この前項籍の


『垓下の歌』


やったから。






大風吹きおこり




雲高く舞い上がる






威武を四海に示して




故郷に帰る






この上は 勇猛の士を得て




四方の守りをいざ固めん








これは時代でいうと、


項籍を破って7年後、


劉邦63歳ん時。




黥布の乱を平定したとき。




「大風沸き起こり…」


この一句が意味するものは


いろいろ論争があったと。




「威武を四海に…」


これは黥布を討伐したと。




「この上は…」


なんか不安そうだね。


何に怯える?

「レッド・クリフ」まだみれん。


が少し気になったので。




諸葛亮が火計の前に


風向きを変えるため


祈祷するって。




よくよく考えようじゃない。




どんな超人だ。




実際は長江は通常は


一定方向に吹くんだけど、


時期によって変わる日が


あるらしい。




中学ん時先生が、


そのこと言ったたんだけど、


一つ残念だったのは、


その事を、


「亮が教えた」って。




まぁない訳じゃない


かもしれんけど、


決めつけどうよ。


そもそも周瑜だって


長江流域に赴任してた


時もあっただろうし、


黄祖攻めん時に


それくらい調べていても


おかしくないだろうに。




黄祖攻めで江陵


にも行くわけだし、


その時代で教科書の


兵法書とかでも、


まず地形を調べる


とかあるだろうに。




大体さ諸葛亮を神に


してどうすんのさ。

続き






陳寿が彼を評して


言うには、






「諸事に細かく気が付き




一つ一つ根本について




調べる。名目に見合う




だけの実績を要求し、




偽者は寄せ付けない。






遂に国中が皆、




畏れながらも亮を愛した。






刑罰は厳しかったが、




誰も怨まない。心遣いが




公平で、前もっての戒めが




はっきりしていたからである。




政治の仕方をよく知った天才、




管仲・蕭何の類といえよう。








しかし、毎年のように軍勢を





動かしながらも成功とまで





いかなかったのは、或いは





臨機応変の軍略は、





亮の得手ではなかった





のではあるまいか。








管仲・蕭何…どちらも昔の


        名臣。なぞらえる。








話それますが、




陳寿について




上の赤字は一説には、


陳寿の父が街亭での


敗戦で、馬謖が


罰せられる際に


参軍として従軍しており、


かれ自身も髪を


切り落とされる刑に


処せられている。


だもんでその恨みと


するものもある。




他にも陳寿については、




魏の名臣丁儀、丁?の


息子に、


陳寿「米一千石くれたら


亡き父君のために良い


伝を書いてやる。」と


申し出たが、断られたため、


伝を立てなかった。




とか


いろいろ悪い話が・・・。




が、清代にある人が、




「陳寿は街亭の敗戦に


ついては『馬謖が諸葛亮


の命に背いたため』と


明記しており、諸葛亮の


せいにはしていない。」




「諸葛亮の軍略に関しては


いろんな人が批判して


いるためこれもあまり


関係ない。」




「魏の文士のうち王粲ら


5人だけに伝を立て、


すぐれるものは王粲伝に


付記している。


随い、彼らに劣る丁儀らの


ために伝を立てるいわれが


ない」と。






個人的な意見としては、


陳寿は自己の恨みより、


「歴史家」として、客観的に


視ていたのではと。




中国においての「歴史家」は


すごいからね。司馬遷とか。




閑話休題。






政治、外交、政略において


優れてたんだろうと。


軍略はあまりなんかね。




戦の前に謀略をめぐらし、


出来事に臨機応変に対処


することは優れていたが、


軍勢を実際に動かし、敵を


攻め崩すとかに関してはあまり


だったんかね。




次へ

『三国志』の著者




陳寿が言うには、








「諸葛亮の宰相ぶりは、




人民を慈しみつつ掟を




示し、役人を取り締まる




のに臨機の制度により、




誠心を抜瀝し公平な道を




布いた。








忠義を尽くし当世(とうせい)




に益のある者は仇でも必ず




褒め、法を犯し怠慢なもの




は親戚でも必ず罰した。






罪に服し真情を吐露する




者は重罪でも必ず宥し、




言い逃れようと言葉を飾る




者はたとえ軽罪であっても




必ず罰した。






善行はどんなに些細なこと




でも必ず賞し、悪事は




どんなに軽かろうが必ず




咎めた。」








一旦。






瀝…汁をこしてしぼり出す




宥…ゆるす、なだめる 宥和


から続き。



『魏略』にいう、


諸葛亮が荊州にいた頃、


頴川の石広元、徐元直


汝南の孟公威らとともに


遊学した。亮が三人に


向かっていうには、


「君たちは郡太守、刺史


にはなれる」と言い、


三人が亮の望を尋ねるが


笑って答えない。




その後、公威が故郷を思い、


北に帰りたくなる。


亮は「中国には優秀な人物


が多い。遊び歩くのは何も


故郷の地には限るまい。」


と言った。




『魏略』


…魏を中心に書かれた歴史書




徐元直 名は庶


つまり徐庶




孟公元 名は建


後に魏に仕え征東将軍にまで


なった。






後の晋代末期の


歴史家 裴松之が


これに対して


言うには、




「『魏略の』この話は、


〈亮が公威のためを


思って言った。〉と


するのが正しい。




これをもし、


〈亮が自分のために


言った。〉とするならば、


『魏略』の作者は亮の心


を悟らぬものと言える」と。






つまり「諸葛亮が孟公威を


奮起させるためにわざと


あえて言った。」と。




このことを、例えば『魏略』


の作者が「自分のために


言った」とするなら、


「亮の心情が理解できて


ない」と。




そんな中で裴松之は『老子』


のなかから文を引用して、




「『人を知る者は智、


自らを知る者は明』と老子は


言うが、すべての賢人達人は


人を知ると同時に自分も知る。


諸葛ほどの見識のある人が、


己の分を知らぬわけがあろうか」


だと。





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