職場の人や親戚などと話していると、みんな絶対にファイターズの話をする。
休みにはみな必ずエスコンフィールドに行き、野球の試合がなくても楽しめるのだと言った。
エスコンフィールドなんて名前を知ったのも実はごく最近だ。
テレビなんて、誰かが来た時以外、まったく付けないから、世間の流行りのことを話されるとまるでちんぷんかんぷんである。
私は自慢じゃないが、スポーツ観戦にまったく興味がない。周りのみんなが夢中になる野球とサッカーとオリンピックもほとんど見ない。(サッカーとフィギュアは多少見たが)
息子が野球をやっていたにも関わらず、ルールも全然知らない。
ファイターズのメンバーの名前を誰も知らないと言ったら、道民じゃないと罵られる始末だ。
しかし、そんな私でも(これはスポーツ観戦と言っていいのかわからないが)競馬は、わりと好きだ。
中学生の頃だっただろうか。
父親が私に馬券を買ってくれた。
年末の有馬記念である。
なんとなく一番人気のトウカイテイオーに絡めて、馬連で買った覚えがある。
それが当たって、それからなんとなく見るようになり、ファミコンでダビスタをやり始めてから、週末にはテレビで競馬を見ていた。
馬券というよりも、サラブレッドの物語が好きなのだろう。
人間の欲望のために生産され、走るためだけに生まれ、育てられる。
血統が重視され、レースに勝ったものだけが余生をのびのびと過ごすことができる。
それだけでなんとも言えず悲しい気持ちにもなるのだが、人間も同じような気がするのだ。
もちろん、強い馬が好きだ。
現役時代は知らないが、オグリキャップから始まり、ナリタブライアン、ディープインパクト辺りは夢中でレースを見た。
ライスシャワーとサイレンススズカの競走中止したレースは涙なしには見られない。
G1ファンファーレを聴くと興奮する。
特に東京、中山競馬場のG1ファンファーレは大好き過ぎる。すぎやまこういちさんが作曲しているとは知らなかったが、確かにちょっとドラクエっぽい。
現役時代をあまり知らないが、最近、ゴールドシップという馬のレース(物語)を見まくっていて、大好きになってしまった。
大きな馬体の母親であるポイントフラッグの仔たちがみな大型馬であり、足元の不安に常に付きまとわれていたため小柄になるようにとステイゴールドを配合したが、想定外に大きく生まれてしまう。
それだけでなく、父親譲りの気性難も受け継いでしまい、調教師や厩務員を何人も病院送りにしたり、嫌いな馬たちを蹴りに行ったりするという暴君ぶりである。
厩務員の今浪さんは大好きで、調教師の須貝さんは大嫌い。
同期のジャスタウェイは好きで鼻をくっつけあったりしていたが、先輩のトーセンジョーダンは嫌いで見つけるたびに蹴りを入れに行っていた。
菊花賞では舌をベロベロ出しながら舐めた態度で走っていたが(これをゴルシの舐めプ伝説とか界隈では言うらしい)、3コーナーの上り坂からロングスパートをかけ、最終直線で他馬を引き離して優勝するという偉業を成し遂げる。
G1は6勝もしているのだが、凱旋門賞や三度目の優勝がかかった宝塚記念ではありえない大敗を喫している。
あまりの気性の激しさから、ブリンカーとシャドウロールの両方を付けられていたレースもある。
引退時には、ほとんどの競走馬がどこかに不調をきたすものだが、この馬はほぼ健康体であり、種牡馬入りしたあとも、普通の馬の受胎率が70パーセントほどなのに、ゴルシに至っては90パーセントを越えていたという。
面白いのは、気性難という馬の気質を日本では大事にしているという点だ。
海外では、そういった馬はすぐに去勢するらしいが、日本では気性の荒い馬こそよく走り、気性の荒い馬を乗りこなせるのが優秀な騎手であると捉える文化があるという。
確かに職場の人間でも、喜怒哀楽が激しく、わがままなやつはウザったいのだが、遠巻きに見ている分には面白い。
自分で自分をコントロールできないことを本人も持て余しているのだろうが、私からしたら自分が傷つく可能性の方が大きいのに、他人を自分の思い通りにしたいというそのエネルギーはどこから来るんだ?ととても興味深い。
なのでそういう人に出会うと心の中で、コイツはゴルシ、と勝手に命名することにしている。しかし感情の起伏が激しく、わがままなのに、仕事ができなかったらこの駄馬が!と罵ってもいるのだ。
私の中にも優生思想はある。
人間自体に興味がないから、普通のスポーツ観戦でストーリー性を感じることが出来ないのだろうか。しかし身の回りの人の性格を歴代馬に当てはめるとなんとも面白い。
大衆が優秀な血統ではないオグリキャップをヒーローと崇めたのも共感できる。
人間には物語が必要なのだろう。
そして人が惹かれる物語には、苦難が付き物だ。
さらに良い物語には、人を支配する力がある。
神話、宗教、哲学。
それらはすべて、物語であると言っても過言ではない気がする。
サラブレッドは、走るだけのために生まれる運命。
残酷で異常な世界だ。
でもそれがどうしてこんなにも感動的なのだろう。
野球選手は普通のサラリーマンになろうとすればなれる。
でもサラブレッドはなれない。
しかしその悲しさが、彼らの美しさを際立たせる。
馬はゴールを知っているのか?
勝つことが嬉しいのか?
それがわからないことが、余計に想像力を掻き立てる。そしてそこに物語を人間が勝手に作り出して悦に入るのだ。
自分も馬と変わらない。
不自由な社会という厩舎の中で飼われていることを重ね合わせるようにして。
⤴︎何年か前、アポイ岳登山の際に通りかかった浦河優駿ビレッジアエルにて。
日高地方の牧草地では、道東のホルスタインではなく、あちこちで放牧されたサラブレッドを見ることができる。
こちらにも馬の放牧はよく見るが、サラブレッドとはまったく違う。
サラブレッドは生で見ると、小柄でものすごく馬体が美しいことに驚いた。
これは、なんの馬か不明だが、当時、同放牧地では、引退後のウィニングチケットがいたらしいがこの時は見られなかった。
ゴルシは、新冠町のビッグレッドファームで余生を過ごしている。