シーズン始めの足慣らしの山を飛ばして、中レベル(私たちの中では)の山から始めた。
そうすればこれから次々に始まる近隣のここよりも低い山の山開きでも、難なく登れるだろうと踏んだからだ。
初っ端から辛い。
思ったよりも足が上がらない。
心拍数が上がるタイミングが早すぎる。
今年は冬山を一度しか登っておらず、やはり、筋力も体力も落ちているのである。
しかも、よりによって今日はこの場所が道内の中でも気温が高い日だった。
昨日、丸一日畑仕事をした疲れも引き摺っていたらしく、後半は小休憩を何度か挟まなくてはならなかった。
それでもやはり、この山は美しいし、楽しい。
山へ登る苦しさは、風景の変化の乏しさに比例する。
傾斜がキツくても、岩場が多くても、距離が長くても、風景に変化が多いと、心理的苦痛は軽減するのである。
今年は向かいに見える雄阿寒岳にも登りたい。
登山口から山頂まで二時間。
始めはキツすぎて、頂上に来られるなんて信じられないのだが、淡々と登っていたらいつのまにか着いている。
例え、小さくゆっくりの一歩でも、それは偉大な一歩だ。
急がなくても、歩幅が狭くても、追い抜かされても、その一歩一歩を確実に進めていけば、いつかは辿り着けるのだ。
世界の全ての色がここにあるみたいだ。
植生が乏しく、花がなくても、空の青、湖の薄い緑、草の緑、地面の赤、黄色。
岩燕の鳴き声、噴煙の音、時折吹く涼しい風、喉を潤す甘露の水、心地よく悲鳴を上げる全身の関節、筋肉。
五感の全てが刺激されると、肉体あってのこの命だな、と深くその味わいを堪能できるのだった。
頂上付近には地面から木の根が出ている。
引っ張っても深く地に張り付いていて、抜くことができない。
その色は、露出した岩のような銀色がかった黒で、まるでこれから石に変わるかのように見えた。
これから何百年か何千年か先に、この木の根は化石になるのかもしれない。
命の種類の薄さで、その循環がごく遅いこの活火山帯の地で、あらゆる細菌などの生命に食べられることなく、朽ちることなく、ゆっくりとその姿を留めたまま保存されるのかもしれない。
疲労で思考力が低下し、意識が遠くなる感覚で見渡すと、私の意のままにならない過酷な風景が広がっていることに気付く。
確かに神様がいる。
森にも山にも、目では見ることのできない存在がそこにあるように思えてくる。
私はこの身を投げ出すようにして、運命に命を任せているのだ。
神よ。全てはあなたの思うがままに。
生きることも死ぬことも自分では選べない。
ただ前に一歩、この足を進める力だけを自由意志と呼ばせてください。