エフェソ5:6-20
5:6 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下るのです。
5:7 だから、彼らの仲間に引き入れられないようにしなさい。
5:8 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。
5:9 ――光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。――
5:10 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。
5:11 実を結ばない暗闇の業に加わらないで、むしろ、それを明るみに出しなさい。
5:12 彼らがひそかに行っているのは、口にするのも恥ずかしいことなのです。
5:13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。
5:14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」
5:15 愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。
5:16 時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。
5:17 だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。
5:18 酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、
5:19 詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。
5:20 そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。

優柔不断な私は自分で物事が決められません。でも、一度決められると、途中で止めることなく、続けられます。昔は聖書を自由に読んでいたころ、読んでも、だらだらと読んでいることも多かったのですが、ある時から、教会で朝・夕の礼拝で読まれる聖書箇所を読むようにしています。聖書の箇所が決まっているので、その箇所についてゆっくり黙想できます。人によりけりですが、私の場合、ある程度、ルールを作って読むほうがいいみたいです。聖書をじっくり読む習慣も付くので最近聖書を読んでないとかいう心配がなくなります。聖書の箇所をゆっくり食べるように読みます。結構疲れます。その後何度も読んで、黙想して、祈って、心に響いたことを素直に書いています。神学的にどうかとかいうことでなくて、私が日々どう生きていくかを目的に読んでいます。よく生きるために聖書を読んでいるのです。御ことばは私の口と心にあるということですね。

さて、イスラエルが停戦を告げました。ガザでは多くの犠牲者が出ているとの報告を毎日聞きます。歴史的な政治的な複雑な理由があるのですが、理由がなんであれ、報復の連鎖がとぎれることがないのは心が痛みます。報復の基準は善悪の判断から来ます。私は仮に自分たちが正しくても、相手に報復しないほうが全体の益になると思うのです。人間の正義感から来る報復よりもみんなにとって損か得かを選んでお互いにとってよい道を求めるほうが、いいのではないかと思います。自分のことでいっぱいのときは、人の話を聞けません。だから、それに輪をかけるように、正義を説明しても、相手は聞きません。とうとう、正義の暴力で押さえつけることになり、相手をより追いつめ逆上させます。言われたら言い返す、やられたらやり返す、この中に人間の弱さや限界があるのです。わたしは近頃思うのです。仮に相手が自分のことを悪く誤解していて自分に攻撃してくることがあっても、議論して争うよりは相手にそう思わせておくほうが周りにも得かもしれないと。相手が冷静に受け止められるようになったら、そのとき和解をすればいいと思います。仮に悪い噂から誤解されても、それが原因で騒がれたら、光に当てられたとことになるからです。言うのもはばかるようなことに光が当てられれば、神はあらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。最も暗い闇が光となっていくのです。復讐は神様の仕事です。その仕事を人間がしてはなりません。また、神は何もしてくださらないと享楽主義に走ってしまうのも違います。

とはいうものの、人間は待てません。正しいものを求める力があるゆえにしんどいのです。イスラエルの歴史を見ても報復の連鎖です。人間に直接正しさを求めて闇に引き込まれることの繰り返しなのです。正しさは神のみにあるのに見えないから不安になってしまいます。正しさをもって行動するとき、相手に正義という名で相手を支配しようとする思いがないか、見つめる必要があります。支配は神のみがします。人が支配するとき暴力を生みます。時が必ず与えられます。すべてのことが明るみになって行きます。それまで辛くてエネルギーも消耗しますが、それでも、私たちの命が毎日与えられるなら、それ自身が神さまの計画の中にあるという意味だと思います。無理せず、焦らず、神様に素直でいればいいのだと思います。神様のご計画は私たちの思いを越えてはかりしれないのです。こんなに弱くてどうしようもない私たち、報復しあってぼろぼろになるよりも、十字架にかけられたイエスさまを仰ぎ見て生きたいと思います。一時は屈辱的な状態になってすべてに負けたようになったイエスさまは、永遠に復活され、生きておられます。その恵みのゆえに全てのことが感謝に変えられるのです。
エフェソ4:29
悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げられるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。



この言葉、ちょっとどきっとします。わたしも夫も大阪人なので普段、際どい冗談を言って楽しみますが、大阪人は困ったもので他の地方に行っても周囲がどきっとするような会話をしてしまうところがあります。いやいや、悪い言葉だらけでどうしましょうと思います。けれど、大阪には本当に相手が傷ついてしまうことは言わないというルールがあります。きついこと言ってるようで言葉遊びをしているだけなんです。あくまでも、相手と楽しむための遊びなんです。基本は相手を楽しませなあかんというサービス精神なのです。相手が元気になってくれたらなんでもいいんです。


福音はよい知らせという意味です。だから、相手があってこその福音です。だから、相手が元気になれるように語ることこそ大事だと思います。


クリスチャンはときに福音を語りたいという思いが強すぎて相手のことを忘れてしまうときがあります。本当にいいものだから大阪のおばちゃんのようにあめちゃんあげたいのはよく分かるけれど、相手がどういう状態で何を求めているか知らないと自己満足になってしまうなあと思います。


ああやこうやと福音を説明したり、説教したり、議論したり、マニュアルにそったような宣伝よりもまず相手によく聞いて相手の言葉でシンプルに福音を語れたらなあと最近思います。福音宣教はあくまで相手がいてなりたつもの。相手と丁寧にむきあって自分の言葉で福音を語るとき神さまが働かれるのです。がむしゃらに伝えたい気持ちを抑えてまず相手に聞き、相手が一人で神さまに近づいていく長い過程の中でほんのわずか、そのお手伝いをさせていただくという姿勢を大切にしたいなあとつくづく思います。




エフェソ4:16 キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補いあうことによってしっかり組み合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造りあげられてゆくのです。


今は、私は教会に行きますが、イエスさまを信じてから約20年近く、聖書はよく読んでいましたが教会には行きませんでした。別に教会がいやだったからではありません。教会がどんなところなのか今ひとつピンと来なかったからだと思います。教会はいいお話を聞いて心が癒されるとぐらいにしか認識していなかったのかもしれません。なんか、人は自分で気づかないと、大事なものを大事だと認識できないのですね。福音を伝えるときに、相手のペースにあわせて、相手と歩調を共にし、一緒に悩み、苦しんでいく地道な宣教を私は大事にしたいと思っています。

もちろん、御ことばを伝え、教えることも必要ですが、一方的な独断になってはいけないと思うのです。


少し、話しはそれましたが、私が教会に行こうと思ったきかけは、大学生のとき、養護学校での教育実習のときでした。私はまだ、知識も経験もなく、授業をするにはまだまだ未熟なものでした。あるとき、実習で授業をしなければならず、教案を書きました。何度も何度も先生に訂正をされ、なんとか、授業ができたという感じでした。授業当日、私は授業をする中で重度の障碍のため動くことも話すことも十分でない生徒が、初めて”おはよう”と言ってくれました。びっくりしました。一緒にいた先生たちも、びっくりしました。私はとくに自分の知識や経験もなかったのに不思議な経験が起きました。自分でも何がなんだかわからなくて動揺してしまいましたが、そのとき”これぞ教会”という言葉が心に響きました。その後、帰って何があったのか、よく祈ってみました。幻想かと思って何度も神さまに尋ねました。でも、同じ言葉が響くだけでした。あまりにしんどくて仕事以外は何もできないくらい疲れ果てたのを覚えています。ある日曜日とにかく、何かにつれられるように教会に息ました。それが教会に私がしっかりつながった始まりになったのです。


今、もう一度このときの経験を思い返してみています。教会はキリストの体なので、それぞれが神様に与えられた役割を果たしていくときに、この世の中では、弱く小さくされた者たちもその中から神様の栄光を表す器になっていくのだと思うのです。それは人間の思いを超える形で実現されていくのです。教会は神さまの国に限りなく近づくことができる恵みを与えられています。教会をつなげるものはキリストの愛です。それがなければ、教会は教会になれず、むしろ、この世の中で最も悪いものになってしまいます。


どんなに美しい礼拝をしてもなに立派な社会活動をしても、このキリストの愛がなければ、むなしいと思います。しかし、不十分に思える礼拝でも、大きな社会活動ができなくても、隣に居る人と一緒にいて、その人を気に懸け、必要とあれば、話に耳を傾け、悩むことのような本当に些細な親切でもキリストの愛から出たものであれば、それの不十分さは補われ、完全なものとなるのです。いつもキリストの愛に戻ることこれこそ教会をつなげ、私たちを成長させる原動力なのです。そしてこれがわたしたちを日々生かしていくのです。