生きる技術 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  昨日、息子と息子の彼女、義母でランチをした。

  今週はゆっくり休もうと決意していたのだが、私が休みだと義母はすかさずどこかに連れて行って欲しいと電話をよこす。

  ついでに少し距離離れた私の息子である孫に会いたいらしく、私に疲れていないか?と一応気遣う素振りで尋ねるが、私が断れないことを彼女はよく知っている。


  別にまあ暇であることは確かなので、親孝行のつもりで彼女の言う通りに息子に連絡する。息子は仕事で息子で疲れていたらしいが、ちょうど彼女と何もせずダラダラしていたし、私の誘いだったら断るのだろうが、祖母の望みなら叶えてあげたい、という優しい面も持ち合わせているので、快く承諾してくれた。


  息子の彼女はとても賢く、良い子だ。そして息子のことをよく理解している。

  息子のビビり気質や狭い心、時折見せる傲慢さやわがままさを無意識(なんだろうと思う)に知りながらも、そんな時はそっと距離を置いて、自分の中で感情を処理したり、どうにもならないときは私に相談してきたりする。


  なので、私の義母、義父(息子の祖母、祖父)と会うことも快く引き受ける。

  職場では、患者さんに食べ物(時に金銭!貰ったときはナースステーションに報告はするらしいが)などをよくもらうということからも、天真爛漫で変に遠慮をしない彼女は、人に好かれるタイプだということが窺える。


  義母は、わがままではあるが、人の心の機微に鈍感なタイプではない。むしろ、敏感であるからこそ、自分の思い通りになるタイプの人を見分け、常にそばに置く。

  自分は幼い頃から病弱で、今も人よりもできないことも多いから、助けられるのは当然だと思っている節がある。

  義父は他人にはすこぶる優しいが、そんな義母に昔からとても厳しく、甘やかさない。なので、私にすぐ頼ることを咎めるのだが、義母は義父がいない隙を狙って私に連絡をしてくるため、あとになって、わがままばあさんに付き合ってくれて、申し訳ないな、と言う。


  こんな感じなので、義母は誰とでも仲良くできるタイプではない。自分のしたくないことには絶対に付き合わないが、自分がしたいことに関してはあれやこれやと自分の弱さを盾にして、押し通してくる。


  しかしこのわがままさは、不器用で身体も丈夫ではなかった彼女の生きるスキルであるのだろうとも思う。

  そしてそのことで少しも義母を甘やかさない義父の存在が、苦難続き(病弱なだけではなく、生い立ちの厳しさ)だった彼女に悔しさという感情から発する生きる力を与えたのだろうと思った。


  自分の母親ではないから、私は義母にそれなりに気を遣う。それを承知の上で、義母は私をこき使う。自分の息子や孫である息子には言わないが、私や同じ孫である私の娘には、断られないギリギリ絶妙な感じのわがままを言う。


  しかし私の娘は、義母と気質が似ている。

  自分の気分が乗らなければ、きっぱりと断り、自分と利害が一致すれば言うことを聞く。私や息子とは違い、祖母のわがままに付き合うことは絶対になかった。


  私は今まで、人の心の機微に鈍感で、人の言葉の奥にある本音を読み取ることができないのが娘の特徴だと思っていたのだが、本当は言語領域に上がる前に無意識下で察知していて、本能的にその人の真意に対して、拒絶と受容という自身の行動を選んでいたのかもしれないと思う。

  それは、相手の心の仕組みは理解出来る。しかし、そこに共感することをしない。ということなのではないか。共感しないことで、不器用な自分を無意識に守ってきた。

  だから娘は、今の単純な性格の彼氏と実に上手くやっている。

  ただ娘と義母が違っているのは、義母は(世代的に仕方がないのだろう)世間体を気にした行動を取るが、娘はそこがまったくないということだ。


  それもまた、私が無意識下で娘の特性を時と共に理解し、そうするように世間の声から遠ざける声がけをしてきたからだとも思う。

  すこぶる不器用であった娘は自分は人の何倍も努力しないと同じになれないと嘆いていたが、何倍も努力すればいいじゃないか。どう思われようが、何を言われようが、おまえがおまえのやりたいことに誰も口出しをする権利はない。振り返れば、世間並みの常識だけは社会で生きていく以上必要であり、それを言葉にして伝えつつも、そこが一番大切なわけではないことを意識的に言い続けてきた気がする。


 人との出会いが限定的な田舎で育った娘にとって、本や漫画、ネットの世界、そして友人との付き合いよりも尊敬する目上の大人の言葉は、彼女の精神を成長させる道具でもあった。

  自分のことを娘はよく知っていると思う。

  先を見通すことや人に合わせるが苦手なことは欠点でもあるが長所にもなった。

  先にある不安よりも自分の望みを叶えるために計画的になれること、人の顔色を窺わないから自分のやりたいことだけに集中できること。それは人との人目を気にし過ぎるゆえにコミュニケーションが得意でいつも友人に囲まれ、頼られるが、時に自分のことを犠牲にしてしまう息子とは真逆の性格である。


  そう考えると、世の中というものの仕組みはよく出来ていると思う。

  1人しかいない息子が遠くにいても、私のような同情心を捨てきれない自分の意のままになる嫁が近くにいる。


  不器用な娘には、おおらかな彼氏、外面がよく、変に神経質な息子には、天真爛漫でありながら賢い彼女がいる。


  やはり近くにいる我が母は、そんな私と義母を見て、時々嫉妬するように自分もわがままを言ってみるのだが、私に冷たくあしらわれて可哀想だ。

  私は嫁だから、義母を優先する。けれども狭い町だ。そうすることで、あんたも娘を邪険にされないんだ。

  偉い娘さんだね。って言われるだろ?それがあんたを守ることになる。

  あんたには離れているが息子もいるし、放蕩ではあるが一緒に住んでる息子もいる。

  義母にはいないんだ。身体も弱い。

  だからあんたはできるだけ長く健康でいろ。

  あんたは友達もたくさんいるし、面倒を見なくてはならない旦那も両親ももういない。

  それでも何かあったら助けるから、義母を優先する私を許せよ、と、伝える。


  義母は、今日も堂々と私は人に迷惑をかける。と豪語する。

  私はイラつきながらも、しょーがねーな、と言うことを聞く。

  

  義母も母の世代も、今のような教養を得るには乏しい時代に生まれ、育ってきたのだ。

  私たちが容易に得られる情報や価値観、哲学、歴史に触れられる機会に乏しく、またそれが得られる今の環境を自ら得ようとするよりも、自分がしてきたように年寄りになれば誰かを頼ればいい、というような狭い常識の中でしか生きられない。


  それは考えようによっては、同情すべき案件なのだ。


  そして私の方こそ、実は強かなのである。

  元気な休日は、義母の連絡が来る前に早朝から山へ行く。

  誰にも邪魔されない、電波の届かない場所へ行き、存分に短い自由な時間を味わう。


  義父が、すぐに山や海へ出かける気持ちがわかるのだった。

  そして義父も私の気遣いをよく理解してくれているのがわかるので、救われてもいた。

  

  決して、仲の良くない義両親が私を介してなんとか関係を維持していることも時々煩わしいのだが、煩わしいのが人間だろ?と自分を励ます。


  自分こそ、明日どうなるかわからない。

  肉体を思い通りに動かし、意識を正気を維持し続けられる保証など、どこにもないのだから。


  老人介護をする息子が、ヤンチャな老人が二人入ってきて、俺はボロボロだ、と嘆いた。


  私は明日は我が身だぜ。と窘める。

  もし、正常な社会というものを言語化しろと言われたら、弱者を助けられる余裕のある社会だ、と答えるだろう。


  しかしそのためには、健全な肉体と精神を持つ個体の割合を増やさなくてはならない。

  だから若者は大事なんだ。


  昨今は、子供ばっかりに手厚くて、年寄りからばっかり税金を取る、と嘆く義母にそう言ってはみたが、全然聞く耳を持たないので私は失笑したのだった。


  意地でも、夫よりも長生きしたい。と義母は言い放ち、じゃあそのあとは誰が面倒を見るの?と私は恐怖に震える。

  

  しかしその命根性は、尊敬に値する。

  誰に迷惑かけても、欲望に忠実に、誰を利用しても、自分はわがままに生きる。


  その決意は逞しい。

  嫌悪よりも、ある意味、尊敬が上回る。

  まったく、素晴らしいぜ。命ってやつは。