種を植えてから、四日目。
レタスの芽が出てきた。
二日後に一個だけ先に芽が出ていたが何なのかわからなかったが、同じような芽がいくつか出てきたからこれもレタスだったんだと気付いた。
一年間も冷蔵庫で眠っていた種をひとたび土に植えると、あっという間に芽を出す。
双葉がグイっ!と土を持ち上げて、光に導かれるみたいにして伸びていく。
芽が出る瞬間が一番ワクワクする。
毎回、これが初めて見たかのように新鮮に驚くことができる。
この細い2mmのほどの長さの種が、あんな大きさのレタスになる。
土の養分を取り込んで…、水分と光で…、とかそういう理由ではなんだか納得できない。
命、いや物事は何でもそうだろうけど、根本的に不思議だ。
職場で私の仕事の事務をしている人が、何回も間違えて手間が増えてしまうから困る。
私がやった方が早いし正確なのに、などと傲慢な考えが頭を過ぎっては、そんな自分に嫌悪した。
しかもできるだけ柔和な口調で指摘しているにも関わらず、ムッとした態度を取られ、その度私は少しだけイラッとした。
なぜ自分の間違いであるのは確かなのに、こんな態度を取れるのだろうと単純に不思議でもある。
みーちゃんが、正直、仕事ができていないのにプライドが高い。と言った。
みーちゃんは、無視されるんだと怒りを通り越してもはや呆れている。
最近では間違えそうなところをそっと先回りしたり、それでも間違いに気付いて指摘してくれる業者にはただただ申しわけない、と平謝りしたりして、なんとかやり過ごしている。
しかしそうしているとどんどん調子に乗り、私に関係ない仕事まで押し付けてくるようになるから、それはそれで自分の中でここまでは許せるがここからは無理だという線引きをしながら、やんわりと断りを入れる。
不器用な部分をこんなふうに補って、彼女は生きてきたのか。私やみーちゃんの道徳観から外れるその言動、態度、行動は、彼女の生きるスキルでもあった。
それでも真っ直ぐに怒ったり、注意したりするみーちゃんは、正直で平等な人だと感じる。
私は彼女が(こんなにも仕事ができなくて)可哀想だと感じて、彼女ができるだけ傷つかないようにと自分を犠牲にする差別主義者なのだった。
つまり、同情しつつ、やり過ごし、心の中でマウントを取る。
嫌われるとめんどくさい。
それなら自分が損をした方がマシだ。
そういう思いもあるにはある。
種は一粒ずつ植えるより、近くに何個か撒いた方が発芽率が上がるらしい。
それは自分が!自分が!と競争するからなのかと思っていたけど、自分の仲間たちと命の躍動を共鳴
させることで互いに成長するからかとも考える。
そこには自分だけが生き残るというつもりは毛頭なくて、できるだけたくさんで芽吹いて、その中で一番命の力があるものにそのうち自分を譲り渡す。
芽を数えるとそれぞれ一つずつだけど、仲間はみんな誰が生き残ってもそれが自分だと意識を共にするのかもしれない。
それは自己犠牲ではない。
自己など始めからないのだ。
レタスの芽は、自分と仲間が共に同じ命を生きている。