イザヤ書43:19-20

 見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる。野の獣、山犬や駝鳥も私をあがめる。荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ、私の選んだ民に水を飲ませるからだ。


聖書に駝鳥も出てくるのかと思って、ふと、思い出したことがあります。

去年、オーストラリアに行ったとき、エミューに再会しました。実は、一昨年もオーストラリアに行って初めてエミューにあったのですが、そのとき、エミューに食べ物が入っている袋を襲撃されそうになりました。よほどお腹がすいていたのでしょうか。私はエミューが怖くなりました。しかし、今回、エミュー自身はおとなしく、私がさわっても、暴れたりしませんでした。それでも、二番目に大きな駝鳥なので鳥としては結構大きいのでそばでみるとちょっとびっくりします。お腹がすいていると、攻撃的になるんですね。私も不機嫌になりますが。空腹な攻撃的な動物たちも神さまの流す大河の恵みには満足するということでしょうか。


ずっと、行き先の見えない状態が続いています。この先、どうなるのだろうと思います。自分で何かを始めようにも何も見えない状況です。ただ、御みことばだけが頼りなのですが、み言葉も、日々与えられるものを食べないと、次の日まで持たないのですね。マナみたいです。日曜日に御ことばをため込むことをしても、だめなのですね。

その日に与えられた御ことばを食べてまた、次の日は次の日で与えられたものを食べるようにして生るようにされているようです。


荒れ野や砂漠は、行く先の見えない不安な場所です。以前、イスラエル、エジプトにいったとき、荒れ野や砂漠をバスで走っていると、同じような景色、行き倒れる動物たちを見て、帰れるのか不安に駆られました。私もここで残されたならどうなるのだろうと思いました。生きていく糧を与えられなければその荒れ野をさまようこともできません。その意味でも、生きるため糧としての御ことばを与えられていることは最高の恵みなのでしょう。


神様は荒れ野にずっと私たちをおくわけではありません。御ことばを私たちに与え、御ことばを目印にして荒れ野に道を敷いてくださいます。そして、砂漠に大河を流れさせるように恵みを与えられます。恵みが働くときには実に大河のように一気に水が流れるのです。そしてすべてが潤うのです。そこで得た恵みは永遠に尽きることはありません。神様は一度幸せになった者を不幸に陥れることはなさりません。実に神様は私たちの幸せしか願っておられないからです。


それでも、私は不安に思ってしまいます。ごめんなさい。神さま。でも、神様は不安に思うからこそ神さまの平安を感じるのだとおっしゃいます。だから、不安を忘れないようにしなさいと。気力がなくなって疲れ果てるからこそ神の力を畏れることができるのだと。人間のどうしようもない感情も神様の恵みを感じるための準備の器であると臣ます。


そう、そのままで素直にありのままに生きていきなさい。それだけですべてが恵みになっていくからとイエス様が諭してくださいます。感謝です。





エフェソ3:14-21

3:15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。
3:16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、
3:17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
3:18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、
3:19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。
3:20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


聖書にはたくさんの祈りが載せられています。今日の箇所は私が好きな祈りです。ゆっくりと声を出してみことばを食べるように読むと、何ともいえない平和な気持ちになります。自分のことばで祈るのもいいけれど、みことばで祈ることも信仰を強めてくれます。私は我慢強いようにみえてすぐに弱音を吐きますので、ややもすると、しんどくて自分の言葉で祈れないのです。祈っていて自分の祈りが聞かれてないように思って疲れはてることもあります。でも、みことばで祈ると、自分の思いを遙かに超える思いに急に引き上げられます。これぞイエスさまの愛。人の知識を遙かに超えた愛を知ることができるのです。自分は弱くてどうしようもないけれども、その内にある神様の愛が私を強めてくれます。


イザヤ書43章1節 ~2節ヤコブよ、あなたを創造された主は/イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。/あなたは私のもの。/わたしはあなたの名を呼ぶ。/水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。/大河の中を通っても、あなたは押し流されない。/火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。


ここにあるように神様わたしたちを呼んでくださっています。一緒にいるから、恐れないで堂々と歩みなさいとおっしゃっています。神さまがわたたちの内におられるのでわたしたちはかみさまのものだからです。だから自分の弱さから疲れることはあっても、内なる神さまの言葉は疲れることも倦むこともありません。このみことばに励まされて毎日を生かされているのです。人知を超えた神様の愛は私たちの思い、願いを遙かに超えています。その愛に満たされて神の豊かさのかけらを日々いただき、ますます、神様にあって豊かにされたいです。イエス様の広くて、長くて、高くて深ーい愛に感謝です。

イザヤ42:14-16 わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく、息を吐く。わたしは山も丘も廃墟とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない。


最近、神さまがわからない。何を考えておられるのか。何をなさろうとしているのか。わたしの理解を超えています。あまりにも何をなさろうとしているのかわからないので疲れてしまいそうです。人はわからないものに耐えられない弱さをもっています。


そういえば、以前、ある教会の牧師が最近の人々は説教をわかりやすくしないと聞かないと歎いておられました。ちょっと昔ならわからない話しであってもなんとなくありがたい話しとして人々は納得していたのに変わってしまったみたいです。大学の先生も、わかりやすさを過度に求められるようになり、生徒はわからないことに耐えられなくなっているように思えます。

けれども、神の基準はわかりやすさとはほど遠出いものです。神さまの働きは意外だらけ。人の思いを超えているのでわからないのです。けれど人は神さまをわかりたいのです。でも、神さまがわかったところに神さまはいません。分かれば逃げていかれます。人には耐えられないほど無限な方なのです。


けれども、神さまは人の弱さを知ってある程度みことばを通して分かる恵みを与えてくださいました。実に、神さまの働きが始まる前は嵐のように激しくあれ狂い、産みの苦しみがあり、悪いものを焼き付くされ、思いを超えたことが次々、起きます。それまでの沈黙と静寂を破るように。その苦しみの後、神の恵みの業が一挙に働きます。苦しみが大きければ、大きいほど、自分で解決が困難なことほど、次に働く恵みは、驚くばかりのものになります。


そして、その苦しみと困難をも恵みになるのです。

なかなか道の見えないとき、疲れはててしまいそうなときに、みことばに意識してすがりつくようにしてなんとか生きられる恵みを今、噛み締めています。


みことばこそわたしの道しるべで、一筋の光なのです。