いつまでも同じ人のことを悪く言うやつはキモいし迷惑なんだよな | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

「学校も行かないで、
   部活動もやらないで、
   家でゲームばっかして、
   遊んでるだけのやつが、
   なんでオレらよりリア充なんだ!
   納得行かねー!」

部活帰りの息子達の話題によく上る
中学時代のある同級生の男の子は
通信教育の高校を選択していて、
身体は学校に通っていません。

彼の発信するSNSには
彼女も出来たし、
勉強も苦痛じゃないし、
今が人生で一番楽しい!
というようなことが
綴られているみたいなんです。

息子達の心に沸き起こる
僻みも妬みも承知の上の
彼への悪口だということを
私も分かっているのですが、
それがどんどんエスカレートして
聞くに耐えない罵り言葉になってくると
我慢できずについつい
口を挟んでしまうのです。

「じゃあさ。
   おまえたちも今すぐ、
   部活も学校も辞めて、
   親を説得して、通信教育やれば
   いいんじゃないの?
   親が反対するなら、自分で
   バイトでもなんでもしながら、
   自立すりゃいんじゃね?
   義務教育は終わってんだからさ、
   自分が本気でやりたいことがあるなら、
   人の悪口ばっかり言ってないで、
   今すぐ行動に移せば?」

そう私がストレートに言うと
彼らは力なく笑って、
「そうなんだよね。
   結局オレらは、アイツが羨ましいくせに
   アイツみたいにみんなと違うことしてでも
   自分のわがままを通せるほど
   突き抜けられない
   中途半端なやつなんだよな。」
なんてことを答えたりするので、
私はその素直さに
キュンとなるのですが。

息子は毎日、
常に何かにイライラしているように
見えます。
ゲームの通信速度の遅さや
私の小言や
自分があまり好きではない同級生の
ツイートに至るまで。

それが頂点に達すると
物に当たることが
私は見ていてとてもイライラするし、
嫌いなのです。

息子にそれを告げると
私には物をぶつけていないのだから、
家でイライラするぐらい
放って置いて欲しい。と
言うのです。

壊れないように加減をしながら、
物に当たるのも、
人を傷つけることを避けるために
大声を出して、
やり場のない感情を
吐き出すことも
確かに悪いことではないのかもしれません。

けれど逆に考えて?と聞きます。
私がイライラして、
物に八つ当たりしたり、
大声でバカヤロー!と毎日
叫んでいたら、
あなたはどう感じるのですか?

息子は押し黙ってから、
それは自分にぶつけられていないとしても、
確かに嫌かもしれない。
と呟きました。

親の背中を見せることか大事だとか
聞いたことがあるんですけど、
言葉にしなくても、
自分が自分の人生に誠実でいれば、
子供もそれを自然に身につける…
なんて、娘の特性がわかってから、
全然信じなくなりました。

共感や観察力という
潜在的に備わっている人の能力には
個人差があるし、
ましてや、背中を見て学べ!なんて、
私だってできるかどうか
わかりません。
察しろ、慮れ。
それが通じない娘に
私は自分の持っている
言葉のすべてを使って
必死に説明してきたのでした。

しかし娘とは反対の
人の心の機微に
敏感な息子に
私が甘えてきたことも
わかっているのです。

おまえは言わなくてもわかるだろ?
おまえだけはせめて
私の手を煩わせるなよ。
そんな無意識の私の気持ちが
彼に伝わってしまっていたのだとも
思います。
それは今となると申し訳なかったなと
思います。

だから余計に
ウザがられても無粋でも、
これは大事だなと思うのならば、
自分が使える精一杯の言葉で
息子に向き合いたいのです。

理解されなくても、
心が通じなくても、
それが例え自分の自己満足に
終始してしまったとしても。

まずは言葉にしなくちゃ
伝わらない。

言葉のやり取りを重ねていくと
次第に言葉がいらなくもなります。
そしてそのうちに
相手がわかっていると
お互いに甘え出して、
実は伝わっていなくて、
誤解し合うこともあります。

それでも自分の"わかりたい"を
一番に優先したいんです。
事実を"知りたい"ではなくて、
心を"わかりたい"。

気持ちを共感することは、
相手の心の荷物を
半分背負う思いやりだと思ったりもします。

気持ちが落ち着いたあとには、
自分の行動や言動を
客観的に振り返ることができるんだと
信じる。

私は息子を信じています。
私が真剣に付き合ってきた人たちのことを
信じていたいのです。

それは自分がしてきたことが
間違いでも、罪に似たことでも、
今とこれからの自分が、
迷いながらでも、傷つきながらでも、
肯定していけることを
信じることと同じだからなんです。
自分を好きになるとか
嫌いになるとかそんなんじゃなくて、
自分がただここにいるということを
自分で許しているということなのです。