拙いながらも手料理を作ったし、それを父はすごく喜んでくれた。(料理の腕は父譲りらしく料理下手ではなかったのが救い。)決して贅沢な暮らしじゃないけどそんな毎日が本当に本当に楽しくて幸せだった。


・ある時、父の会社の経営が思わしくないようで父がボソッと口を滑らせたんだよね。「お父さんの会社危ないから、もっと貧乏になるかも知れない」みたいな事を。多分、父は冗談半分だったんだと思う。いや、もしかすると半分は愚痴みたいなものだったのかも知れないけど。…でも、私はそれを重く受け止めた。

「私がお父さんの所に来たせいでお父さんの負担になってるんだ。」って。

そんな思考回路だからこそ「じゃあ、私居なくなればお父さん楽になるんだ。」って本気で思った。だから父の登山用リュックに荷物詰めてA宅へ家出した。

その時父に手紙を残したんだが、書きながら号泣していたのを覚えてる。現実的には女子小学生一人くらいの食い扶持が減ってもたかが知れているのにね。それでも私は幼いながらも必死に父を守りたかったんだと思う。


・A宅に行った私は受け入れられるものの、此処に住むならひとつだけ約束して欲しいと言われる。その約束は「もうこの家を出て行かない事。」もちろん出て行くつもりはないからすぐに約束した。


・以前からそうだけど、Aと母親は私がアニメ映画観てる横でこっそりセクロスするような奴ら。こっそりのつもりかも知れんが最初から気付いてるって。まぁ、そういうのを気持ち悪いと思いながらもAに懐いてた。謎すぎる。


・この辺りから生活費が無くなる事が多くなる。というかAの貯金とかも気付けば無くなってた。そしてそれが母親の仕業と判明する。(※物的証拠とかあったと思う。)

明らかに母親の仕業なのに違うと言い張るんだよ。ちなみにお金は消えても洋服やブランド物、家電製品などが増えることもなく何に使ってるかは不明。

貯金が尽きると消費者金融にも借金する。何度家族会議をしても「私はやってない!」と言い張る母親。そんなどうしようもない母親に私はとうとう暴言を吐くようになる。それでも消費癖が直らない母親にどうしようもなくなったAや私は母親の実姉を呼んで説得してもらうも改善は見られなかった。

・母親とB姉ちゃんとの仲は更に険悪化すると同時に、母親の消費が発覚する度に私は母親を平手打ちするようになる。叩く度、母親が反撃しようとするんだけど「お前に私を殴る資格あんの?」って言えば殴らずに大人しくなってた。ずっとこの繰り返し。私はクズだな、最低。


・母親はAとも喧嘩するようになる。口喧嘩だけだったと思うけど。それでもセクロスだけはする二人。意味判らん。


・私は時々母親達の部屋で寝る事もあったのだが、ある日いつものように二人の寝てるといつもの如く隣でセクロス。嫌悪感を抱きながらも無難に寝たフリ。それがデフォ。…でも、その日は違っていた。セクロス終えたAが私の身体を触ってきたんだ。

は?意味判らん。というかパニック。
え?は?意味判んないんだけど。
…というか母親気付いてるよね?
何で助けてくれないの?
何で寝たフリしてるの?
ねぇ怖すぎて声出ないよ?
ねぇどうしてこんな事になってるの?
A、私のお父さんになったんだよね?
どうして?どうして…?

そんな永遠に答えの出ない事を考えながら、私は気付けば汚されていたのさ。まぁ、よくある事だよね。はは。


・その日を境にAは堂々と手を出してくるようになる。母親は見て見ぬ振り。
というか私は何も見てません、何も知りません、という体制を崩さなかった。


・AはB姉ちゃんに気付かれないように手を出す姑息な奴です。私はもう何を信じて良いのか判らないし、どうして良いのかさえ判らなかった。

その頃の私は、ただお姉ちゃんとの約束を破りたくなくて、お姉ちゃんを傷付けたくなくて必死にAの行為を耐え続けていた。


・ネットがまだ普及されてない頃だったから自殺方法なんて調べられない。でも死にたくて噂で聞いていたバファリンを大量に飲むとか、色々試したけど死ねない生活を繰り返していた。


・精神的に限界を迎えた頃、やたら私の事を気にかけてくれていた担任の先生と仲良くしてた友達に今までの経緯を書いた手紙を渡した。先生も友達も泣いてた。でも何で二人が泣くのか当時は理解出来なかった。

そしてその翌日、私は学校に行くフリをして父の元へ向かった。地元駅から父に電話したら驚いていたけど仕事遅刻して家で待っていてくれた。詳細は話さなかったけど父と暮らしたいって言ったら、

「お前が此処で暮らしたいならお父さんは歓迎するよ。」って快く迎えてくれた。その後父は会社に行き、家にAと母親が別々に来たけど出なかった。

でもその少し後、お姉ちゃんが来たからお姉ちゃんだけ家に入れた。実はお姉ちゃんには悪いと思ったけど、お姉ちゃんが嫌で家を出たんじゃないという証明の為にAの事を書いた手紙を残して行っていたんだよね。お姉ちゃんは泣きながら私に謝ってた。

「私との約束が無ければ1を此処まで苦しめずに済んだのに」って。… 辛かった。お姉ちゃんは何も悪くないのに。
私は結局お姉ちゃんを傷付けてしまった事が悔しくて申し訳なかった。黙っている強さもない弱い自分を恨んだよ。


・転校した学校は前の学校と違ってやたら男子がフレンドリー。だが私はAの事もあって男性恐怖症。
→拒否する態度が女子の反感買う。
→気付けば孤立。存在しない生徒扱い。
→不登校。

よくあることだよね!笑える。…と言っても翌年からは普通に登校。それなりに楽しい中学校生活を送る。


・父の仕事も安定したらしく家庭も落ち着く。とはいえ私はAにされた時のフラッシュバックとかに襲われていた。まぁ誰にも言えなかったけど。


・私が父の元に来て以来、母親が「一緒に暮らそう」と定期的にしつこく訪ねて来ていた。その度私発狂状態。…なのに何故か母親は諦めない。Aにされた事や、その時助けなかった事を責めても効果なし。更には

「お世話になったのに何て事言うの!」
「あの人に感謝しなさい!」だってさ。笑えるだろ?


・母親はA宅に住んだり、生活保護を受けて一人暮らししたりの繰り返しをしていた。ある日とうとう婚姻届を出して正式に再婚してた。もう離婚したけど。


・定期的に来る母親が鬱陶しいものの無事高校に進学し、楽しい学生生活を送る。



【後編へ続く】

私は治る気がしない。

何も変わらない。何も判らない。

本当にこのままじゃ子供までDIDになっちゃうの?…本当に?


友達がいなくなる事も、あるはずの記憶を思い出せないのも、子供に経験させたくない。

…でも本当にそうなるの?間違いなく…?

判らない、判らない、わからない。

先生を拒否してる子。

わからない、怖い。

治したい、でも怖い、痛い、辛い。

想像以上に…辛い。
寝れなくてさっきまでパソコンをつけてネットを観ていた。

ふと思い立って私の昔使っていたHNを検索かけてみたら…色々出てきて驚いた。

もうサイト自体なくなってるのも多いのだけれど、まだ僅かに残っていたのを見つけてしまって。

何故か2ちゃんに晒されて批判されまくっていたり、明らかに10代前半としか思えないようなスレッドを立てていたり。

気持ち悪くなった、すごく。

万が一、昔のブログが残っていれば…色々解ったのかも知れない。

何にせよ、やはり私は第三者から見ても異常に思われる事を改めて確信した。

…それがとても…辛い。