生きる力、その源 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。


  ー柳田さんの書いた"山の人生"の中の話のひとつ。
  これは大正13年に書かれた。
  
"いまでは記憶しているものは、私の他に一人もあるまい。
   三十年あまり前、世間が酷く不景気であった年に西美濃の山の中で炭を焼く50ばかりの男が子供を二人までまさかりで切り殺したということがあった。
  女房はとくに死んで、あとには13になる男の子がひとりあった。
  そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰ってきて、山の炭焼き小屋で一緒に育てていた。
  その子たちの名前は私はもう忘れてしまった。
  なんとしても炭は売れず、何度里へ下りても、いつも一合の米も手に入らなかった。
  最後の日に空手で戻ってきて、飢えきっている小さな子供の見るのが辛さに、すっと小屋の奥に入って昼寝をしてしまった。
  目が覚めてみると小屋の口いっぱいに夕陽が差していた。秋の末のことであったと思う。
  二人の子供がその日当たりのところでしゃがんで、しきりに何かしているので、傍らに行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧を研いでいた。
「おとう。ここでわしたちを殺してくれ。」と言ったそうである。
  そうして、入り口の材木をまくらにして、二人ながら仰向けに寝たそうである。
  これを見ると、くらくらとして前後の考えもなく、二人の首を打ち落としてしまった。
  それで自分は死ぬ事ができなくなって、やがて捕らえられて、牢に入った。"

  柳田国男さんは、明治30年頃から十数年、法制局の参事官になったが、その特別な仕事というのは、こういう犯罪人の特赦の事務を取り扱うことだった。
  その中で読んだたくさんの囚人の記録の中で、この話ほど心を動かされたことはないと書いている。
 
~中略(田山花袋と自然主義の話)~

  この話のどこに、柳田さんは心を動かされたんだろう。
  非常に言い難いことなんだけれども、世間は極輸入(←?)の自然主義の運動でもって湧いてるときに、自分がこれからしようと思っていること…その時明治40年というと、有名な遠野物語が現れます。だから柳田さんの仕事の意識はちゃんとできていたに違いない。ちょうど蒲団ができた頃にはね。

ちょうど世間の文学者たちは、西洋の直輸入のそういう自然主義というものに酔っているときに、自分がしようと思っていることは、我が国のことなんです。それも、大変古いことなんです。我が国の伝説に、諸君、目を向けてくれたまえ、ということをやらなきゃならん。そういうことをはっきり知っていた。

  それが遠野物語の序文に非常によく表れている。

  遠野物語は山に生活する人が…平地に下りた人達は段々と文化が進んできて、人為的な文化の中に浸るけれど、山に残った人たちは昔ながらの自然観を持って、暮らしていた。そこに伝説が保存された。その点で非常に貴重なことである。

  

~中略~


  炭焼小屋の話は実話だけれども、その裏には伝説がある。

  伝説を軽んじる人には、こういう逸話の味わいさえわからない、そういうことが言いたいんですね。


~略~


  遠野に行っていろんな物語を聞いて、実に面白い、この伝説は。この伝説は今でも遠野の人々は信じている伝説なんだ、疑うものはない。そういう伝説はみんな生きている。生活している、そういうものはまだあるんだ。そういうものを見てきて、これを人に語ってやったらさぞ、面白がるだろう、と自分は思ったからこの本を書いたんだ、と。


  柳田さんは読者をどういうところに引き入れようとしたのか。山人の生活の中心部ですよね。山人の生活の中心部というのは、山人というものは、山の魂、山の神様というものなしには、生活というものができなかった。成り立たなかった。山の神々との深刻な交渉がなくては、生活が成りたたなかった。それが彼らの生活の中心部です。そういう中心部に現代人を私は責任をもって、導こうと思う、と。 


  だからさっきの炭焼きの子供たち、あの子供たちには何も子供じみたところがない。気まぐれ的なものは何も無い。実に確固として信念に満ちている。おとう、俺たちを殺してくれ、その前に斧を妹と一緒に研ぐんです。それは慎重に研ぐんです。そういう行為に子供ってものがない。そういう確固たる構造は一体どこから生まれるんですか?何かそこには人を動かすものがありますね。だけどこれは、俺たちはあんまりひもじくて、苦しいから、いっその事死んじまえ!って、そんな単純なものでは絶対ないですね。きっとその子供たちは、毎日おとうが炭を焼いては米を買いに里へ下りる、その苦労をよく知ってたに違いない。俺たちが死ねば、おとうも少しは楽になるだろう、って、そういう激しい感情があったに違いないね。それじゃあどうしてその激しい感情が、そんな実に慎重に斧を研ぐという平静な行為になるんですかね。こんな疑問が起こってくる。

だけどそんなことをいかに言ったところで、この物語は到底、説明しがたいものがある。そういうもっともらしい説明をまったく拒絶しているようなものがありますね。何もこれは親孝行ってもんじゃないですよ。それか犠牲ってものでもないですね。それなら自分が犠牲になって、おとっつぁんを救うっていうなら、もっと気負ったものがあるはずだ。もっと、行動に緊張したものがあるわけです。実に平静ですね。自然ですね。そういうことを恐らく、柳田さんは書いてないけれども、よく感じていたんじゃないですかな。


  今僕らが忘れているのは、そういう伝説の表す、非常に自然な行為ですよ。恐らく子供は、そういう知恵…知恵ですね。それはきっと。もしも人間にそいう知恵がなかったならば、この知恵は何万年も昔から練磨していた僕らの祖先の知恵ですよ。そういう知恵がなかったら、人類は滅びていたかもしれませんね。犠牲になるんですよ。みんな生きるためにはですね、一緒になって生きるためには、自分は死んでもいいんですよ。これは非常に自然な知恵なんですよ。ー



  この話を三回ほど繰り返し聞いた。

  私の心に迫るものがあった。

  それは、山人と文明の間を生きた祖父のことを思い出すからだった。

  祖父は、何も怖がらない人だった。

  熊はもちろん、スズメバチも地震も。

  そして、孫である私を可愛がりはしたが、慮ることがなかった。

  勝手に山へ連れ出したはいいが、子供の速度など気にすることがない。山菜を切る手伝いをしたとき、私が包丁で指を切って血を流しても、意に介さない。

  でもそれは、祖父が優しくないからではないのだ。

  私はそのことを幼いながらも、よく知っていた。

  祖父は戦争の話ししかしなかった。しかもその話も、辛かったこととかではなくて、自分が帰る時に足の不自由な女の子を背負って助けた話ばかりだった。

  祖父は"日常"を大切にした人だった。

  日常といっても、それを守るために頑張るというわけでもなかった。

  それが、彼の"普通"だった。

  ただそれだけのことなのだ。

  それだけのことなのに、私は祖父を思い出すといつも胸が締め付けられる。

  人に嫌われて、家族に邪険にされて可哀想だったから、という単純な理由じゃない。 

  祖父そのものが、まるで伝説みたいに思えるのだ。

  それは、自然に帰ろう!みたいな主義思想キャンペーンではなくて、内なる自然が宿っていた文明以前の感覚だった。


  命を大切に!と言って、違う大切なものを失いそうになる危機感みたいなものでもある。


  個が、全体に含まれている。

  しかしそれは、全体主義ではない。

  自然と生きていた、伝説が人々の心にあった時代。

  人は、死と共にしながら、自然に死を乗り越えていたのだろう。

  薬も食べ物も簡単には手に入らない。

  そのことが逆に人に生きる力をあたえたのかもしれなかった。


  今の私たちには、知識はあっても知恵がない。

  それは、何もかもが与えられ過ぎているからでもある気がした。

 

  祖父のことを思い出して感じることは、小林秀雄さんが語るこの柳田さんの話を聞いたときと同じ感覚なのだった。