死をゴールにしなければ、てっぺんに君臨するのは肉食動物ではなく、死体を分解する微生物の方だからだ。
そう考えると食物連鎖の形は、ピラミッドではなく円になるのが正しいように思える。
見方によっては、食べるものと食べられるものの関係は、ひとつの図では表し切れない。
それなのに、食物連鎖と言われれば自然にピラミッドの形が思い浮かぶのだから、人間の関係性についても、この形が普通だと思ってしまうのは、自然なことかもしれなかった。
エゾシカは、ほとんどの時間を食べるためだけに費やしているように見えた。
それをぼんやり見ている私は、その時間を生産的な作業に費やしていない。
人間は、あらゆることを分けたがる。
それは人間の認知が、光と影のように相反するもの存在でできているからだろう。
それは互いに助け合うためにも使われるけれど、自分の欲望を満たすことにも使われた。
知るほどに好奇心は満たされるけれど、同時に怖さも増幅するから、守ろうとすればするほどかえって壊すことの方が多い気がする。
珍しいことに、眠っているエゾシカに初めて会った。
私が近づく気配に振り返るけれど、距離を詰められないことに安心したのか、その場から逃げることはなかった。
オオカミがいた頃は、エゾシカはその餌になって、オオカミがいなくなると今度は、植物は食べ放題になって増え過ぎる。
それを人間がオオカミの代わりになって駆除するけど、その原動力は善的な認知の環境保護ではなく、狩猟本能を満たすための悪魔的とも言える欲望なのだった。
死体を埋葬したときから、人間は死を拒絶したのだろうと思う。
野生動物たちの餌になる死体を見ながら、人は自分の死後の姿を想像した。
そこには自分の意識はないのに、その死体はいつまでも自分だった。
他人を自分に重ねることで、死んだあとでさえどう思われるかと生きているうちに考えることさえある。
眠ったらすぐに自分がいなくなってしまうような曖昧な意識というものに固執しているのが人間だ。
日が沈む前の一瞬の彩りの前で、生き物たちは影になる。
視覚が奪われていくほどに研ぎ澄まされていく感覚のことを思った。
薄明かりの中で、聴こえる音や触れる感触、味わう舌に鼻をくすぐる匂い。
もし、目が見えなかったら、こんなにも何かを奪い合う社会であっただろうかとふと考える。
目を閉じると一人では歩くことさえおぼつかなくて、誰かの手を取り、互いの残りの感覚を頼りに助け合うしかなくなるのではないか。
すると生き物は、太陽を背にして、真っ平らでありながら、真ん丸だ。


