精子が卵子に向かって泳ぐ様子が、あの彼らの鬼ごっこの時の動きによく似ている。
逃げるにしても追いかけるにしても、彼らはまっすぐには走らない。
突然方向を変えて、螺旋を描くように走り回る。
ついこないだまで、彼等は精子だったのだから、当たり前か。
精子は、9+2という構造でできているという。
この数字の構造は、あらゆる生命の構造の中にも存在しているという。
9は、宗教的、文化的意味合いにおいて、特別視される。
キリスト教では奇跡を意味し、中国では永遠や長寿を象徴する。
旧約聖書に出てくる生命の樹は、その実を食べると永遠の命を得られるというものであるが、ユダヤ教の神秘思想、カバラでは、天地創造の象徴を10の円と22の直線で図式化した。
この原型は、古代エジプトの秘技宗教に由来しているという説があり、生命の樹の原型が「パウト・ネテル(神の放射)」として知られていたという(AI先生談)。
"神の放射"といえば、古代エジプトでは、ファラオがナイル川に射精するという儀式が行われていたというが、これは、古代エジプト社会が創作した物語に多くの神が宇宙に向かって新たな生命を作り出すために射精するという伝説を模したものであろう。
科学がこういった神話を遡って証明しているように思えて、面白い。
私は先生方の目を盗んで(しかし見られている)、自分も子供たちとフュージョン(宮台さん語録)していると、どうしてか、内から湧き上がるものの存在を感じずにはいられない。
彼らが夢中になっているとき。
全力で肉体を使う、リズムに乗って自然に踊り出したくなる、恐ろしく思えるものに飛び込みたくなる、彼らのそういった行動は動物に本来備わっている言葉以前(聖俗が分離する前)のことを呼び覚ました。
その時私は、自分の輪郭が曖昧になる。
大人であることをしばし、忘れる(そしてたまに私が先生に怒られる😭)。
社会の前に"セカイ"があったことを思い出させる。
帰り際。
彼らの中の一人が、私に「今日は、遊んでくれてありがとう!」と満面の笑みで言ってくれた。
私はなんだか涙が出そうになるほど、嬉しくなった。
「私こそ、ありがとう!また、遊んでくれる?」と返すと、彼は「いいよ!」と手を振った。
でもきっと、いつか彼は忘れる。
今日のことも、私のこともすっかり忘れてしまう。
でも、それでいいのだ。
言葉で社会に閉ざされていくことが大人になることならば、幼児期のこういった体験は無意識下に残り続けるはずだ。
私が祖父や師匠、子供たちや自然との体験を通して、思い出しているように。
私という輪郭は、本当は幻想だ。
しかしその輪郭を意識しているとき、私は現実を生きている。
そしてその輪郭が曖昧になるとき、私は"セカイ"に溶け込み、永遠になる。
それは、無でもある。
しかし、有を生む無だ。
神の放射、ファラオの射精は、死を乗り越える発明だ。
彼らの中に永遠を見た。
私の方が、彼らに何度も何度もそうやって、救われていた。
