冷たい、と感じるのか考えるのか、そもそも決まっているのか | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。

 あの春のような陽気な温かさは去り、また真冬の寒さに逆戻りだ。


 それでも冬至の頃のような全身が強ばるような冷たさはない。太陽の高度が上がり、より明るい光が命を動かすからだろうか。

 

  小鳥たちの鳴き声は、この寒さでも頻繁に聴こえる。 

  しかしその鳴き方は、真冬のそれとは明らかに違うのだった。

  警戒し、仲間に注意を呼びかけたり、餌がある場所を機械的に教えるよう抑揚のないリズムだけの地鳴きではなく、歌うようなメロディアスな囀りだ。


  繁殖の春に向けて、彼らは命を生かすだけの冬を乗り越え、これからは恋のためにパートナーを惹き付けるような素敵な歌を歌い、メスを巡って競うのだ。


  私が鳥が好きなのは、彼らが羽根と歌と持っているからなのかもしれない、とふと思う。


  地面に面して横にしか動けない哺乳類や、言葉に縛られて思考する余地が逆に狭くなったように思える人間とは違う、空間的にも思考的にも自由さを持っているような気がするからだ。


  クジラやイルカは、陸から海へ戻った種だと考えられている、というのを前に博物館で知って驚いた。その証拠として、クジラの胎児を観察すると、その進化の過程を辿るように、一度脚が生え、そして消えるというのだ。


  意識の中に組み込まれない記憶が、胎児の成長過程、細胞の成長の過程に刻まれているということが、とても神秘的だとも感じた。


  脚を生やしてから、消える。という効率的かどうかの判断に任せれば、一見無駄な過程が意味するものは何だろう。


  彼らは、地上が狭くなったから海に戻ったとも考えられるし、もしかしたら知能のあまりの高さゆえに本当に自由な場所を知った、とも私には考えられた。


  羽根を生やそうにも身体が大き過ぎて飛べない。そもそも恐竜の絶滅において、その選択肢は種の持続には適さない。ましてや、地上はビビりのくせにその好奇心で凶暴な人類というもうひとつの脅威である存在に哺乳類の覇権を握られそうだ。だから一か八か、縦横無尽なもうひとつの空とも言える海へ戻ろう、と。(進化の時系列は調べていないので、完全な恣意的想像ではある)


  



  車の黒いボデイに真っ白な雪が積もっている。

  よく見るといろんな大きさや形をしていて、その日によって状態が違う。


   綿あめのような、それこそ綿のような繊維質が、水から出来ているだなんて、瞬間を切り取る認知でしか認識できない脳みそでは、おおよそ信じられない。


  ひと粒ひと粒の表面にある細かい羽根が、互いに絡まり合って繋がれている。




  指で掬い、しばし観察しているうちに、じわじわと融けて、それから冷たさを感じる、という過程に脳の身体的感覚の認知の遅さを知る。


  なるほど。指が雪を触って、冷たい!と意識が認識するまで、0.5秒のタイムラグ!


  そしてそれにも関わらず意識は、"主観的に"0.5秒前に遡り、脳は、わっ!今、この瞬間、冷たい!つまり、私は今を生きている!と私に錯覚されるのだ。


  そう考えると、運命というものはやっぱりあって、自由意志なんてないとも考えられるのだが、それでも脳がそう錯覚させるのは、やはり意識というものの恣意性が、生、もしくは種の継続にとって有利であり、必要だということではないか。


  無意識下が、その時の最適解を身体を使って勝手に選択させる。

  しかし無意識下における行動が最適解を決定することができるのは、意識しているときに自分で自分を経験を通して、ある意味、洗脳させるという作業の積み重ねにおいてである。


  つまり、それを"信じる"。

  過ちも、そこにおいての悲しみも苦しみも、後悔ですらも、それらをすべて肯定する。


  マトリックスという映画の最後で、預言書のオラクルが言っていたことは、こういうことなのだろう…という話はまた、気が向いたら、そのうち。