ジャンクフード | 想像と創造の毎日

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  先日の休日に、カップラーメンと市販のポテトチップスとコンビニのナゲットとチョコレートを食べた。


  お腹がすいていたので、カップラーメンはそのときはとても美味しく感じた。

  充分にしょっぱいから、これだけで満足するはずなのに物足りなくなり、誰かからもらったポテトチップスを開けて食べ、それから甘いものが欲しくなってチョコレートを食べた。


  おなかいっぱいのはずなのに、心は物凄い飢餓感に襲われていることに気付く。


  別の日に、余っていたわかめご飯の素を食べ切れていない白菜と酢で揉み込んで浅漬けにした。

  始めは、塩だけよりも味が濃くて美味しいと感じる。


  でも、食べ進めていくうちにこれまた飢餓感に襲われて、他のものが食べたくなる。


  確かに美味しい気がする。

  でも、何かが違う。



  主たるうま味調味料には、味の素とハイミーがあって、私はその違いがわからなかったのだが、味の素は昆布の旨み成分であるグルタミン酸ナトリウムだけが含まれ、ハイミーはそれにかつお節の旨み成分であるイノシン酸ナトリウム、干ししいたけの旨み成分であるグアニル酸ナトリウムを掛け合わせているそうだ。


  前に試しにフライドチキンを作った時に味の素を使ったのだが、コンビニのホットコーナーのフライドチキンそっくりの味になった。

  でもそれが美味しいかと言われれば、正直もう次は使わないなと思った。


  チャーハンに手作りナンプラーを使った時にこれが究極のチャーハンの味だ!と感動したのだが、もう一度、やっぱりうま味調味料には敵わないかもしれないと今度は味の素を使ってみた。

  美味しいとは思うが、やっぱりナンプラーほどの味の深みがない。


  味の素は純粋な旨味だ。しかしそれはともすると、純粋過ぎて何か物足りなさを感じる。


  ナンプラーや、アンチョビやトマト、干ししいたけなどは、旨味を感じる前に何か別の味の複雑さを感じる。


  例えば野生の山菜がそうなのだが、アイヌネギひとつとっても、栽培種と野生種では味が全く違う。


  野生の山菜は、物凄いクセがあって、でもそれがすぐに満腹感に繋がるのである。


  それらは雑味と言い換えてもいい。

  

  堀江さんは、野菜炒めに塩だけで美味しいわけがないと言うが、それは素材によると思う。


  美味しい野菜は逆にうま味調味料を添加すると、全てが同じ味になってしまう気がする。それは舌の上に広がる複雑さゆえの味わいの過程を阻害する。だから、なかなか満足感が得られなくて、量を多く食べる。


  ジャンクフードを食べた次の日。

  摂取総カロリーも運動量も普段と変わらないのに、なぜか体重が増えた。そして下痢になった。(それは脂質のせいだろうが)

  塩分もそうだが、うま味調味料の味の濃さで水分を普段よりも多く取ったからかもしれない。


  次の日も飢餓感が収まらなくて、これはいかん!とカバノアナタケ茶を補給し、やっと通常の食欲と便通を取り戻した。


  食欲がトランス状態になっていたことを実感したのである。


  ジャンクフードが良くないと思うのは、美味しさ云々というよりも、それに含まれるうま味調味料がもたらす飢餓感なんじゃないかと今回の実験(実験??ただの堕落)ではっきり判明した。


  何しろたくさん食べられる、食べたくなるのである。


  そうだ。前の日にはうま味調味料たっぷりの焼肉も食べた。その依存性により、次の日にはカップラーメンが無意識に食べたくなったのかもしれない。

 

  菜種油、うま味調味料、精製塩。

  これが、現代食物の三位一体、依存性増幅の黄金バランスであるように思う。


  しかも精神的にもやる気がなくなり、鬱気味になるというおまけ付きだ。


  早く、山菜を取りに行きたい。

  初春の山菜は、命のエネルギーをまっすぐに感じられる味だ。

  程よい苦味に、目の覚めるような風味。

  毒とも薬ともなるようなあの強烈な味は、何故か心を元気にさせる。


  自分で苦労して歩いて、採る過程からすでに食べるという行為が始まっているせいもあるだろう。


  雪解けの栄養豊富な水を取り込み、眩しい春の光を存分に浴びて、彼らは一気に今しかない生命の時を謳歌する。

  その瞬間をほんの少しだけ、頂戴する。

  彼らの一番、力溢れる瞬間は、人のお腹をほんの少しの量だけで満足させてくれるのだった。


  熊とエゾシカという目利きの達人と争うように、美味しそうな山菜を探して歩く。

  あれは、ある意味、闘いだ。

  彼らの食べるフキは、どれも柔らかく、瑞々しい。

  これは、同じ命を繋ぐものとしての、種の存続を賭けた闘いである。


  …いや。彼らの残した足跡を辿り、同じ獣道を往く。

  彼らが倒した笹の道を通り、彼らは彼らで人の作った歩きやすい砂利道を使う。


  共に生きているのか。

  互いに出会わないように、耳を澄ませ、風下で臭いを嗅ぎ分け。

  自然を分け合っている。