恋とトランス | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。


  彼は愛想良く私たちに頭を下げ、颯爽と私たちを追い越して行った。
  八合目の休憩場で彼は、私の友人と一緒に登っていたらしく、疲れ果てている友人の横で爽やかな笑顔を見せながら、私とみーちゃんに塩キャンディーをくれた。

  トレランが趣味らしく、さすがにいい身体をしている。
  私は堂々とセクハラまがいの言葉を口にし、みーちゃんは私と彼を少しだけ嫌悪した目で見つめた。

  あとでどうしたんだよ。あの人、なんか変な人なの?と尋ねると、私の友達と不倫してたからなんかね。とみーちゃんは言った。
 
  その友達はお堅い職業についていて、性格もすこぶる真面目らしいが、何度か離婚していて、選ぶ男がみんなチャラいんだとみーちゃんは言った。

  私はなるほど、わかる気がする。と独り言る。
  あれだけエネルギーを持て余していて、女にもみんなに平等に優しそうだ。
  気が利くし、話してて楽しい。
  常識的で真面目な人ほど、そしてその傾向を自分で嫌いなほど、彼のような破天荒そうな男に直観で惹かれるのは当然のことのように思えた。

  異性を好きになるのは、自分に都合がいいからではない。よくわからないけれど、この人のことが気になって仕方がない。理性では止めようもなく、欲情してしまう。それが、恋というものではないか。

  私は彼はかっこいいじゃないか。モテるだろうし、好きになるのもわかるけどね。と言うと、みーちゃんは、私は絶対に嫌!と言い放つ。

  一度は、そういう男と恋に溺れてみたらいいのに。と私が言うと、溺れるぐらいなら、恋なんてしない方がマシ。とみーちゃんは言った。

  そうか、みーちゃん。キミは、恋に溺れて、自分を見失うのが怖いんだな。
  しかし、自分を見失って、毎日、感情の起伏が激しくなっているみーちゃんを私も見たくはない、と勝手ながら思うのだった。



  これが、すこぶる面白かった。

  宮台さんの人間らしさ、男としての可愛さが全開である。

  

  そしてなんと!自叙伝を出版する?!

  絶対に買いたいと思う。

  

  なぜ私が宮台さんが大好きなのかと言うと、知識が豊富で、自身が伝えたいことに関して天才的な表現力で私の感情を揺さぶりつつ、かつ、そこに説得力があるからだ。


  そして自身がそのような考えに至った経験を正直に話してくれる。

  誰にどう思われようと、自分はこういう気質があり、こういう経験をしたから、こういう価値観である。ということを惜しげもなく伝えてくれる。


  後半の、自身に報道されたことに対する奥さんの対応の話が素晴らしいと思った。

  私も当初から、宮台さんの行動に対する報道は別に大して驚きもしなかったし、普段彼が言っていることを理解していれば、そうなることは当然だとすら思っていた。

  奥さんだって、彼を一番理解しているからこそ、そういったことは想定内なんだろうという想像は容易につく。

  まあマスコミのスキャンダル報道は、社会の規律を正すとか、弱者や正義の味方とかいうよりも、大衆の一番いやらしい部分を刺激し感情を煽って金を稼ぐことの方が重要な目的なのだ。

  

  壇蜜さんが、とあるYouTubeでの対談の冒頭で宮台先生にやっぱり若い子がいいんですね!みたいなことを言ったが、あまりまえだろ、と思った。

  本能的には生殖能力が高く、健康的で美しい形状の異性に惹かれることは種の存続のために大事なことである。どれだけ知識と経験を重ねた年であっても、恋は本能に根差すものだ。

  壇蜜さんが人気なのも、そういう男の本能を刺激するからであり、若いとか、スタイルがいいという女を男が好むことは止められないし、止めてはならないとも思う。


  しかし中には、熟女好きとか、太った人が好きな人もいる。それはそれで、自然の循環における多様性の必然だ。

  サラブレッドは、世界のルールで人工授精を固く禁じているのだが、大きな理由はそこだ。
  同じ血統ばかりが残ると、競馬は魅力的ではなくなるし、血が濃すぎると遺伝的な悪影響も大きくなる。
  ゴールドシップのような牝馬を選り好みしない種牡馬もいれば、栗毛の小型の牝馬にしか発情しないウォーエンブレムという馬もいるというのが、また人間に近いものがあって面白い。

  史上最強馬として名高い三冠馬、ディープインパクトは、大人しく、人懐っこい馬だったらしいが、逆にゴールドシップの気性の荒さと破天荒さが魅力的だと捉えられ、それが人気にもなっている。

  宮台さんは、つまんないことが耐えられないとよくおっしゃる。
  もちろん、だからって社会のルールを激しく逸脱するような行為や、それを許す社会が良いとは考えてはいないし、むしろ社会の正しいあり方というものに人一倍模索されているだろう。

  安心で安全な社会を目指すのは当然だし、そのために理性は必要だ。
  けれども、人はそれだけでは生きる力が湧かない。

  私がもう嫌だ、辛い過ぎる!熊が怖い!と思ってもまた再び山を登るのは、その辛さを乗り越えた果てに湧き上がる命の力を味わえるからだし、その行為が自然を壊すことに少なからず加担していても、もしかしたら人に迷惑をかけるような事故を起こす可能性もゼロではないとしても、自分が生きている実感を味わうことを優先できなければ、生きている甲斐がないと考えるからだ。



  ベナンで第二夫人として嫁いだこの方は、初めは第一夫人に嫉妬したという。

  一夫一婦制の日本で生きてきた彼女にそういう感情が沸き起こるのは当然だ。

  しかし夫と喧嘩した際に第一夫人が、彼と仲直りして欲しいと言いに来てから、感じ方が変わったという。

  ベナンとはそういうところだ、それは変えようもない文化だ。それを受け入れたときに恋は愛になるのだろうか。

  男を愛することは、その男が愛する人のことをも愛することなんだ、と。

  

  なぜ浮気を許せないのか。

  それは相手が自分のモノ(it)であると認識するからなのだと思う。

  相手がかけがえのない唯一の人(you)であるならば、その人の心に湧き上がる感情すら肯定しようと努力するものではないか。


  ならば恋は本能であるが、愛はそこに理性を付け加えられて昇華する。

  愛は恋という突発的なトランス状態から発生するが、さらに愛は、そこにそれまでの知識と経験で作られた知恵でできた理性を駆使して持続させる。

  

  宮台さんは結婚は平穏という退屈の連続だが、その平穏が続くことは奇跡なのだ、というようなことを言っていたが、そのことこそまさに愛と呼ぶのだと思う。

  

  世間は浮気や不倫を許さない。

  それは、個人の尊厳を尊重しているからではなく、所有する価値観に基づいていた。

  

  農耕社会に移行し、貯蔵するという習慣が根付くと、それを他者に奪われないためにそれを家族に引き継ぐために確かな血統の証明が必要だ。

 そのために一夫一婦制は都合が良かった。

 

  しかし生命としての本能は、できるだけ多くの、しかも多彩な命を残したいのだろう。

  ヒトのペニスの鬼頭部分がに引っかかりがあるのは、メスがその前に性交したオスの精子を掻き出すためだと読んだことがある。


  そのことからも本来、ヒトのメスは(発情が分からないこともあり)いろんなオスを性交することで、より強く優秀な遺伝子を残すという習性があったとも想像できる。


  自然環境が永遠にそれぞれの生物にとって、安心で安全でいられるわけがない。

  いつ起こるかわからない災害や事故に遭遇したときにその集団が保守的な個体だけであったら、種は保存され続けるだろうか。



  先日、ハイジを一気に全話見た。

  子供の頃は何度も再放送を見ていて、内容はほぼ覚えていたのだが、改めて今の大人の視点で見ると、捉え方がまるで違う。

  岡田さんのおっしゃる点は、まさに私が真っ先に感じたことである。


  俗世を捨てたような生活を選んだおんじが、田舎町の大衆の価値観よりも、おんじとはまるで真逆な生活を営むクララの身内であるゼーゼマンさんやおばあさまとの方が分かり合えているということにまず疑問が沸いた。


  今のように誰でも同じような教養を得られる環境で育ってはいなかったはずのおんじが、いわゆる上流階級のゼーゼマン家に信頼されたのは、若い頃にやんちゃなことをして農家を潰し、それから傭兵として雇われた経験が、田舎に住み続ける大衆とは違う価値観を育てたからなのだろう。

 

  クララを預かったときにおんじは、子供たちだけで危険な山へ行かせたことをロッテンマイヤーさんに酷く咎められるが、自分はクララを歩かせてやりたい、そのためにはクララが自分で歩きたいと心から思える体験が必要だと言う。自分が行くとついつい手伝ってしまう。それだと一生クララは自分から立ち上がりたいという気持ちになれない。クララは子供たちだけで山へ行った時に、自分がどれだけ人に迷惑をかけているのかを理解し、そしてハイジやペーターが自分の足で歩き、走り、花を摘み、遠くへ行けることを心から羨ましく思う。

  そのことがのちにクララを歩かせることになるのだ。


  ロッテンマイヤーさんはクララを愛しているがゆえに守り過ぎ、口うるさくする。そのことが逆にクララから生きる力を奪っていると思い直したゼーゼマンさんは、クララをおんじに委ねるという選択をした。

  世間では変わり者だと言われているおんじの本質を見抜けるゼーゼマン家は、なるほど、その思考の柔軟さで、その後も成功者であり続けるのだろう。

(ちなみにハイジはスイスだが、ゼーゼマン家はドイツにある。資産家であるゼーゼマン家が敬虔なプロテスタントであることがロッテンマイヤーさんの言葉から窺えることも興味深い。宮台さん流に言えば、ロッテンマイヤーさんは言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーンである。しかし、システムが整った社会(ここで言えばお金持ちの家特有の役割が完璧に決められた環境)において、彼女のような保守的というよりも保身的な価値観になることはよく理解出来る。)

  

  

  まだわずかしか読んでいないが、この本は私に今ある価値観や思想というものがどこから来たのかと長く疑問に思ってきた問いに答えるものであると確信している。


  はじめの章は、どの宗教にも共通する神秘体験、瞑想、トランス状態といったものの起源の話だ。


 宮台さんは、動画の冒頭で、ごっこ遊び(同じ世界に入る体験)のことを話している。


  男女の性愛の醍醐味はフュージョンすることと常々仰っているが、そのことと繋がるのだろう。


  私たちは理性を駆使して、安心安全に生き延びる方法を模索してきたが、そのことは本能を遠ざけ、生きることに虚しさを募らせることになったことも確かだ。


  クララに必要だったのは、まさに没入する体験なのだろう。

  子供は未来ではなく、今を生きている。

  未来を案じることなく、その瞬間に没入する。

  それはある種のトランス状態と言えるだろう。

  その体験は、死の恐怖を凌駕する。今がまるで永遠かのように錯覚する。

  人は死ぬことを理解しながら、それでも新しい命を生む。

  それができるのは、死を仮体験しつつ、生がそこに含まれていることを体感するからなんだろう。 

  効率優先で言えば、どうせ死ぬんだから、いきてることだって苦しいことばかりなんだから、命なんてはじめからない方がいいとなる。

  

  ハイジは初めてきたおんじの山の家で、「もみの木がないてる!おじいさん、もみの木がないてる!」と叫ぶ。


  森と一体になれる幼く無垢な感性に触れて、おんじは確信したのだろう。

  自分がなぜ、不便な山の生活を選んだのか。

  

  生きているだけで、毎日が奇跡なのだと実感するためだ。