エフェソ2:14 実に、キリストは私たちの平和であります。


私は聖書が好きですが、いつも読んでいて感情的な喜びがあるわけではありません。聖書を読んで何も感じないときもあります。また、逆に、しんどいなあと思うこともあります。それでも、聖書をできるだけ読むことだけは、できるかぎり続けたいと思っています。習慣になってしまえば、聖書を読まないと、なんか心地悪くなってしまいますし、食事を取るのと同じような感じに近いかもしれません。自分がどんな状態であっても、御ことばに触れられるのは自分の内になんともいえぬ動かぬ岩のようなものがあるからだと思います。感情は日々移り変わりますが、その岩は変わりません。これはキリストの平和というものなのでしょう。感謝です。


もし、キリストの平和がなかったら、自分が揺れ動いてしまって、軸となるもののところに戻れないので、自分が何者か分からなくなり、空虚感の中で「私はなぜいるのか」という問いを叫んでいるでしょう。それだけではなく、自分の存在を確かめるため、人を傷つけ、自分を傷つけ、荒れ果ててさまよっているかもしれません。人間は本来、空虚なものに過ぎないのです。これが人間の本質なのです。空虚感を埋めるために、何かに依存し、規則や道徳に縛られたりします。でも、それらは、偶像であって、絶対なる正しさではありません。人は何かでこの空虚感を埋めないと生きていけないのです。この空虚感は神の愛によってのみ埋められます。


しかし、人は空虚であることを認めたくないのです。もし、認めてしまったら自分がなくなってしまうのではないかという不安と孤独におそわれるからです。空虚感を認めないで生きざる得ない人間の弱さを神は、イエスの十字架を通して神の愛を知らせてくれました。神はだだ、その空虚感を神の愛だけで満たすために私たちに空虚感を贈られました。その空虚感は、要石であり、キリストの平和であります。その要石があって、キリストにあって私たちは成長します。そして神のみ住まいとなります。


ただ、神の愛を求めるだけでキリストの平和に満たされます。わたしたちはだれしも、神の愛を求める力をいただいています。そして神の愛の器になる可能性をたくさん秘めているのです。キリストの平和がわたしたちの心に満たされますように。

エフェソ2:8-10

事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです。なぜなら、私たちは、神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。私たちはそのよい業によって歩むのです。


最近、いろんな問題があっても、囚われないで淡々と生きていこうとする私があります。あまりにも感じすぎるとしんどいから、適当に関わって冷めて生きていくあきらめというか、無関心というか、綺麗にいえば、「神さまにおまかせします」という思いがあるように思います。自分なりに状況を分析し、何もしない理由にしています。冷たい頭が必要であったとしても、他者のことを思って、自分がしんどくなるまで苦しみ、本気でいっしょに歩むという姿勢があってこそイエスに従うということなのに、それができません。そんなとき私の信仰はなんなのかと考えることがあります。きれい事でごまかしているだけかもしれないと思うときがあります。


しかし、この思いの中に自分の傲慢さを見ます。クリスチャンだからよい業をしなければならないとか、よい業ができて当たり前とか、思っている私があるのです。そして、善い業ができている私を誇っているのです。確かに信仰は、行動を伴う必要がありますが、その行動は自分の力でするものではなく、神さまの恵みの結果なのです。だから大きな働きであろうと、小さな働きであろうと神さまの恵みには違いありません。善いことをなす力も信仰も神様から与えられたものです。ただ、与えられたものに忠実に心を込めてさせていただけることに感謝しています。



エフェソ1:23 教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。

教会というと、教という字があるせいか、堅苦しく、敷居の高いイメージをもってしまいます。なんとなく、教えに従って清く正しく生きている人たちの集まりに思います。しかし、もとの言葉では、エクレシアというギリシア語で、単に集まりという意味だそうです。漢字でいえば、会とか社とかいう意味で教の意味はありません。それなら、教会はイエスさまのように生きたいと願う人々の集まりなのだと思います。それはイエスさまと繋がっており、一つなのですから、キリストの体なのです。だから髪の毛の先までキリストの命に満たされています。ですから、教会がイエスさまを忘れると、何もなくなり、この世の中の最も悪いことも起こってしまうこともありえます。教会がよい働きができるのはイエスさまが命となっておられるからです。それは教会につながる一人一人の中にイエスさまが中心におられるかどうかということです。


最近はいいも悪いも個人の自由という考えから共同体が崩壊しつつあるように思います。人は一人で生きていけないのにあたかも生きていけるかのような幻想を抱かせる考えや社会のシステムが存在します。その中では自分が一番偉く思えるような錯覚に陥ります。そうなると、他者との対話がなくなり、孤立化し、そのうち、自分の存在を否定するようになってしまいます。人は自分より優れた完全な神を忘れると、空虚感と孤独感に襲われ、耐えられない苦しみの中で生きていくことになるのです。だから、神と人々と繋がる共同体を作っていかなければいけないのです。教会は建物ではありません。そこに集う人々が、日々生かされる家族や会社、学校、地域でも教会を作っていく役割があるのです。教会に来てくださいとか何もそこでキリスト教の宣伝をすること以上に、今与えられた場所でキリストを表せるように祈り、どこにおいても教会を作るということを求められています。それはキリストの愛によってすべてが満たされた教会が広がっていくことになのです。これが宣教の真髄です。教会はその使命を自覚してこの世の中の真の共同体の形成のために祈らないといけないと思います。一人一人がキリストにあっていつも満たされるよう祈っていきたいです。