ヨハネ5:17 わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。



夫が変な夢をみたと言って話しをしてきました。その夢は、雲の中ですべてのものが進行方向に進んでいるのに夫自身だけが後ろを向いて反対方向に行こうとしているものでした。その夢は本人は明確に覚えていてここはその内容を書けないのですが、とにかく不思議としか言えない夢だったそうです。私は、神さまの働きと人との関係をその夢から感じました。神さまは私たちの思いや計画を遥かに越えて働いておられます。


今日はイエスが安息日にベドサダの池のほとりに長年病気を患ってそこに座っていた人を癒されたという箇所の一節です。ベドサダの池は波が動くときに病気の人が入ると癒されると信じられていました。しかし、その病人は一人で池に入ることができなかったので入れてくれる人をずっと待っていました。本当に助けを必要としている人がそこにいても手を差し延べない無関心さがその人の病気を長引かせたのだと思います。イエスはその人を癒したのですが、その人はユダヤ人に安息日にイエスが癒しを行ったことを伝えたところ、ユダヤ人は安息日に仕事をするなんていけないとイエスを責めます。冒頭の箇所はそのときにイエスが言った言葉です。


わたしたちは何かルールがないと生きていけません。でも、ルールを絶対にして人を裁いてしまったり、無関心を装うもっともな理由にします。そのルールは原則であってどうしても守れない状態にある人たちがいることを忘れてはいけません。そんな状態にまでしてしまった私たちの偽善的な律法主義を神は見抜いておられます。ルールはわたしたちがしあわせになるためにあるのであってルールが先にあるからではありません。もっとも、神は完全なのでまどろむことも眠ることもなく、神のご計画を着実に進めておられます。自分を守るため自分のルールに囚われて立ち止まる私たちに神は、その働きにみんなが参与できるように私たちに働きかけておられます。その働きは愛そのものです。神さまの愛の働きに身を委ねて生きていきたいと思います。



イザヤ59:15-21
まことは失われ、悪を避ける者も奪いさられる。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのに驚かれた。主の救いは主のみ腕により、主を支えるのは主の恵みのみ業。主は恵みのみ業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として包まれた。主は人の業にしたがって報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。


これはわたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においた私の言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる。

旧約聖書の神さまはよく怒ります。新約聖書の神さまも怒りますが、旧約聖書であっても新約聖書であっても神さまの怒りは私たちが正しく生きるための愛なのです。ときにそんなに怒らなくてもと思いますが、それほどにまで神さまは私たちを気にかけてくださっています。


今日の箇所の最初で正義とありますが、ヘブライ語でツェダカーといい、原義は、施しです。つまり、お互いに支えあいつ、助けあうことで愛の行為です。私の祖母が、争いは、自分のことしか考えなくなったら起きるとよく言っていました。争いは、もっともな人間の限定された正義感で起きることが多く、その裏には自己中心性が潜んでいます。つまり、私たちのとがです。そのとがは、無関心という冷静さを装い、争いの中で犠牲になるものたちを苦しめます。もし、お互いが関心を持ち合って足りないところを補いあえば争いは起きないのに。と神さまは思います。神さまは、怒りの炎を愛の炎に変えるように私たちにみ言葉を与えられ、愛に満ち足た世界を作るように励まされます。神の愛の炎はわたしたちの自己中心性を焼き尽くして、愛の力を与えてくれます。神さまは自分を傷つけたり、相手を傷つけたりするくらいなら神さまを傷つけたらいいと言ってイエスさまは十字架にかかられました。神のみ言葉は命がけで、命そのものとなって私たちにずっとずっと受け継がれていくのです。パレスチナや世界で起きる争いが止むように祈っています。
申命記8:3 人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

年末に風邪をこじらせて何も食べられず一週間過ごしました。かなり疲れが溜まっている中で頑張りすぎたからかもしれません。体は動けなかったけれど、頭は元気だったのでもっぱら聖書を読んで念祷していました。考えようによっては一番好きなことをさせてもらったのかもしれません。いつも、み言葉は、私を元気づけてくれます。お腹の調子が悪くてご飯が食べられなかったけれど、み言葉はご飯以上に生きる力を与えてくれます。だから、み言葉がなかったら私は生きていけないことがわかりました。み言葉は命のエネルギーなのです。その一週間で、あまりにもしんどくて一日だけなにもできずぼんやりとしたときがありました。その日はなにか生きた心地がせず、空虚で生きたいとも思わないような日でした。なにか見捨てられたようで今まで感じたことのない闇でした。なにもかもできなくただいるだけ。その日は不思議でした。み言葉が奪われたら、きっとこんなに苦しみと空虚感に襲われるのだと思いました。今までみ言葉は、ただパンと同列に並んで必要なものだと思っていましたが、今回の不思議な病気でまずみ言葉があってパンがあるのだと教えられました。私はパンのためみ言葉をおろそかにしていないかと心に問い掛けています。み言葉だけに生きるように神さまは私を訓練してくださっているのだと思います。


昨今、行き先が不透明です。あちこちで争いが起き、災害も起きてどうなるのかと不安になります。しかし、み言葉を食べて生きると、神さまは必ず動くことのない命をくださり、希望の地に導いてくださいます。いろんなことが起きても過度に動じることなく、毎日を生きようと思います。