emanation | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

   周囲の明かりが突然消えて、目の前が真っ暗になる。
   
   小さな光が空に舞い上がり、それは破裂した。
   光は放射状に広がり、大きな音が心臓を震わせる。 

  人々のざわめきはいつのまにか遠ざかる。
  私は大勢の中で、たった一人みたいだ。
  
  放射だ。
  昨日書いた自分の言葉が即座に思い浮かんだ。
  

   冬の花火を何年かぶりに見た。
  私にとって冬の花火は、特別な意味を持っている。
  いや。意味などない。
  ただ自分の無自覚な空虚さが、意図せぬものを引き寄せることがある、ということを知ったあの日。



  新プラトン主義の創始者とされるプロティノスは、こう言った。


  一者(TheOne 神のような存在)は完全で、たった一人でも満ち足りていた。

  しかしこの"一者"は、その過剰な豊かさで自然に放射し流出させ、自身を外に広げた、と。


  それは、意図的な創造ではない。

  それはただそこに存在していただけで、多様な世界が生まれていった。


  太陽が光を放出するように。

  木々が枝葉を広げるように。



  私はあのころ、空虚だと思っていた。

  だけど、本当は違ったのかもしれない。

  あまりにも過剰であった。

  その過剰さが、共鳴しただけなのだ。



  カバラでは、神は無限の存在であり、絶対的な無とされる。

  神はその過剰な豊かさゆえに自らを収縮させ、そこに空虚を作り、光を放射する。

  その光の流出が、世界の創造の始まりだ。



  古代文明の人達の思想は、現代人から見れば完全に気狂いであっただろう。

  現実と妄想のあいだに生きていた。


  分明進化の広がりの枝葉の先にいる私たちは、随分と神から遠ざかってしまったのだな。

  いや。神は、代替可能な物質に成り下がってしまったのかもしれない。(ゴールデンカムイはまさにそういう話だった)


  花火は、まさに蕩尽だ。

  贅沢で意味もなく、危険で手間の割には一瞬で終わる。


  だけど花火を見たくなるのは、遠ざかった神のその過剰な愛を無意識に求め、回帰したいと願うからなのかもしれない。


  大丈夫にはならない。

  大丈夫にはなりたくないのかもしれない。

  

  ならばそれを背負い続けるしかない。

  自ら放出した過剰さが作り出した空虚さを抱き締めて。



  光よりも速く、影響を与えるものがあるという。

  アインシュタインはそれを、不気味な遠隔作用と呼んだ。


  量子もつれの存在を認めたことで、客観的な現実とはなにか、空間と距離の意味はなにか、という根源的な疑問に突き当たった。


  しかし気狂いな古代の人々は、言語化する以前にそのことを体感として認識していたんじゃないか。



ウィリアム・ブレイクの悪魔観 善悪の対立とその両犠牲を巡って