雑 音 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

自由にしていいよ。
好きなことをしていいよ。

そう言われるとどうしていいか
わからなくなる人もいるんですよ。
そして、何をしていいか
わからないことが娘さんを
不安にさせるのです。

先日、娘が一科目だけ再試験に
落ちるかもしれない。
再再試に落ちると留年になるから、
その時はもう一年やり直してもいいか。
と聞いてきました。

私の元を離れてから、
彼女は毎月何かをやらかして
私をヒヤヒヤさせます。
特に試験については、
すこぶるいい結果を出す時もあれば、
苦手な科目はひたすら苦手らしく、
かろうじてギリギリなラインを
行ったり来たりしているようです。

娘は私の言うことをほぼ鵜呑みにするので
私が彼女をコントロールしてるんじゃないかと
思ったりもします。

冒頭の言葉は
発達障害の専門家のような方に
娘を見ていただいたときに
教えてもらったことでした。

確かに娘は、
授業よりも休み時間の方が
苦痛なようでした。
クラスメイトは銘々に友人と遊ぶけれど、
娘は誘われても、その遊びのルールが
すぐに理解できなかったり、
裏にある会話の意図を
読み取れなかったりして、
誰かと過ごすこと自体が
苦痛のようでした。
私はそれまで娘に
誰でもいいから遊びに加わりなさい。
誰かと話すことも大事なんだよ。などと
言っていたのです。
けれど、そのことを理解してから、
一人でいることが楽なら、
一人で本を読んだり、
または何もしなくたって、
別に変なことじゃない。
一人でいて、友達がいないと思われても
それで誰かに迷惑を
かけてる訳じゃないのだから。と
告げることにしました。
そう言ったときの娘の
ホッとした顔は今でも
忘れられません。

娘を集団の中に入れてから、
私はずっと綱渡りしてるみたいだった。
できないこと、周囲から浮いてしまうことを
見せつけられることにいつも
ショックを受けていた。
でもそんな私を見て、
傷ついていたのは娘の方だった。

今でも何をしていいかわからなかった娘に
看護師という職業を勧めたことが
本当に良かったのか迷うのです。
偏った興味や不器用さが
この職業に向いているとは
思えなかったりするのです。

私が昔、事務員として病院で働いていたとき。
もし、自分が看護師だったら。と
何度も思いました。
忙しさもあるのでしょうが、
患者さんを邪険に扱う看護師が多くて、
私はいつもイライラしていた。
確かに勝手な人もたくさんいるけど、
そんな言い方はない。
といつも悲しかったのです。
人を助けられるとか、やりがいがあるとか、
そんなんじゃなくて、
命を間近に感じられる仕事をして、
娘に自分が人に頼られることの喜びを
知って欲しいとも思ったのだろうか。
いや、違う。
女が自立できる職業のひとつ。
正直に言えば、それが一番の理由です。

娘はそれでいい。と言いました。
私が敷いたレールの上をとりあえず、
今、彼女は歩いている。
しかし娘にも私にとってもそのレールは
決して平坦なものではなく、
やっぱり、スリル満点なのです。

一個一個やるしかないな。
先を見ることよりも、
今を最大限努力してクリアしていこう。
やれないことは今までだってなかった。
おまえは、絶対にできる。
できなかったときにまた一緒に考えよう。

不安や落胆を見せない。感じさせない。
いや。私が感じないように私自身が努力する。
周囲の余計な雑音をシャットアウトして、
目の前のことだけに集中できること。
それが娘の才能なのだから。
私の偏見と気分が娘の雑音に
ならないように、
私にも日々、努力が必要なのでしょう。



否定された経験が多いと
人は他人の言葉に素直に
耳を傾けることができない。
それは、自分がそのままで充分に
愛されるべき存在であるという意味を
理解できないことに等しかった。

例えばカラスの行動を眺めてみる。
彼らは食べるためだけに
命を奪う訳ではない。
まるで遊んでいるように
捕らえた獲物を振り回して、弄ぶ。
それを裁くものはいない。
いのちというものは
本当はこの上なく自由であるのだと思う。

私達は裁かれたくないから、
他人を傷つけないのではない。
他人が傷つく場面を想像し、
自分の痛みに転換してしまうから
傷付けたくないのだ。

自分を傷つけることも、
他人を傷つけることも、
自然の中の法則に従えば
本来、誰にも裁くことは
できない事柄なのだと思う。

絶対的なルールがない中で、
暫定的なルールに従って人は、
かりそめの安心感を得ているだけに
過ぎない。