イザヤ42:14-16 わたしは決して声を立てず、黙して、自分を抑えてきた。今、わたしは子を産む女のようにあえぎ、激しく、息を吐く。わたしは山も丘も廃墟とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。目の見えない人を導いて知らない道を行かせ、通ったことのない道を歩かせる。行く手の闇を光に変え、曲がった道をまっすぐにする。わたしはこれらのことを成就させ、見捨てることはない。


最近、神さまがわからない。何を考えておられるのか。何をなさろうとしているのか。わたしの理解を超えています。あまりにも何をなさろうとしているのかわからないので疲れてしまいそうです。人はわからないものに耐えられない弱さをもっています。


そういえば、以前、ある教会の牧師が最近の人々は説教をわかりやすくしないと聞かないと歎いておられました。ちょっと昔ならわからない話しであってもなんとなくありがたい話しとして人々は納得していたのに変わってしまったみたいです。大学の先生も、わかりやすさを過度に求められるようになり、生徒はわからないことに耐えられなくなっているように思えます。

けれども、神の基準はわかりやすさとはほど遠出いものです。神さまの働きは意外だらけ。人の思いを超えているのでわからないのです。けれど人は神さまをわかりたいのです。でも、神さまがわかったところに神さまはいません。分かれば逃げていかれます。人には耐えられないほど無限な方なのです。


けれども、神さまは人の弱さを知ってある程度みことばを通して分かる恵みを与えてくださいました。実に、神さまの働きが始まる前は嵐のように激しくあれ狂い、産みの苦しみがあり、悪いものを焼き付くされ、思いを超えたことが次々、起きます。それまでの沈黙と静寂を破るように。その苦しみの後、神の恵みの業が一挙に働きます。苦しみが大きければ、大きいほど、自分で解決が困難なことほど、次に働く恵みは、驚くばかりのものになります。


そして、その苦しみと困難をも恵みになるのです。

なかなか道の見えないとき、疲れはててしまいそうなときに、みことばに意識してすがりつくようにしてなんとか生きられる恵みを今、噛み締めています。


みことばこそわたしの道しるべで、一筋の光なのです。