年をとったオスは知恵がついているのだろう。
人影を認めると、木の影に隠れた。
ぴー!と一頭のメスが、警戒する鳴き声を上げると、群れは一斉に山の奥へと走る。
逃げ遅れた小さなメスに銃口を向けた。
おしりの辺りに銃弾が当たり、のろのろと歩みを緩めている子供を心配そうにメスが何度も振り返る。
しかしやがて諦めたように、深い森へ足早に消えて行った。
いつもの撮影場所のエゾシカたちは、私の姿を認めるとチラッと視線をくれただけで、すぐに目の前の草に夢中になる。
この場所には、猟師がいないことを知っているのだろうか。
しかし、警戒心の強いメスと子供の群れは、今日は姿を見なかった。
日が暮れても、ずっと顔を下に向けたまま、ひたすら草を貪り喰う。
冬のエゾシカたちは、毎日が生きるか死ぬかの瀬戸際だ。
除雪された道路の縁から生える枯れ草にさえ、車が行き来することも厭わず、その顔を埋める。
小さいけれど、若いメスの肉は柔らかい。
そう言って、一日走り回っても一頭しか捕れなかった貴重な肉を師匠は分けてくれた。
ロースとモモ、心臓とレバーをその場で切り取り、残りは森で生きる鳥やキツネたちのエサとなるのだろう。
ぬるま湯につけて血を絞ったレバーは、一切の臭みがない。
刺身に切り分けながら、師匠に撃たれたエゾシカの子の母親を思う。
心臓は、つい昨日まで明日を生きられることを望みながら、その鼓動を寒空の下で高鳴らせていただろう。
心臓は、レバーよりもしっかりした弾力で、どちらかというと内臓よりは、筋肉の部分の食感に近かった。
生きているということは、なんて残酷なのだろう。
舌で味わうレバ刺しには臭みがないはずなのに、エゾシカの解体を見た時の生臭い匂いが漂ってくる幻想がふと脳裏を横切る。
自分の中にある避けられない残酷さを思う時、どうしてかすべての生き物に対して、謙虚な気持ちが沸き起こるのだった。
エゾシカにレンズを向ける時のその瞬間に必死な命の営みを愛おしく思う脳の裏側には、レバ刺しが心地よい抵抗をもって歯茎を押し上げる快楽の記憶がしまわれている。
残酷な生命としての運命を忘れたときに人は、もっと残酷になるのだと何度も思うのだった。
自分が背負う残酷さを思えば、なぜ他の誰かを責めることができるのか。
師匠は、エゾシカを可哀想だとはまったく思わないだろう。
自分の中に眠る野生を何の罪悪感も持つことなく呼び覚まして、食べることと奪うことが同じく日常にあることを潔く認めているように見えた。
ぴー!
深い森の中で、師匠が銃口を向けると、エゾシカは一斉に走り出す。
その様子を一度だけ見たことがある。
冷酷で、残忍な眼差しで、躊躇いもなく引き金を引いたときに寒気が起きた自分の方に残酷さを感じたことをよく覚えていた。
自然を目の当たりにすると敬虔という言葉が思い浮かんだ。
人は想像し、思考するという部分で、共感という悲しみの影にある喜びを味わう。
痛みを想像できる自分で、生きることに許しを乞う。
明日も生き続けられることを祈る。
誰に?何に?
人間の力の及ばない領域にあるだろう、いつでも自分を奪われる側にさせる何かに。





