テクノ・リバタリアンー世界を変える唯一の思想ー | 想像と創造の毎日

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  GWに出掛けた帰りがけに、人気がありそうなパン屋さんに並んでみた。
  そこは毎日のように行列ができているらしく、昼前には完売してしまうらしい。

  私のすぐ前に並んでいた初老の女の人二人が、話をしている。内容は主に病院の話や、健康食品の話で、一人の人は良さげなサプリを相手に進め、それは紅麹とかと違って安心なのよ。と言っている。

  紅麹が悪かったわけではないだろう。と私は心で突っ込む。ついこないだ、職場の同僚が、少年団で配ったおやつの中に10円のカルパスが入っているのを子供たちが見つけて、これ食べちゃいけないんだよ!紅麹が入ってるんだから!と言い出し、原材料見たら本当に入っていたから、ちゃんと見れば良かったと言ったので、いやいや。紅麹が入ってるから危険というわけではないんじゃない?と言ったばかりだった。

  一人の人が、ここのパンは私が食べるというよりも、東京に住んでいる子供に送っているのだ。と言った。東京のパンよりもここのが美味しいのか。と私は大変期待した。

  先に並んでいる人たちが次々とお店から出てくる。彼ら、彼女たちはみな、持参した大きなエコバッグがパンパンになるほど、パンを買い込んでいる。
  
  もう、いかに長生きすることばっかり考えてるわ。しきりにサプリを薦めていた女の人がそう言うのが聞こえた。

  30分ほど並んでから、私の番になった。
  昨今の人気のパン屋さんは、材料や焼き方に拘っていて、値段がお高い。なのでここも、そうなんだろうと思っていたが、高級な手作りパン屋さんと比べて、どれも半値ほどである。

  ふと惣菜パンの具材を見る。ソーセージが安物だ。
  なるほど。ここは素材の高級さよりも、安さが人気なのか。
  3個ほど買って、お店を出てからすぐに食べてみた。
  焼きたてだからそれなりに美味しかったが、家に帰って冷めたものを食べると、スーパーのパンよりも不味く感じる。
 
  素材の良さは、美味しさに必ずしも繋がらないのは、ファストフードの人気を見れば良くわかる。

  スーパーなどのパンがいつまでも柔らかいのは、柔らかくするための添加物が使われているからだ。
  下手な無化調のラーメンを食べると、味が薄く感じたり、魚介の臭さが際立ったり、処理が甘い豚骨などの雑味が生臭く感じたりして、化学調味料を使ったものの方がむしろ食べやすく感じる。

  純粋な旨味や甘味は、文明以前では手に入らなかった。
  だから、脳は効率良くエネルギーになったもののことをよく覚えていて、科学的に抽出されたそれらを自身の肉体に必要だと勘違いするのかもしれない。


  ピーター・ティール、イーロン・マスクをはじめとしたペイパルマフィア(だけではないが)と呼ばれる天才たちが、どのような生い立ちで、どのような思想を持っているのか。

  この二人に共通するのは、死をとても恐れているという点だと橘玲さんは言う。 

  ティールは、不死を求めてバイオベンチャーに投資し、マスクは脳とAIの接続を目指している。

  彼らトランスヒューマニストの最大の敵は、死を漠然と受容するイデオロギー、デスイズム(死自然主義)だという。


  私も死を恐れる(死そのものよりも死に至る過程)が、もっと恐ろしいのは死がなくなることだとも同時に思うのだが、こういう考えが、"デスイズム"と呼ばれるある種の思想なのだと彼らが捉えていることに大変な衝撃を受けた。

  あの女の人は、いかに長生きするためにかを考えるからサプリを飲むと言っていたがそれは、人は絶対に死ぬからこそ、できるだけ長生きをしたいと思い、その方法を探っていられるんじゃないのか。

  もし、人間が不死の存在になったら、生きていたいと思うだろうか。生きているという実感は、死を認識するからではないのだろうか。

  苫米地英人さんは、いずれ死は憧れになる。と言っていた。

  橘玲さんの"テクノリバタリアン 世界を変える唯一の思想"という本は、かなり面白かった。
  彼らの思想と昨今の医療やテクノロジー事情を絡めて見ると、共感はできないが、理解はできる。
  暗号通貨の話などもわかりやすく書かれているので、オススメである。

  思想というものが、歴史上いかに私たちを支配してきたのかということに考えを巡らせた。
  
  自分に今ある無意識下にある価値観は、自分が作ってきたものではないのだと改めて思うのだ。


  コンストラクタル法則とは、生物、無生物を問わず、全ての形は自由を与えれば、より良く流れる形に進化するという法則である。

  それは不平等を生むが、自由があるところにこそ進化するのだそうだ。

  だとすれば、自由は随分と残酷なものだ。

  

  

  



  野生動物たちは、死の恐怖を感じているだろうか。

  ある瞬間には感じるかもしれないが、それは人間よりも継続的なものではない気がした。

  野生動物は自由である。

  それは、生と死を分けて考えない部分においてであろう。

  

  人は、自由を求めつつ、自由を拒絶する。

  そこにある矛盾を解明しようとしながら、自ら進んで矛盾の中に彷徨う。

  

  人が死を手放せば、パンの味すらわからなくなるだろう。


  本来美味しさは、生きる快楽に溺れるためではなく、生きる必然において生まれるものだと思うからだった。


  山に登っている時の水の味が、どんな食べ物や飲み物よりも、極上だと感じるように。


  死を拒絶する欲望。

  それは果たして、欲望なのだろうか。

  欲望とは、生きるために沸き起こるものだと思っていた。

  死を認識しない生が、私には想像できない。

  さて、死がなくなった先の生とは、如何に?