イザヤ59:15-21
まことは失われ、悪を避ける者も奪いさられる。主は人ひとりいないのを見、執り成す人がいないのに驚かれた。主の救いは主のみ腕により、主を支えるのは主の恵みのみ業。主は恵みのみ業を鎧としてまとい、救いを兜としてかぶり、報復を衣としてまとい、熱情を上着として包まれた。主は人の業にしたがって報い、刃向かう者の仇に憤りを表し、敵に報い、島々に報いを返される。西では主の御名を畏れ、東では主の栄光を畏れる。主は激しい流れのように臨み、主の霊がその上を吹く。主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる。


これはわたしが彼らと結ぶ契約であると主は言われる。あなたの上にあるわたしの霊、あなたの口においた私の言葉は、あなたの口からも、あなたの子孫の口からも、あなたの子孫の子孫の口からも今も、そしてとこしえに離れることはない、と主は言われる。

旧約聖書の神さまはよく怒ります。新約聖書の神さまも怒りますが、旧約聖書であっても新約聖書であっても神さまの怒りは私たちが正しく生きるための愛なのです。ときにそんなに怒らなくてもと思いますが、それほどにまで神さまは私たちを気にかけてくださっています。


今日の箇所の最初で正義とありますが、ヘブライ語でツェダカーといい、原義は、施しです。つまり、お互いに支えあいつ、助けあうことで愛の行為です。私の祖母が、争いは、自分のことしか考えなくなったら起きるとよく言っていました。争いは、もっともな人間の限定された正義感で起きることが多く、その裏には自己中心性が潜んでいます。つまり、私たちのとがです。そのとがは、無関心という冷静さを装い、争いの中で犠牲になるものたちを苦しめます。もし、お互いが関心を持ち合って足りないところを補いあえば争いは起きないのに。と神さまは思います。神さまは、怒りの炎を愛の炎に変えるように私たちにみ言葉を与えられ、愛に満ち足た世界を作るように励まされます。神の愛の炎はわたしたちの自己中心性を焼き尽くして、愛の力を与えてくれます。神さまは自分を傷つけたり、相手を傷つけたりするくらいなら神さまを傷つけたらいいと言ってイエスさまは十字架にかかられました。神のみ言葉は命がけで、命そのものとなって私たちにずっとずっと受け継がれていくのです。パレスチナや世界で起きる争いが止むように祈っています。