悪とは何か?それはなぜあるのか?(文字起こし) | 想像と創造の毎日

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 ・宗教と平和を巡る今日最大の問題は、イスラム教とキリスト教の対立

 ・この対立はもっぱらキリスト教側から仕掛けたもの  

 ・イスラム教は元々布教をしない

 ・強制改宗はコーランで固く禁止されている

 

 ・イスラム教と比べ、遥かに未規定でよくわからないところがあるキリスト教とはなんなのか


 ・一神教と言われる宗教形態

 ・ルーツはひとつ

 ・ユダヤ教、そこから分かれたキリスト教、これらを研究することによって生まれたイスラム教

  ユダヤ教の成立は、出エジプトにもし定めるとするならばその50年前にエジプトで世界で初めての一神教が誕生している


 ・それはアクエンアテン(イクナートン)の一神教で、あっという間に国が乱れ、トゥトアンクアメン

(ツタンカーメン)による多神教への回帰がなされた

  ・エジプトの一神教が全ての一神教のルーツだとしても、系列はひとつしかない

  ・アテン神信仰→ユダヤ教信仰→キリスト教信仰→イスラム教信仰

  ・なぜ一神教はひとつの系列しかないのか
  ・それは、非常に特殊な宗教
  ・人類史上、一神教は今までもこれからもほとんど出てくることがありえない、それは、なぜか

  ・宗教には、四種類しかない

  ○アニミズム(自然信仰)
  ・自然と共にある生活がなくなると消える
  ・開発、強制移住によって消える
  ・極端気候(気候変動で環境が失われる)で消える
  ・だから一神教の多くは、自然信仰を否定、もしくは対立する
   

  ○パンテオン(多神教)

  ・ギリシャ語 "パン"は、たくさんの意、テオは、神様。


 ・なぜエジプトのアテン神信仰による宗教紛争が起こったのか


 ・"パンテオン"というのは、元々それぞれの部族の神様のシンクレティズム(集合) 


 ・どの神様が偉いかといって対立して戦争し、滅ぼすのではなく、それぞれの部族の神が両立するような神殿を考える


 ・なので、元々不安定なところがある


 ・部族間の紛争が対立するとどの神が偉いということに戻ってしまう

 

  ○善悪二神教(ゾロアスター教、マニ教、等)

 ・これが、なぜ広がらなかったのか


 ・マニ教からキリスト教に改宗したアウグスティヌスを見るとよくわかる

 ・悪の神と善の神が宇宙の始まりから争っていて、その最後の決戦がハルマゲドン(あるいはアルマゲドン)で、その結果、どうなるかわからない

 ・このような思考は、悪が蔓延していたら悪の神が強い、のような話になって、まったく思考が深まらない、つまり、我々を賢くしてくれない


・自然信仰を否定、もしくは対立する

・自然環境が変わろうが、住む場所が変わろうが、普遍的に通用する信仰が大事だと考える

  こうした自然信仰、パンテオン、二神教に対するいわば、袋小路からの離脱の運動として、一神教があった


  ○イスラム教の特徴

  ・7世紀始めに誕生した
  ・ムハンマドによるユダヤ教やキリスト教に対する徹底的な研究の上でできあがったもの
 ・一神教としては、完成している
 ・完成しているから良いというわけではなく、完成しているからいろいろな問題が起こりにくい
 ・イスラム教徒たちの法共同体においては(宗教国家のようなイメージでもよい)、ギリシャのアーカイブ、あるいはユダヤキリスト教のアーカイブが膨大に保存されている(リスペクトゆえに)
 ・これらの文献をヨーロッパが逆輸入したのが、12世紀(中世の後期)
 ・それによるアリストテレスブーム、それを前提としたトマス・アクィナスの神学という展開
 ・12世紀以降導入されたギリシャやユダヤキリスト教の"知恵"をベースにして、ギリシャの知恵からはルネッサンスが誕生し、近代に繋がっている
 ・なのでトマス・アクィナス、スコラ神学なくしては、今日のキリスト教(プロテスタント含め)は一切存在しえない
 ・我々がキリスト教徒として存在できるのは、イスラムのおかげだということを忘れてはならない

 ○イスラム教の本質
 1.コーラン(クアルーン)に描かれた確定した善行のリストがある
  ・ユダヤ教徒おなじように戒律(宗教的なきまり)に従う、戒律通りに従うのがいいことだということ

 2.神強制は否定されている
  ・罪を犯さなかったので、罪を悔い改めたので私にいいことをしてくださいということ(無理強い=コアーション⦅型の強制⦆)

ヨブ記の問答を思い浮かべればよい
  "私は誰よりも...であるのになぜ、この私を"というコミュニケーションを徹底的に否定するために善行リストをその通り行っても現生での救い、災いには一切関係ないという設定

 ・ここには面白いオマケがついていて、死んだ後については、ユダヤキリスト教と同じように永遠の命が得られるかもしれない最後の審判を経て、もし合格すると、非常に極楽的な環境で生きていけるんだよ、という教義もついてくる(英語ではミルクアンドハニーと呼ぶが)
 
 ・教義論争というのは、まったく起きたことがない
 ・善行のリストは確定しているから、ユダヤ教とはまったく違っていて、特定の民族の生活形式と結びついた戒律はない
 ・なので、どんな民族どんな生活形式でも従えるような善行のリスト

  ・戒律、律法を否定するキリスト教のように、じゃあ何がいいことなのか?という疑念が生じない
 ・この疑念が生じなければ、なんでこんなに良いことをしたのに私をこんな目に遭わせるの?というヨブ記的な問答も生じない

・ちなみにスンナ派とシーア派との対立があるじゃないか、というが、これは教義対立ではない(宗教指導者の継承を巡る、つまり後継ぎを誰にする?についての、ある出来事から生じた方針の分岐

・なぜ布教や強制改宗をしないのかというと、ひとつの社会があるとして、その社会が善行リストに従うものたちの集まりだから、自動的に良い社会になる

 ・私たちの知っている社会には、無宗教の人も無神論の人も、またいろんな宗教の人もいるが、イスラム教の社会はみな法共同体、善行リストに従う人たちなので、基本良い社会であるので、良い社会に憧れる人が放っておいても入ってくるので、わざわざ布教しなくてもよい

 ・ちなみに死ぬ前を現世と呼び、死んだ後を来世を呼ぶとすると、それはユダヤキリスト教とイスラム教、共通して天国ではない、来世というのは死んだあと、1回煉獄という場所に行ったあと、最後の審判を経て、合格すれば復活する

 ・どこに復活するかというと、この地上に復活する、しかしダメな人は復活できないので、合格した人たちだけが、永遠の命を得て暮らす場所になる

 ・原理が全く違うから来世というふうに言ってもいいんだけど、面白いことにこの地上にというセンテンスの条件が加わっているので、例えばお葬式の時に(これはユダヤ教からはじまるもの、キリスト教も)肉体がないと復活した時に依り代がない、ということで、今でも多くの先進国で土葬が行われている(イギリスでは火葬が多いが、他の国でも半分近くが土葬)
 ・宗教理解を前提とすれば、この肉体にまた魂を戻していただく、この考え方を前提とすれば、この考え方はリスペクトすべきものだと思える

 ・キリスト教徒たちは、11世紀、12世紀、13世紀と十字軍遠征で異教徒たちを殺戮した
 ・さらに最近では、1948年、1957年、1967年と、三次に渡る中東戦争が行われた
 ・直接にはユダヤ教徒の国であるイスラエルと周辺のイスラム国との戦いだが、アメリカ、ヨーロッパ、キリスト教国が、敵の敵は味方とでも言わんばかりにイスラエル側について、イスラムの国々と戦うということがあった 
 ・なので、キリスト教は歴史的事実として非常に好戦的だった(少なくともイスラム教徒(ムスリム)の人たちと比べると)
 ・ただし、イスラム教はイスラムの法共同体を滅ぼすような攻撃があった場合には反撃としてのジハードを肯定している
 ・しかしジハードは、最高宗教指導者(カリフ イマーム)がそれを宣言しないとジハードにならない
 ・今のところ、つまりオスマントルコ以降なので、1920年以降、カリフは空位だが、いずれにしても、宗教指導者がジハードをまず一度も宣言したことがないということが、世界にとって非常に幸せなこと
 ・もし、最高指導者によるジハードが宣言されたら、非常に恐ろしいことになることは確実
 
 ○キリスト教

 ・僕(宮台さん)が中二の時に祖父が他界
 ・(祖父は)長老派(カルヴァン派)の教会に通う受洗した信者
 ・お葬式のときに、運命を変えたとも言える言葉をおっしゃる牧師さんに出会う
 ・「どんなに良い事をしても、だから天国に入れるとは限りません、なぜなら神は自分が天国に入りたくて良い行いをする者を好まれないのです、利他に見える利己を神は喜ばないのです

 ・例えば福音書を読みましょう、よきサマリア人の例え(善きサマリア人の法Good Samaritan laws⦆)、強盗に襲われて倒れている人がいる、瀕死、そこへラビ(聖職者)が通り過ぎる、レビ人(祭式部族)も通り過ぎる、なぜ?律法、戒律に書いていないから、ところが、当時イスラエルの北辺のサマリア人(被差別民)は、思わず駆け寄って助け起こし、近くの宿屋に担いでいって、有り金をぜんぶはたいてなんとかしてやってくれ、一週間したらまた戻る、足りない金は全部払うぞ、というエピソード

 ・このラビ(レビ人)、サマリア人、あなた方が隣人にしたいと思うのは、どの人でしょう
 ・実験心理学では、似たようなシチュエーションでの実験が繰り返されていて、人間はゲノム的(遺伝子的に)100%、この場合だったらサマリア人を隣人にしたいということがわかっている
 ・なぜかというと、自分が救われたくていいことをする人間ではなくて、思わず内から湧き上がる力に駆られていいことをする人間、これを我々は好む
 ・それは、イエスもまた同じ、主なる神もまた同じ、その例を出された牧師さん  

 ・中二だったけれど、当時、変な紛争校だったこともあって、図書館に籠っていろんな本を読めたのだが、当時連載が始まったばかりの田川健三が師事していたエチエンヌトロクメ…などを読み続ける
 ・これは、プロテスタント神学の系列で、19世紀末以降にできる"史的イエス論"というもの(ヒストリカル

 ・これは一般に多くの人に誤解されているが、イエスの言葉を復元することを目的としていない、それは不可能
 ・しかし、当時の各地域の歴史的状況、人々が置かれていた苦難、そして福音書を重ね合わせて想像できる、人々がイエスの言葉から得た体験、これが復元できる、言葉は正確には復元できない、しかし人々がイエスから得た体験は復元できる、そのことによってなぜガリガヤから1年少しかけて行くようになったのかが理解できる

 ・最近の史的イエス論の最先端は、ヨハネ福音書研究である 
 ・日本では大貫隆さんが一番有名
 ・成立順に言うと、マルコルカマタイ、これらは共観福音書という


 ・ヨハネによる福音書は、これらと違って特殊、それはどうしてかというと、イエスの神格ぶり⋯まずは前提の話から

 ・ローマ帝国の行政文書にイエスという男が存在した記録がある

 ・だから今日の最先端の研究ではイエスは少なくともある時期実在した人間だった(という前提で)

・他の三福音書がイエスの神格を正当化するための奇跡物語を重視している

 ・それに対してヨハネ福音書は、"はじめに言葉ありき"から始まる

 ・これは、イエスの言葉は初めから神の言葉だったということを宣言するもの

 ・そのあと、それがどういうことだったのかということを記述するこの福音書において、イエスの言葉は"なになにを思い出させた"とか、イエスの言葉を聞いて、弟子たちが人々は"なになにを思い出した"という"思い出す"という言葉がたくさん使われているということに注目する

 ・つまり神の言葉と人の言葉の違うところはどこなのか?ということが書かれているんだ、ということが最先端の史的イエス論におけるヨハネ福音書読解ということになる


 ・ベネディクト16世(カトリック前教皇)が、ユルンベルク大学の神学部の教授として進学研究の論文を出していて、教皇になられてからもたくさんの本を出されている

 ・その中で神強制は否定されている 

 ・その代わりに二つの要素を強調している


    1.見る神~私がみなを裏切らないようどうか見ていてください(見る神への祈り)

      人間は弱い、善いことをしよう思っても、疲れたり、怖かったりして、ヘタレる、そのときにご先祖さまが見ているから、お天道様が見てくれてるから頑張れる、ということがある

      そういう見る神の延長線上に主なる神もおられます 

     つまり、救う神ではなく、強める神

     人を助けようとするみなさんを強める神


   2.原罪~私はあなたのものです、私は人助けだと思っていろいろやりましたが、それは本当によいことだったのかどうかわからないので、間違っていたら自由に裁きをお与えください

     これは重要な祈り


     浦沢直樹のMonsterという漫画、天馬博士が瀕死の子供を救った(鉄腕アトムではお茶の水博士の手を経て、世界を救うヒーローになった)

      ところが、モンスターでは天馬博士が身分を捨ててまで救った子供がそのあとヨハンという名前の悪魔、世を滅ぼすモンスターに成長していく

     そこで、ヨハネ黙示録がしばしば参照される

     (黙示録というのは、世界の終わりで神が現れるという発想)

     良かれと思って救った人がその後、ヒトラーになったり、モンスターになったりすることはありうる、でも我々は自分が成したことの先々まで見通しながら何かをするってことはできない

     これは原罪=元々の罪ということの時間的な軸 


     あと原罪にはもうひとつある

     それは私が皆を裏切らないようにどうか見ていてください

    "皆"って、誰ですか?という問題

    

     ベネディクト16世が対談した社会哲学者のハーバーマスがこの問題については、重要な提起をしている

  

    例えば電脳化した人間、人間化した電脳、遺伝子組み換えで人間化した哺乳類、遺伝子組み換えでモンスター化した人間、今だったら生成AIが充分にみなさんの想像を刺激してくれるだろう


  あなたにとっての仲間って、人間のことなんですか?という問題、人間って、何を意味してるのか

  人間よりも人間的な改造哺乳類やAIがあったとして、人間なのにどう見ても人間的とは言えない悪魔的な存在がいたとして、あなたがたはそれでも人間であるから悪魔的であっても、人間的なAIとか人間的な哺乳類を退けて、それを救うんですか?という問題


  つまり、皆という境界線はどこにあるんですか?

  これはもっと学問的に数理的に細かく話せるけれど、ざっくり言うと我々は、さっきの時間軸とは違って空間軸によって、皆のために頑張ります、あなたの言う皆って誰?と必ず問われるようになる


  例えばキリスト教徒が、キリスト教徒たちだけを皆と思うということは、あっていいことか?

  

  神は分け隔てしない

  だからあなたたちは、分け隔てをしてはいけない

  何があっても


 ~略~


57:07


  キリスト教徒から反省すべきところがある

  どこを反省すべきかを再確認する


  見る神への祈り

  私が皆を裏切らないように見ていてください

  しかし、皆というのが誰のことなのかということは、原罪という観点からいって、未規定


  ということは、異教徒は悪と思考停止でくくるそのうえで攻撃することも許されないということ

  異教徒だって、皆かもしれない、皆であるでしょう、なぜならば、分け隔てしないのだから、神は


 そもそもイスラム教徒の営みなくして、スコラ神学もなかったし、近代もなかった、これは歴史的に確定していること


  もし間違っていたら裁きを受けます、つまりこれも、善だと信じたことが信じたからといって善だというわけはないということ、従ってそれが善かどうかは善なる営みをしたあとも、ずっと生きている限り、観察する必要がある


  どちらも(見る神、原罪)、徹底して独善を退けている

  もし独善を退ける立場を皆さんが貫徹していたら、もしくはかつてのキリスト教徒が貫徹していたら、長きに渡る十字軍というのはありえなかった

  

  イブを唆した蛇は悪ですか?

  主なる神が全能なら、蛇による唆しも、主なる神の意思です


  それに相応するベネディクト16世の記述がある


  全能の神は、自らの似姿としての(似姿というのは、神と同じような善悪判断をするのだが、間違っている、大抵)人間を作ったというが、なんで不完全な似姿なんて作ったんだろう


  全能の神が、その全能な力を利用して不完全な人間を作った

  これが、主なる神の意志


  なぜ、作ったの?

  ベネディクト16世は、非常に面白い答えを出している


  全能の存在が全能な何か(つまり完全な何か)作る動機はありません


  トートロジーだから、だって全能なんだから、完全なるものを作れるに決まっている


  だからそんなものは作らない

  全能の神が不完全な人間を作ったのは、"ハラハラしながら、見ていたいから"


  さらにハラハラしながら見ているだけでは収まりがつかず、人間と(つまり不完全な似姿と)話してみたくなって、イエスを送りました、とおっしゃっている


  一点、疑問があった

  神は、(頑張っている自分を)見ていてくれるのかな?

  なんで、見るべき理由なんて、全能の神にはないのに


  ベネディクト16世によればある

  (神は)ハラハラしながら見ていたくて作ったから


  だから我々は、見られていることをアテにして、強められていいんだよ!というのが、ベネディクト16世の発想


 ・19世紀の後半の有名なブロテスタント神学者シュライエルマッハー、これが中性スコラ神学以来の弁神論を整理した

 

  ・弁神論というのは、神様を弁護する議論という意味で何について弁護するのかというと、神が完全なら悪なんかあるはずないじゃないか、という議論から、いやいや、それでも神は存在すると弁護するという意味


 ・そこでシュライエルマッハーは、二つの系列の議論を区別した


  ・ひとつは、全能の神の計画なのだ、我々は全能ではないので、神の計画の一部は悪に見えるだけだある、だから我々の目から悪に見えるものも神の計画にとって必要だからそれはあるのだ、これを"主知主義"(知識を主なものとするインテクチュアリズム

  

  ・これに対して全く違った発想、それは全能の神は全能なんだからなんでも意志しうる、人間から見て悪であろうがなんであろうが、これを"主意主義"(意志が先立つという意味で、ボランタリズム


 ・アウグスティヌスは、主意主義(プラトン的)

 ・トマス・アクィナスは、アリストテレスの影響を受けたので、非常に世俗の知識と矛盾しないように物事を言うという意味で、主知主義

 

 ・全能の神は感情的

    なんで全能の神が人格神としてイメージされるのか?

   元々、主なる神という言葉は、どこから来ているなか?


 ・カナンの地の辺境にあったバアル神信仰から来ている

   バアル神のバアルは、主という意味

・バアル神は傍若無人の神


・カルヴァン派がかつて言っていたように、神は天地創造した時に誰を救い、誰を救わないか両方を完全に決めているみたいなことはありえない

 ・聖書を新約聖書だけでなくて、旧約聖書まで遡ると全能の神は、気まぐれで感情的だということがわかる

 ・さもなければイエスを送り込んだりしないでしょうというふうにしていろんなものをどうすれば一貫したイメージとして描けるようになるのかってことを考えていただきたい

 ・そのときに、十字架の贖罪というのがある、イエスが十字架にかかった、そのことが何を意味するのか

 ・いろんな神学者がいろんなことを言っているけれど、大事なことは私を見ていてください、見てくだされば頑張ります、しかし間違っているかもしれません、そしたら裁いてください、何をやったって間違っているかもしれないんだから、やらない方がいいんじゃないの?という考え方がありえる

 ・でも、十字架の贖罪の意味は(僕の考えでは)、そうかもしれなくても、やっぱり天馬博士は、モンスターヨハンになるべき存在を救うべきだった、救ったあと、失敗したなと思ったら、命を賭けて責任を取るというふうに振る舞う、天馬博士はそういうあるべき構えというのを示している


 ・イスラム教とキリスト教を比べると、キリスト教は非常に不完全だ、共観福音書がまとめられるまでに400年かかっている、その時捨てられた福音書は80、外典というが、どの福音書が採用され、どの福音書が捨てられるのか、必ずしも必然的だったとは言えないかもしれない


 ・三位一体説、これはベネディクト16世が頭を悩ませている、解釈の難しい考え方

 ・これをどう解釈するのか、ベネディクト16世の解釈は素晴らしい

 ・三位一体のような未規定な不完全な教義がある、それを必死になって考えることによって、思考停止に陥らずに前に進むことができる

 ・キリスト教のアドバンテージがあるとしたら、教義学的に不完全であって、いろいろ考える余地があり、今迄も考えられてきたけれど、まだまだ考え抜かれるべきところがあるから、それをできたら一人で考えないで、仲間と議論しながら、一人一人の知恵って浅くて、人間自分の都合のいいように解釈しがちっていう意味では浅ましい存在なので、いろんな人たちの知恵を集めて、こうなんじゃないか?ああなんじゃないか?というふうに議論し続ける、巷で何が言われていたとしても、議論し続ける


 ・第二バチカン公会議の話、これは専門的な話だが、そこで議論が大紛糾、カトリックは一枚岩であったようで全然違ったんだってことがわかる

 ・それは対立が顕になれば、教会の存在が危うくなり…という意識防衛の話がある

  

 ・宗教と平和について考える場合、イスラム教徒に比べて好戦的だったキリスト教の歴史をふまえる


 ・さらになんでそんなに好戦的だったのかというと、何が善かわからないから過剰になるという面もある


・でもそのよくわからない未規定の部分を使って、徹底してものを考えるということが平和、あるいは平和だけではなく、人類、僕たちの良き将来に僕ら自身を導いてくれるんじゃないか、というふうに思う