吹き付ける風が、アオサギの冠羽を揺らした。
何の役に立っているのかわからない、しかし頭の上を飾り立てる冠羽は、風に撫でられて美しく動く。
役に立つから、意味があるからそれがある。
そう考えるのはそれこそ意味のないことで、冠羽が風を受け止めてゆらゆらと揺れる景色を美しいと感じる私の心がただそこにある。
風がアオサギに冠羽を与えたんだ。
意味付けるよりも、その思いつきの物語の方がしっくり来るのだった。
深くは理解していないのだろうが、エンデと小林秀雄は、同じようなことを言っている。
現代人には当たり前の客観的認知は、科学という信仰であるとエンデは言う。
ー科学者は、真実への努力を、自らの重要な精神的価値として認めているのです。しかし、そのこと自体は、自然科学では証明できないものであるということを認めなければならないのです。言い方を変えれば、自然科学がすべてを説明できるという考え方を捨てなければなりません。
アインシュタインロマン エンデの文明砂漠よりー
小林秀雄は、ここ綴る。
ー昔の人はじっとして風景を眺めていた。眼前にある依然たる旧山河に飽き飽きして心中の風景を勝手に改変していた。今日ではその改変された風景が眼前にある。私達も昔の人のようにじっと坐ってはいるが、坐った椅子が一秒間に百米の割合で走っている。(中略)飛行機から降りたら自動車に乗らねばならぬ。夢から醒める暇など絶対にないのだ。夢を織るに必要な数々の荒唐無稽な影像は、自ら織り出す手間をかけずとも今日の科学が日々に私たちの周囲に築いてくれる。お陰で私達は既に自分の力で夢を創造する幸福も勇気も忍耐も失って了った。
小林秀雄「現代文学の不安」動画内より転載ー
エンデはこの本の中で自身の作品を児童文学というジャンルに分けられることに不快感を示している。
ガリバー旅行記や千夜一夜物語は、かつて児童文学としては扱われなかった。
児童文学と言われはじめたのは、唯物論思想や主知主義的思想の最盛期と時期を同じくしている、と。
啓蒙主義というものが、今日の文明に生きる現代人の認知の形をもたらし、それ以前に信じられていた科学的、客観的とは言えないものの数々は、ファンタジーだとか、オカルトだとか、あるいは宗教的という言葉で現実から排除される。
確かに感情も思考も脳の電気信号に過ぎないーという本を私は好んで読む。
しかしそれは、視覚という機能だけを使った客観的認知が、人が感情に翻弄される生き物であり、よって根本的に孤独であると無理やり納得させることで他人との違いをやり過ごす。そういうひとつの生きる技術なのだった。
私たちは物質に"過ぎない"。
エンデは、"~に過ぎない"という言い回しを嫌悪する。
確かに"~に過ぎない"と言われれば、まるで自分は無価値で無機質な存在であると思わずには居られない。
その認知こそ、現代人の内なる荒廃を招いているのだ、とエンデは言う。
アオサギの冠羽もエゾシカの角も、まるで不要な物に思えた。
けれどもそれらが夕陽を浴びて、風景の中でシルエットとして浮かび上がる形は、言葉にならないほどに美しい。
白鳥は長い首を背中側に折り曲げて、長旅の羽根を休めている、しかも、みんなで!
同じ感情を分け合うことのない生き物に対して、なぜこんなふうに愛おしく、時にせつなげな気持ちが沸き起こってくるのか。
仕組みや理由を知りたかった。
けれどもそれは、目的ではないのかもしれない。
湧き上がる感情に付随して、疑問は浮かぶものだ。
命あるものを食べるたびに心が傷んでは生きられないけれど、命あるものを殺めるたびに生きることの矛盾に理解は阻まれた。
命あるものが自分の血肉になる。
自分もその循環の真っ只中にいる。
始まりと終わりはその循環の中で仕切られた部分だ。
私たちは始まりを持たないのだから、終わりもない。
終わりを案じて、不安と恐怖に苛まれる感情は自我を持っている以上は必然だろう。
しかしその感情すら、生きているから味わえるものだ。
不思議だ。
死ねば何も感じないかもしれないのに、人は死を恐れる。
本来では、死に至るその過程の自身の苦しみや残された者たちの悲しみを案じるから、死は怖いものだと感じるのだろうに、昨今では、持ち物を失う恐ろしさを死の恐怖と取り違えているように思えてならなかった。
屋根を持たない生き物たちは、どうやって私の知らない世界で生きているのだろう。
鳥の群れが、規則的な形で空を舞うのを眺める。
優しさとか思いやりなんていう概念を持たない部分で彼らは"ひとつ"だ。
私たちは初めからひとつなのかもしれない。
わざわざ、ひとつになろう!と叫ばなくとも。