科学的視点 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  先週、喧嘩した二人は、片方が夏休みに入ってしまいしばらくの間、顔を合わせていなかった。

  今日、偶然、用事があって、二人が私の部屋に同時に入ってきたのだが、お互いに笑顔だったから、仲直りしたんだなあ、と、安心する。
 
  いつも我慢していた方に、言いたいこと言っちゃえよ。とけしかけた手前、さらに二人の溝が深まるようなことになったら、それなりの落とし前を私がつけなきゃならんと勝手に思っていたのだった。
 
  でも私には、二人がそこまで子供だとは思えなかった。
  だって、言いたいことをぶちまけた彼女は、相手に自分の正しさを押し付けようとしたわけでなく、自分が嫌だったことを正直に言っただけだし、ぶちまけられた彼女の方は、何か揉め事が起きた時に必ず自分の何が悪かったのかを私に尋ねに来るからだった。

  お互いに感情的に任せて言い合いになったとしても、そこにあるゴールは分断ではないということを二人は無意識に知っている。

  互いにある価値観や経験の違いを認め合いたいから、傷つけ合うことを恐れず、彼女たちは勇気を出したのだ。

  どうやって仲直りしたのかは知らない。
  どちらが謝ったのか、どちらの正しさが採用されたのかに興味がないと言えば嘘になる。

  でも、彼女たちがお互いに分かり合えたとは思えないけれど、何らかの仮の妥協点を見つけたのだろうから、それでいいじゃないかと思う。

  みーちゃんが週末に果物狩りに行こうと誘ってきたことを二人に話して、行かないか?と行ったら、二人とも行きたい!と喜んでいた。

  一人の後輩は、子供が小さいから私たちが一緒に遊びに行く時に自分が子連れなことにいつも恐縮する。
 
  確かに私は、人見知りだし、他人の子だと思うと気疲れもするが、みーちゃんは他人の子だろうとなんだろうと、悪いことをしたら叱りつけて、まったく遠慮がないので、私にとっては楽だった。

  でも最近は、後輩の子供と遊ぶ機会が多いから、私の方も気遣いがなくなり、そこまで疲労することもなくなっている。

  要は、慣れたのだ。

  共働きをしながら、子育てをするのは大変だ。
  後輩は、家族の時間に時々煮詰まるのだと言った。
  夫婦とも、同じだけの仕事量でありながら、家事や育児の負担はやはり母親である自分の方が大きいと感じる。
  でも、旦那さんの方はそれをやってやっているというスタンスで、時々一人になりたがるらしい。

 だから、私やみーちゃんが、子供たちを含めて遊びに誘ってくれるのは嬉しいと言っていた。
 確かにやんちゃな男の子二人を一人で、一日中面倒を見るのは、疲れるだろう。
 仕事は休みでも、家庭では休みにはならないのが、今の母親の実情だった。

 私は子供が正直好きではない。だから、初めは子供が来ると、釣りも山も自分の好きなようにできないから窮屈に感じていた。

  でも、みーちゃんが誘うから仕方ないと思っていたのだけど、一緒にいるにつれ、子供はやっぱり面白い視点をもってるな、って感じるようになった。

  みーちゃんは、私がひとり好きで、面倒なことが嫌いなことを知っているくせに、勝手にいろんな人を誘って、あげくに私に準備を丸投げする。

  理由はどうせあんたは、暇なんだから。だった。

  みーちゃんは、しっかりしているようで、末っ子気質満開だ。
  甘えどころをわかっているというか、人に頼るのが上手い。

  連絡を取り合っていても、途中で寝ちゃうし、基本、自由だ。
  それは私もそうなので、その辺は気が合うのだろう。

  みーちゃんは支配者気質っぽくも見えるけど、案外そうでもない。
  支配と言ってもいろいろある。
  単純に命令に従わせる支配の仕方もあれば、いつもいつも必要以上に優しくして、自分に一切逆らわせないような支配の仕方もあるのだった。

  みーちゃんは、どちらかと前者なのだが、私がそれは従いません!とか、それ、おかしいだろ。と言うと、ちゃんと理由を聞いてくる。

  互いに気持ちに余裕がないと、危うく喧嘩になりそうな場面もあるにはあるが、そういうときはお互いになんとなく距離を置くのだった。

  たぶんそういうことは、他の人みんなに言える気がした。
  気が合わない人がいても、関わり合うことで、互いに心地よい距離感が掴めてくる。
 
  無理だと思う時は、相手が悪いんじゃなく、自分のコミュニケーションスキルがまだ足りていないのだと思うことにもしている。
  嫌いという感情を抱えるのは、実はとても疲れる行為だ。

  みーちゃんはまだ人を裁きがちだから、嫌いだと思ったら、必要以上に近付かないようにする。 
  それは相手はもちろん、自分をも守る方法なのだろう。

  成田さんが自分が人に深く関わらないのが、人をジャッジするのが嫌だからかもしれない。と言っていて、その気持ちは私もよく理解できる。

  だけどそれは、本当は人が好きな、というか好きになりたい裏返しなのかもしれなかった。
  好きと嫌いはよく似ている。

  しかし、人を嫌いになってしまう自分の心の狭さをしっかりと自覚した先には、人への興味が生まれるのだった。

  感情はただの物質だった。
  それを物質的に扱う科学的な目線はどこか人間らしくなく、冷酷にも感じた。

  けれどもそれは時に、人にとって優しい分析だ。
  見えない心の傷を言葉にして可視化することで、思考し、知恵に昇華させてきたのが、人間だろう。

  思いやり。そういう文字がまるで自分を支配するツールのようにそこらじゅうに溢れていた。

  一言に思いやりと言っても、それは結局どういうことなのか。
  誰かに優しくすれば、誰かには優しくできないじゃないか。
  
  自分の意識の裏に必ずある無意識みたいに、見えない場所を見ようとしてきたのが、ない場所をあると仮定することが、本来の科学的視点だったようにも思う。