エフェソ1:7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を許されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。


新聞の記事を見ていると、セレブ鬱、シュガー社員、ネット右翼、だれでもよかった殺人など若者たちを形容する言葉に出会います。最近の若者は・・・。という批判は、いつの時代にでもあるのですが、こんな言葉を見ていると悲しくなります。もちろん、若者だけでなく、モンスター・ペアレントとか、切れる中年とかいう言葉も氾濫しています。それだけでなく、最近はすぐに病気や障碍という名前を付けてしまう傾向にあるように思います。何かカテゴリ化することで自分がいかにも正しい人間のように振る舞っているのです。病名や障碍名をつけることはその人が社会の中で共に生きるために周りが配慮する点は配慮してその人に関心をもって接していくためのもので、切り捨てるために名付けるのではありません。けれども、最初にある言葉は、そういう人たちを特別に面倒なものとして排除し、切り捨てて無関心であろうとする私たちの心の現われだと思います。私はそういう人たちがどうして出てきてしまうのか、その社会のあり方に原因があるように思えてなりません。テロも許される行為ではありませんが、テロリズムを生んでしまう社会が存在しているということも忘れてはなりません。最も、悪いことは悪いことなのですが、人が人として生きにくい社会にしてしまっている無関心さや冷淡さにもっと目を向ける必要があります。そこに人間の罪があるのだと思います。


しかし、罪だと分かっていてもそうして生きざる得ない人間の弱さがあります。分かっているのだけれども、そうしないとやってられない、でも、やった後に後悔して、私はだめな人間なんだと自己否定していくことの繰り返し。とにかくどんな状態であっても生き抜くためにはわらにでもすがるのです。人間は正しく生きたいという欲求があります。でも、そう生きられない自分がそこにいます。年配の人たちからみれば若い人たちは弱いとか、甘えているとかいう人もいます。でも、そう非難する前に、そういう人に関心をもって、人生を歩む中でよい方向に歩めるように助けてあげればいいのです。最初からどう生きていいかわかる人なんていません。自分たちはもっと苦労して自分で育ってきたのよという人があるかもしれません。でも、自分一人で育ってきた人はだれもいません。むしろ、どんなに辛い状況であって、一人で生きてきたと思えるぐらい、目立たずさりげなく援助してきた人たちがいるはずです。なにせ、自分がここまで生きてこられたのは、神様が目に見えず、恵みをいっぱい送ってくださったからなのです。


神様は、人間が弱くてどうしようもない存在であるとご存じです。そんな人間を切り捨てようとはなさりませんでした。それより一緒に歩いて、苦しんで、とうとう命までささげてくださいました。これは恵みとしかいいようがありません。私は、神さまの前に正しくあろうとせずに素直であろうと心がけています。だから、神さまの前ですぐに弱音を吐くし、泣くし、文句もいうし、怒るし、自分のどうしようもない気持ちに正直でいます。でも、神さまはそんな私を一番理解し、最後にはみ言葉で励ましてくださるのです。こんな弱い私が生きてこられたのは、神様の一方的なお恵みにしか他なりません。どうしようもない気持ちや囚われる気持ちがやってくると、「イエスさま」と思うだけでも恵みはやってきます。神様の恵みは限りないのです。

マルコ1:9-11 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川で洗礼を受けられた。水の中から上がるとすぐ、天が裂けて霊が鳩のようにご自身に下って来るのをご覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が、天から聞こえた。



今日の日曜日は主イエス洗礼の日でした。イエスは罪もないのに洗礼をお受けになりました。しかも、不完全な人間である洗礼者ヨハネから水による洗礼を受けられました。その後、天から聖霊を与えられました。イエスは、完全だったけれど、不完全な人間が生きるべき道を自ら示してくださいました。それもだれもが救いに預かれる方法を自ら示してくださいました。神はひとりひとりが自分で神に近づけるようにその人に相応しい人生をくださっています。しかし、人間は、自分では神に近づくなんてできないほどに神は敷居が高いと思い込んでいます。しかし、神に至る方法をイエスを通して可能な形で具体的に示されたのです。イエスは私たち人間のペースで生きることを敢えて厭わずに、むしろ、進んでしてくださいました。ですから、人間の苦しみ、悩みなど、その気持ちを共にして、私たちを神に近づけるように導いてくださるのです。そんなイエスと共に歩めるのは本当に幸せなことだと思います。

ガラテヤ3:14-27


こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。


社会には守るべきルールがあって、ルールがないと一緒に生きていくことはできません。でも、ルールは、時に人を苦しめ、孤立化させてしまう危険性があります。ルールはよい生活をお互いに送るために必要だけれども、それに囚われるとお互いを苦しめてしまう諸刃の剣なのです。


中学生のときに聖書を読んで愕然としたことがあります。「愛しあいなさい」や「許し合いなさい」など書かれていることはいいことなんだけれど、実際の自分とかけ離れていて、聖書が勧めるような生き方はできないと思ったからです。書かれている内容は崇高な理念や概念でいいお話なんだけれど、自分はできないからどうしようもないなあと思っていました。そう思っていながら、「どうしてそれくらいできないの?」と人には完璧を求める私もいました。人間は正しいことを元々求める欲求があると同時にそれができないという苦しみもあると悟りました。そして、それは、もともと人間の力ではできないことなんだという思いに至りました。ずいぶん大人になってからキリスト教が道徳ではないということが分かってきたのを思い出します。


しかし、この体験が大切なんだと思います。神は私たちにあるべき理想型を見せて、人間がその理想を完全に実現できないということを知らせ、神の恵みにすがって生きるようにされたのだと思います。神は私たちが神様のように完全にできないことを知っておられます。しかし、そのできない部分を神の愛で包んでくださるのです。神は私たちに「どうしてできないの?」と詰め寄ることはしません。精一杯生きているわたしたちが神に近づけるように助けてくださろうと温かい眼差しで見守っておられます。神は、時に真剣に叱ってくださり、時に温かく抱きしめてくださいます。


人間には限界があります。理想通りに生きられない人の苦しみを一緒に担ってくださるイエスといっしょに歩むなかに生かされている恵みを感じるのです。信仰による義とは、「精一杯生きてるなあ、それでいいんよ。わたしがいるから大丈夫だよ。」というイエスの声に励まされて精一杯に答えていくことだと思います。自分がよい行い、正しい行いができるのはただ一方的な神の恵みに他ならないのです。