桜はあっという間に散った。
白いいちごは、早くも花を咲かせている。
去年よりも春が遅い(とは言っても例年よりもずっと早いが)気がしていたのに、生き物たちは早くも初夏の装いなのだ。
ハウスの中は30度を越える暑さだ。
黙っているだけでも、額から汗が滴り落ちる。
しかし、外は気温が高くても涼しい風が吹く。
始めはだるかった畑仕事も、徐々に心地よい疲労感と次々に畑が苗で埋め尽くされていく達成感で満たされていく。
毎日の仕事で疲労困憊の息子が昨日帰ってきて、
畑を手伝うと言いつつ、いつのまにか近所の川に消えて行った。
ふと見ると網と釣竿を胴付長靴を手にしていた。
もういい大人なのだが、やることが小学生の頃と変わらない。
休日は、彼女や職場で仲良くなった同年代の子とキャッチボールをしたり、自転車で街を爆走しているらしい。本人曰く、自分にはまだ自由になる金がないかららしいが、金を使わないで楽しめるなんて、おまえは天才だな、と言っておいた。
それにしても偉大なのは、太陽の光だと思う。
どんなにだるくても、めんどくさくても、この眩しい光の下で身体を動かしていると、どんな心配事すらも吹き飛ばされて、心が晴れやかになっていくのだ。
土に触れるとほのかに温かい。
土や野菜やハーブの苗の香りを嗅いでいると、アロマオイルなんて部屋に焚かなくてもいいじゃないか、と思う。
長時間、腰を落としていても、腹に力を入れれば痛くならないことにも気付いた。
鍬を振るっているときも同じだ。
師匠は老人によくある難治性の皮膚病を患ってるが、こないだ新しく罹ったお医者さんに太陽の光をたくさん浴びなさい、と言われたという。恥ずかしくて普段は隠していた腕を出すようになったら、だいぶ良くなった気がすると笑っていた。
室内で育てていた苗たちを外に出して、水をたっぷりやると、最初は暑さにへたっていたのが、徐々にピン!と背伸びをするようにまっすぐになった。
私達も同じだ、と思う。
脳でいくら元気になる方法を考えていても、身体が光を求める力には適わないのだった。
息子が一匹だけ、小さなアメマスをバケツに入れて持ってきた。
魚影はたくさん見えるのに、ちっとも釣れないんだ、と肩を竦める。
水槽に入れて、元気に泳ぐ姿をしばらく眺めた。
しかし、渓流魚は、室内の水槽では容易に飼うことができないらしい。水が冷たくないとならないし、彼らの泳ぐ速さでは、水槽は狭すぎる。
それから私はバケツに彼を入れ、また近所の川にそっと帰した。
彼はその場で、流れに逆らうように鰭を懸命に動かした。私の目の前から少しも移動しない。
確かに泳いでいるのに、前に全然進まないし、後退もしない。
流れの速さと同じ速度になるようにずっと鰭を動かし続けている。
川は流れを止めない。
だから彼は、ずっと鰭を動かし続けなければならない。
朝も、昼も、夜も。一生。
彼の鰭を自分の手足と同じに考えてはいけない。
流れがある環境にいるのがあたりまえの彼は、その流れに上手く乗りながら生きていく。そのために鰭は無意識の支配下にあるのだ。
私たち人間は、生きる意味や目的がないにも関わらず、それを探し続けていかなくてはならない。それは、彼らにとってのあたりまえの生を繋ぐこと以上の意味や目的なのかもしれないとも思えた。だから手足を動かすことにもいちいち理由がいる。
それはとても苦しく不幸でありながら、同時に楽しく幸福なのだった。
そして、どちらを選ぶことだってできる。
あらゆることに意味がないと思うことも、あらゆることに意味があると思うことも自由だ。
どちらも正解だけど、じゃあ私はどちらを選ぶ?
感情に左右されて、どちらにも振れるけれど、太陽はいつもどうしたって心を前に向かせる。
そして手を休めて飲む水の甘さと言ったら!
私も水をかけられた苗と少しも変わらないようだ。