深かったのだろう眠りから、不意に目覚めさせられたようなときに起こる、あの絶望感のような不安感のようなものは、なんなのだろう。
まるで、地面深くから、突然掘り出されたミミズが暴れるみたいな意識だ。
私という存在の定義がわからなくなって、怖い。
バラバラになった意識を急いで集めに行った。
私を構成する意識の断片を無理やり繋ぎ合わせて、それはゲシュタルト崩壊する。
鼓動が高鳴って、呼吸が乱れる。
感情に名前を付けて、やっと意識はそこに集中した。
崩壊してしまった意識を集めて、私を再構築したのは、恐怖と不安という感情だったのだ。
自分の意見を否定されて、怒りが湧いてくるのは、他人の意識にのることで自分を認知している部分が崩壊するからだろうか。
世界に認められている自分を軸にしているということは、自分は世界の一部だという認知だ。
そこを切り取られてしまえば、自分は失われる。
バラバラになって、離れて行きそうな自分を必死に繋ぎ止めたくて、恐怖を怒りに変換させて、身を任せた。
風景をぼんやり眺めているときの自分の意識が半分吸い取られるような感覚が好きだ。
それは、眠りから突然呼び戻されたときにバラバラになった意識の状態と、よく似ているが、少し違う。
断言して、自分の形が定まると同時に、自分の世界が閉ざされる孤独を言葉を持たない風景が癒してくれる感覚だった。
自分は水であり、火であり、風であり、土である。
自分が自分ではなかった頃のことをぼんやりと思い出しそうとしているみたいだった。
生きることの認知が、死への抵抗であるから、命はこんなにも虚しいのだろう。
欲を悪とするグノーシス主義と、死が安らぎであるとするニルヴァーナに、そんなに違いはあるだろうか。
誰の目にも明らかな肉体の死に自分の存在意義は揺らいで、見えない精神を認知しようとする。
それはどこまでも、一人芝居のようなものだ。
自分を自分と定義するものがなく、自分の意識が自分でしかわからない以上、何もかもが不確実であるのだから。
ドロドロのスープが、あのサナギの中にある。
それを思う度に、自分ってなんなんだ?と心から不思議に思う。
短い夏の光を浴びて、あのトンボは、あのセミは、あの蝶は今、何を思う。
自分という認知がない部分で、死はただただ天国になる。
私は生きたいんじゃない。
悲しみと苦しみに付随して味わう、喜びや楽しさの落差に身を置いていたいだけだ。
